「御殿浜」。旧東海道は、もう少し琵琶湖の湖畔際を北上していましたが、現在は湖畔から離れています。この付近がもっとも琵琶湖に近い地点のようです。ここまで来て、琵琶湖と次第に遠ざかるのも残念! この案内板から右に曲がって湖畔に向かいます。「大津湖岸なぎさ公園」へ。
といってもこの辺りは、「瀬田川」への落ち口付近。広大な琵琶湖のほんのさわりの部分でしかありません。もっと北西方向はるかかなたまで湖面は広がっています。
左奥遠くに「三上山(近江富士)」の姿が。 「近江大橋」方向。
ランニングする人、散策する人が行き交う湖畔。・・・しばらく湖畔でのんびりたたずんで「東海道」へ。
「膳所城勢多口総門」跡碑。膳所の城下町入り。
曲尺手(枡形)のような道のようす。
京阪電車の踏切を越します。
西に向かってしばらく進むと、「若宮八幡神社」。
若宮八幡神社表門 一棟
この表門は、膳所城の犬走り門で明治3年(1870)の膳所城取り壊しの際に移築されました。大棟の背面に切妻造の両袖の屋根を突き出した高麗門で、正面向かって右側に脇門を設けています。門の規模は普通ですが、各部材の木割りも大きく堂々とした建物です。屋根は本瓦葺で、大棟の両端に鯱と鬼瓦をあげ、軒丸瓦には旧膳所城主本多氏の立葵紋がみられます。
後世の補修はかなりみられますが、膳所城の数少ない建物であるとともに、江戸時代初期の城門建築として貴重なものです。昭和53年(1978)2月に市の指定文化財となりました。
大津市教育委員会 平成5年(1993)3月
その先を右に曲がります。
旧東海道
東海道は、京都と東国を結ぶ、平安時代以来の幹線路線。江戸時代には、京都と江戸を結ぶ国内第一の幹線として、行き交う旅人でにぎわっていた。また、この道は西国三十三所観音巡礼の札所、三井寺と石山寺を結ぶ巡礼の道としてもよく利用された。
道は、今度は北へ。
その先、「瓦ヶ浜」駅構内の踏切を渡ります。
この付近では、旅人が休めるようにつくられた折りたたみ式ベンチがあるおうちをみかけます。
しばらく進むと、左手に「篠津神社」。この神社にも膳所城の「北大手門」として建てられたものが移築されています。
そのまま進み、突き当たりを左に曲がります。
角には石柱。「晴好雨竒亭址」。
奥村菅次寿景(1788~1840)膳所の名金工師初代菅次は湖東目川出身。湖を一眸する景勝のこの地に居を構え、金銀銅鉄器類をはじめ櫓時計、鉄砲などを製作した。頼山陽、貫名海屋なども屡々来遊し、山陽は晴好雨竒亭と名付け額を揮毫して与えた。53歳で病歿し唯伝寺に葬らる。墓誌は海屋の筆。
行く方向を望む。
行く手に踏切が見えたら、その手前を右折します。
しばらく直進すると、交差点の角に「膳所城中大手門跡」碑と解説板。
膳所城跡
ここから東方の膳所城跡は、徳川家康が関ヶ原の合戦の翌、慶長6年(1601)に大津城を移築させ、本多氏六万石の居城としたが明治に廃城となったもので、現在は本丸跡が公園として整備され桜の名所となっている。また、城門が膳所神社や篠津神社などに重要文化財として残されている。
この付近の町名は「丸の内」。公園のある湖畔地域は、「本丸町」。
ちなみにこの膳所藩。東京・墨田区と縁があります。
(HPより)
「錦糸公園の」北側、かつて「精工舎」の工場があった一帯が「膳所藩下屋敷」でした。精工舎の跡地は「オリナス」という複合商業施設に生まれ変わっています。地元として不思議な縁を感じます。
来た道を振り返って望む。
「屋根注意」。馬を止める輪止めもあります。
「和田神社」の先の二叉道を左へ。
住宅地を通り、「響忍寺」のところを右に折れます。
右手の角にある酒屋さん。
100㍍程進んだら、駐車場のところを左折します。道はカーブして進みます。スーパーを右手にして進み、すぐ直角に右折します。意外に分かりにくい道筋。
振り返って望む。
「石坐神社」。2時15分過ぎ。
すると、後ろから自転車に乗ったおじさんがやって来て、
「どこから来たの? 」
「草津からです。」
「そうじゃなくて。東京からなの? 」
「ええ、日本橋からやっとここまで。」
「今日はどこまで行くの? 」
「一応、大津の先まで。」
「義仲寺はこのすぐ先だよ、10分くらいかな。」
「ありがとうございます。」
「この時間じゃ、京都までは無理だね。」
「そうですね、陽が落ちるのが早いし。」
「どこで泊まるの?」
「大津駅近くのビジネスホテルです。」
「で、明日は? 」
「ゆっくりと、と思って」
「だったら、この先、電車通りに出ても左に曲がらないで、三井寺に行くといいよ。あすは、石山寺というのもいいよ。」
「ありがとうございます。」
「ま、頑張ってね。」
実に親切に教えてくれました。行く予定はなかったのですが、こういう方に出会うとうれしいです。その方は来た道を戻っていきました。わざわざ追いかけてきてくれたんですね。
「飛び出し」坊や(新バージョン)も手を振ってくれます。
膳所城北総門跡碑が向こう側に建っています。ここで膳所城下町も終わりです。
ここにも曲尺手(枡形)が残っています。一本北にある広い道路は賑やかで商業施設なども並ぶ町並みのようですが、旧東海道は静かな住宅街の中の道です。
しばらく行くと、「義仲寺」となります。
1892~1910頃のようす(「今昔マップ」より)。○が膳所城北総門付近、↓が東海道。湖岸沿いを進んでいた。
現在のようす。旧東海道の北側に土地が広がっている。
といってもこの辺りは、「瀬田川」への落ち口付近。広大な琵琶湖のほんのさわりの部分でしかありません。もっと北西方向はるかかなたまで湖面は広がっています。
左奥遠くに「三上山(近江富士)」の姿が。 「近江大橋」方向。
ランニングする人、散策する人が行き交う湖畔。・・・しばらく湖畔でのんびりたたずんで「東海道」へ。
「膳所城勢多口総門」跡碑。膳所の城下町入り。
曲尺手(枡形)のような道のようす。
京阪電車の踏切を越します。
西に向かってしばらく進むと、「若宮八幡神社」。
若宮八幡神社表門 一棟
この表門は、膳所城の犬走り門で明治3年(1870)の膳所城取り壊しの際に移築されました。大棟の背面に切妻造の両袖の屋根を突き出した高麗門で、正面向かって右側に脇門を設けています。門の規模は普通ですが、各部材の木割りも大きく堂々とした建物です。屋根は本瓦葺で、大棟の両端に鯱と鬼瓦をあげ、軒丸瓦には旧膳所城主本多氏の立葵紋がみられます。
後世の補修はかなりみられますが、膳所城の数少ない建物であるとともに、江戸時代初期の城門建築として貴重なものです。昭和53年(1978)2月に市の指定文化財となりました。
大津市教育委員会 平成5年(1993)3月
その先を右に曲がります。
旧東海道
東海道は、京都と東国を結ぶ、平安時代以来の幹線路線。江戸時代には、京都と江戸を結ぶ国内第一の幹線として、行き交う旅人でにぎわっていた。また、この道は西国三十三所観音巡礼の札所、三井寺と石山寺を結ぶ巡礼の道としてもよく利用された。
道は、今度は北へ。
その先、「瓦ヶ浜」駅構内の踏切を渡ります。
この付近では、旅人が休めるようにつくられた折りたたみ式ベンチがあるおうちをみかけます。
しばらく進むと、左手に「篠津神社」。この神社にも膳所城の「北大手門」として建てられたものが移築されています。
そのまま進み、突き当たりを左に曲がります。
角には石柱。「晴好雨竒亭址」。
奥村菅次寿景(1788~1840)膳所の名金工師初代菅次は湖東目川出身。湖を一眸する景勝のこの地に居を構え、金銀銅鉄器類をはじめ櫓時計、鉄砲などを製作した。頼山陽、貫名海屋なども屡々来遊し、山陽は晴好雨竒亭と名付け額を揮毫して与えた。53歳で病歿し唯伝寺に葬らる。墓誌は海屋の筆。
行く方向を望む。
行く手に踏切が見えたら、その手前を右折します。
しばらく直進すると、交差点の角に「膳所城中大手門跡」碑と解説板。
膳所城跡
ここから東方の膳所城跡は、徳川家康が関ヶ原の合戦の翌、慶長6年(1601)に大津城を移築させ、本多氏六万石の居城としたが明治に廃城となったもので、現在は本丸跡が公園として整備され桜の名所となっている。また、城門が膳所神社や篠津神社などに重要文化財として残されている。
この付近の町名は「丸の内」。公園のある湖畔地域は、「本丸町」。
ちなみにこの膳所藩。東京・墨田区と縁があります。
(HPより)
「錦糸公園の」北側、かつて「精工舎」の工場があった一帯が「膳所藩下屋敷」でした。精工舎の跡地は「オリナス」という複合商業施設に生まれ変わっています。地元として不思議な縁を感じます。
来た道を振り返って望む。
「屋根注意」。馬を止める輪止めもあります。
「和田神社」の先の二叉道を左へ。
住宅地を通り、「響忍寺」のところを右に折れます。
右手の角にある酒屋さん。
100㍍程進んだら、駐車場のところを左折します。道はカーブして進みます。スーパーを右手にして進み、すぐ直角に右折します。意外に分かりにくい道筋。
振り返って望む。
「石坐神社」。2時15分過ぎ。
すると、後ろから自転車に乗ったおじさんがやって来て、
「どこから来たの? 」
「草津からです。」
「そうじゃなくて。東京からなの? 」
「ええ、日本橋からやっとここまで。」
「今日はどこまで行くの? 」
「一応、大津の先まで。」
「義仲寺はこのすぐ先だよ、10分くらいかな。」
「ありがとうございます。」
「この時間じゃ、京都までは無理だね。」
「そうですね、陽が落ちるのが早いし。」
「どこで泊まるの?」
「大津駅近くのビジネスホテルです。」
「で、明日は? 」
「ゆっくりと、と思って」
「だったら、この先、電車通りに出ても左に曲がらないで、三井寺に行くといいよ。あすは、石山寺というのもいいよ。」
「ありがとうございます。」
「ま、頑張ってね。」
実に親切に教えてくれました。行く予定はなかったのですが、こういう方に出会うとうれしいです。その方は来た道を戻っていきました。わざわざ追いかけてきてくれたんですね。
「飛び出し」坊や(新バージョン)も手を振ってくれます。
膳所城北総門跡碑が向こう側に建っています。ここで膳所城下町も終わりです。
ここにも曲尺手(枡形)が残っています。一本北にある広い道路は賑やかで商業施設なども並ぶ町並みのようですが、旧東海道は静かな住宅街の中の道です。
しばらく行くと、「義仲寺」となります。
1892~1910頃のようす(「今昔マップ」より)。○が膳所城北総門付近、↓が東海道。湖岸沿いを進んでいた。
現在のようす。旧東海道の北側に土地が広がっている。