そのまま進むと、「義仲寺」へ到着です。木曽義仲の供養塔、松尾芭蕉のお墓、さらに義仲の愛妾巴御前の供養塔があります。
義仲寺境内
義仲寺の名は、源義仲を葬った塚のあるところからきていますが、室町時代末に、佐々木六角氏が建立したとの伝えがあります。
門を入ると左奥に、俳聖松尾芭蕉の墓と並んで、木曽義仲の供養塔が立っています。
「木曽殿と背中合わせの寒さかな」という著名な句は、芭蕉の門人又玄(ゆうげん)の作です。境内にはこの句をはじめ、芭蕉の辞世の句「旅に病んで夢は枯野をかけめぐる」など多くの句碑があります。また、巴御前を弔うために祭ったといわれる巴地蔵堂もあります。
昭和42年(1967)11月に国指定の史跡となりました。
大津市教育委員会 平成4(1992)年3月
こぢんまりとした境内ですが、句碑やお堂など見所満載で、けっこう人が訪れています。
右奥は「翁堂」。
義仲公墓(木曽塚)。 芭蕉翁墓。
「巴塚(供養塔)」
木曽義仲の愛妻巴は義仲と共に討死を覚悟で此処粟津野に来たが義仲が強いての言葉に最後の戦いを行い敵将恩田八郎を討ち取り、涙ながらに落ち延びた後、鎌倉幕府に捕えられた。和田義盛の妻となり義盛戦死のあとは尼僧となり、各地を廻り当地に暫く止まり亡き義仲の菩提を弔っていたという。それより何処ともなく立ち去り信州木曽で九十歳の生涯を閉じたと云う。
行(く)春をあふミ(おうみ)の人とおしみける 芭蕉桃青
句碑の背後には芭蕉が。
すると、うしろで、老夫婦の奥さんの方が「あら、バナナがなっていないわね。」とつぶやきます。たしかに芭蕉は英名をジャパニーズ・バナナというらしく、あながちはずれてはいませんが・・・。
「いや、バショウですよ。松尾芭蕉ゆかりの木ですが。」
「だから言ったろ。いや、恥ずかしい。」とこちらを意識して、軽くたしなめるご主人。
それから話がはずんで、
「これは芭蕉の真蹟の碑ですね。行く春を近江の人と惜しみける。これはこの地らしいですが。」
「むこうにあった、古池や蛙飛び込む、の句も有名ですね。」
「その句は、こことは関係ないでしょう。たしか深川の芭蕉庵での作だ、と。」
「旅に病んで、は大阪に関係がありますね。」
「東海道を歩いていると、芭蕉の句碑にずいぶんお目にかかりました。」
「どうせなら大阪まで足を伸ばして下さいよ。」
「はい。」
「東海道63次でなくて、67次にすべきですよ。」(この方、「53」次ではなくしきりに「63次」と。)
「太閤堤とか寺田屋は一見の価値がありますから、ぜひ。」
たしかに「東海道五十七次」(京街道)というのがあります。今は京、大阪間を二日がかりで行けそうなようです。
「では、機会がありましたら。」
旅に病(ん)で夢は枯野をかけ廻る 芭蕉翁
古池や蛙飛(び)こむ水の音 芭蕉翁
木曽殿と脊中合せの寒さかな 又玄(ゆうげん)
境内には、19の句碑が所狭しと建っています。お寺というよりは「庵」という雰囲気。印象としては大磯の「鴫立庵」のような趣。なお、境内にある「無名庵」は、京都の落柿舎、大磯の「鴫立庵」とともに日本三大俳諧道場の一つといわれているそうです。
「史料館」脇の「義仲寺略誌」。
それによれば、このあたりは粟津ヶ原といい、琵琶湖に面した景勝の地でした。
治承4年(1180)義仲は信濃に平氏討伐の挙兵をし、寿永2年(1183)5月北陸路で平氏の大軍を打ち破り、7月京都に入ります。しかし、翌寿永3年正月、鎌倉の源頼朝の命を受けて都に上ってきた源範頼、義経の軍勢と戦い、利なく、この地で討ち死にします。享年31歳。
粟津ヶ原での「木曽義仲最期」の場面は、『平家物語』でも名高い場面での一つです。名調子の一節(声に出して読むと最高! )。
・・・
今井四郎只一騎、五十騎ばかりが中へ駆け入り、鐙踏ん張り立ち上がり、大音声あげて名乗りけるは
「日頃は音にも聞きつらん、今は目にも見給へ。木曽殿の御乳母子、今井四郎兼平、生年三十三にまかりなる。さる者ありとは鎌倉殿までも知ろし召されたるらんぞ。兼平討つて見参に入れよ」
とて、射残したる八筋の矢を、差し詰め引き詰め散々に射る。死生は知らず、やにはに敵八騎射落とす。その後、打物抜いてあれに馳せ合ひ、これに馳せ合ひ、切つて回るに、面を合はする者ぞなき。分捕りあまたしたりけり。ただ、
「射取れや」
とて、中に取りこめ、雨の降るやうに射けれども、鎧よければ裏かかず、あき間を射ねば手も負はず。
木曽殿は只一騎、粟津の松原へ駆け給ふが、正月二十一日入相ばかりのことなるに、薄氷張つたりけり、深田ありとも知らずして、馬をざつと打ち入れたれば、馬の頭も見えざりけり。あふれどもあふれども、打てども打てども働かず。今井が行方の覚束なさに振り仰ぎ給へる内甲を、三浦の石田次郎為久、追つ掛つて、よつ引いて、ひやうふつと射る。痛手なれば、真甲を馬の頭に当てて俯し給へる処に、石田が郎等二人落ち合うて、遂に木曽殿の首をば取つてんげり。太刀の先に貫き、高く差し上げ、大音声を挙げて
「この日頃日本国に聞こえさせ給つる木曽殿を、三浦の石田次郎為久が討ち奉りたるぞや」
と名乗りければ、今井四郎いくさしけるがこれを聞き、
「今は誰を庇はんとてか軍をもすべき。これを見給へ東国の殿原。日本一の剛の者の自害する手本」
とて、太刀の先を口に含み、馬より逆さまに飛び落ち、貫ぬかつてぞ失せにける。
さてこそ粟津のいくさはなかりけれ。
・・・
今では湖岸とはほど遠く、住宅や商店が連なり、「義仲寺」境内のみが埋もれるようにひっそりとただずんでいます。
さて時刻はすでに午後3時。先を急ぎます。
「義仲寺」を出て最初の交差点を過ぎると、町名が「打出浜」に変わります。さらに京阪電車の踏切を渡ります。右手に「石場」駅。その先の分かれ道を左に進みます。
呼次松の由来
江戸時代、この辺りには石場の渡し場(港)があり、対岸の矢橋への船客でにぎわっていた。渡し場には、「呼次の松」とよぶ一株の老松があって船頭がこの松の根元に立って客を呼んでいたので、その名がついたというが、現在は、児童公園の名称として残るだけである。
「福蔵寺」を左手に見ながらなだらかな坂道を上ります。この付近に一里塚(「石場一里塚」日本橋から122里目)があったようですが、それを示すものはありません。
町並みが宿場町らしくなってきます。
大通りを横切り、先に進みます。住所は、「京町」に。しばらく行くと、左手に大きな建物。滋賀県庁。この付近は、公共施設が並び、官庁街のようです。
特に目立つ史跡もなく広い通りに出ます。JR大津駅前からの「中央大通り」です。そこを渡り、しばらく行くと、左手角に石碑と解説のプレートが。
露国皇太子遭難地の碑
明治24年(1891)帝政ロシアのニコライ皇太子に津田三蔵巡査が切りつけた「大津事件」の発端となった場所。当時ロシアは強大国で、日本は近代国家として発足したばかりで弱小国のため、国民を不安のどん底におとしいれた。大国ロシアを恐れた松方内閣は皇室に対する大逆罪を適用し、死刑を画策。しかし、大津地裁で開かれた大審院法廷では、謀殺未遂罪を適用、無期徒刑の判決を下し、「司法権の独立」を貫き通しました。
大津まちなか元気回復委員会
しばらく進むと、大きな通りに突き当たります。京阪電車が路面電車のように通りの中央を走っています。そこを左折。
向かい側に「東横イン」。
来た道を振り返って望む。
義仲寺境内
義仲寺の名は、源義仲を葬った塚のあるところからきていますが、室町時代末に、佐々木六角氏が建立したとの伝えがあります。
門を入ると左奥に、俳聖松尾芭蕉の墓と並んで、木曽義仲の供養塔が立っています。
「木曽殿と背中合わせの寒さかな」という著名な句は、芭蕉の門人又玄(ゆうげん)の作です。境内にはこの句をはじめ、芭蕉の辞世の句「旅に病んで夢は枯野をかけめぐる」など多くの句碑があります。また、巴御前を弔うために祭ったといわれる巴地蔵堂もあります。
昭和42年(1967)11月に国指定の史跡となりました。
大津市教育委員会 平成4(1992)年3月
こぢんまりとした境内ですが、句碑やお堂など見所満載で、けっこう人が訪れています。
右奥は「翁堂」。
義仲公墓(木曽塚)。 芭蕉翁墓。
「巴塚(供養塔)」
木曽義仲の愛妻巴は義仲と共に討死を覚悟で此処粟津野に来たが義仲が強いての言葉に最後の戦いを行い敵将恩田八郎を討ち取り、涙ながらに落ち延びた後、鎌倉幕府に捕えられた。和田義盛の妻となり義盛戦死のあとは尼僧となり、各地を廻り当地に暫く止まり亡き義仲の菩提を弔っていたという。それより何処ともなく立ち去り信州木曽で九十歳の生涯を閉じたと云う。
行(く)春をあふミ(おうみ)の人とおしみける 芭蕉桃青
句碑の背後には芭蕉が。
すると、うしろで、老夫婦の奥さんの方が「あら、バナナがなっていないわね。」とつぶやきます。たしかに芭蕉は英名をジャパニーズ・バナナというらしく、あながちはずれてはいませんが・・・。
「いや、バショウですよ。松尾芭蕉ゆかりの木ですが。」
「だから言ったろ。いや、恥ずかしい。」とこちらを意識して、軽くたしなめるご主人。
それから話がはずんで、
「これは芭蕉の真蹟の碑ですね。行く春を近江の人と惜しみける。これはこの地らしいですが。」
「むこうにあった、古池や蛙飛び込む、の句も有名ですね。」
「その句は、こことは関係ないでしょう。たしか深川の芭蕉庵での作だ、と。」
「旅に病んで、は大阪に関係がありますね。」
「東海道を歩いていると、芭蕉の句碑にずいぶんお目にかかりました。」
「どうせなら大阪まで足を伸ばして下さいよ。」
「はい。」
「東海道63次でなくて、67次にすべきですよ。」(この方、「53」次ではなくしきりに「63次」と。)
「太閤堤とか寺田屋は一見の価値がありますから、ぜひ。」
たしかに「東海道五十七次」(京街道)というのがあります。今は京、大阪間を二日がかりで行けそうなようです。
「では、機会がありましたら。」
旅に病(ん)で夢は枯野をかけ廻る 芭蕉翁
古池や蛙飛(び)こむ水の音 芭蕉翁
木曽殿と脊中合せの寒さかな 又玄(ゆうげん)
境内には、19の句碑が所狭しと建っています。お寺というよりは「庵」という雰囲気。印象としては大磯の「鴫立庵」のような趣。なお、境内にある「無名庵」は、京都の落柿舎、大磯の「鴫立庵」とともに日本三大俳諧道場の一つといわれているそうです。
「史料館」脇の「義仲寺略誌」。
それによれば、このあたりは粟津ヶ原といい、琵琶湖に面した景勝の地でした。
治承4年(1180)義仲は信濃に平氏討伐の挙兵をし、寿永2年(1183)5月北陸路で平氏の大軍を打ち破り、7月京都に入ります。しかし、翌寿永3年正月、鎌倉の源頼朝の命を受けて都に上ってきた源範頼、義経の軍勢と戦い、利なく、この地で討ち死にします。享年31歳。
粟津ヶ原での「木曽義仲最期」の場面は、『平家物語』でも名高い場面での一つです。名調子の一節(声に出して読むと最高! )。
・・・
今井四郎只一騎、五十騎ばかりが中へ駆け入り、鐙踏ん張り立ち上がり、大音声あげて名乗りけるは
「日頃は音にも聞きつらん、今は目にも見給へ。木曽殿の御乳母子、今井四郎兼平、生年三十三にまかりなる。さる者ありとは鎌倉殿までも知ろし召されたるらんぞ。兼平討つて見参に入れよ」
とて、射残したる八筋の矢を、差し詰め引き詰め散々に射る。死生は知らず、やにはに敵八騎射落とす。その後、打物抜いてあれに馳せ合ひ、これに馳せ合ひ、切つて回るに、面を合はする者ぞなき。分捕りあまたしたりけり。ただ、
「射取れや」
とて、中に取りこめ、雨の降るやうに射けれども、鎧よければ裏かかず、あき間を射ねば手も負はず。
木曽殿は只一騎、粟津の松原へ駆け給ふが、正月二十一日入相ばかりのことなるに、薄氷張つたりけり、深田ありとも知らずして、馬をざつと打ち入れたれば、馬の頭も見えざりけり。あふれどもあふれども、打てども打てども働かず。今井が行方の覚束なさに振り仰ぎ給へる内甲を、三浦の石田次郎為久、追つ掛つて、よつ引いて、ひやうふつと射る。痛手なれば、真甲を馬の頭に当てて俯し給へる処に、石田が郎等二人落ち合うて、遂に木曽殿の首をば取つてんげり。太刀の先に貫き、高く差し上げ、大音声を挙げて
「この日頃日本国に聞こえさせ給つる木曽殿を、三浦の石田次郎為久が討ち奉りたるぞや」
と名乗りければ、今井四郎いくさしけるがこれを聞き、
「今は誰を庇はんとてか軍をもすべき。これを見給へ東国の殿原。日本一の剛の者の自害する手本」
とて、太刀の先を口に含み、馬より逆さまに飛び落ち、貫ぬかつてぞ失せにける。
さてこそ粟津のいくさはなかりけれ。
・・・
今では湖岸とはほど遠く、住宅や商店が連なり、「義仲寺」境内のみが埋もれるようにひっそりとただずんでいます。
さて時刻はすでに午後3時。先を急ぎます。
「義仲寺」を出て最初の交差点を過ぎると、町名が「打出浜」に変わります。さらに京阪電車の踏切を渡ります。右手に「石場」駅。その先の分かれ道を左に進みます。
呼次松の由来
江戸時代、この辺りには石場の渡し場(港)があり、対岸の矢橋への船客でにぎわっていた。渡し場には、「呼次の松」とよぶ一株の老松があって船頭がこの松の根元に立って客を呼んでいたので、その名がついたというが、現在は、児童公園の名称として残るだけである。
「福蔵寺」を左手に見ながらなだらかな坂道を上ります。この付近に一里塚(「石場一里塚」日本橋から122里目)があったようですが、それを示すものはありません。
町並みが宿場町らしくなってきます。
大通りを横切り、先に進みます。住所は、「京町」に。しばらく行くと、左手に大きな建物。滋賀県庁。この付近は、公共施設が並び、官庁街のようです。
特に目立つ史跡もなく広い通りに出ます。JR大津駅前からの「中央大通り」です。そこを渡り、しばらく行くと、左手角に石碑と解説のプレートが。
露国皇太子遭難地の碑
明治24年(1891)帝政ロシアのニコライ皇太子に津田三蔵巡査が切りつけた「大津事件」の発端となった場所。当時ロシアは強大国で、日本は近代国家として発足したばかりで弱小国のため、国民を不安のどん底におとしいれた。大国ロシアを恐れた松方内閣は皇室に対する大逆罪を適用し、死刑を画策。しかし、大津地裁で開かれた大審院法廷では、謀殺未遂罪を適用、無期徒刑の判決を下し、「司法権の独立」を貫き通しました。
大津まちなか元気回復委員会
しばらく進むと、大きな通りに突き当たります。京阪電車が路面電車のように通りの中央を走っています。そこを左折。
向かい側に「東横イン」。
来た道を振り返って望む。