その先、消防署の脇にある解説板には「野上社旧蹟」。
大江の地名は、平安前期以来、朝廷の文章道(史学・文学)をつかさどる家柄として知られる貴族であった大江氏(大江千里)が、この地を開発されたことから地名になったと伝承されている。千里は「ちりんさん」と呼ばれ、村人から敬われた三十六歌仙の一人として著名で、没後、住居の旧跡に小祠(野上社)を建て遺徳をしのんだ。明治25年(1892)に御霊神社に合祀されたことで、その旧跡として「野上社旧蹟」と刻んだ石碑が建立されている。
この解説板からしばらく進むと、新たな解説板があり、そこを左折します。
大津市に入ると、「旧東海道」は住宅や寺院の並ぶ道筋を、けっこう南に、北に、西に、と右左折を繰り返しますが、こうした解説板(案内板)が要所、要所に立てられ、道に迷うこともほとんどなくて、大変有り難い。
また、解説内容もそれぞれ豊富で興味深いものがあります。
「西行屋敷跡」。
西行法師は、俗名佐藤義満といい、百足退治の伝説で知られる俵藤太(藤原秀郷)の後裔で、鳥羽上皇の院御所を警備する北面の武士であったが、23歳のとき出家し、諸国行脚を重ね、仏道修行と歌道に精進した平安末期の代表的歌人だが、一時この大江の地(瀬田小学校の南の忠魂碑の近く)に住んでいたという伝承がある。
しばらく進み、「初田仏壇店」の先を右折。
電柱に案内表示あり。
西に向かって少し上り下りのある道を進むと、広い通りにぶつかります。正面は「たばこ・宝くじ・ぶつだん ハツダ」。ここを左に。
石材店の大きな猫の石像が見えたら、左の道へ。
すぐに広い通りに突き当たるので、そこを右折します。いよいよ正面に「瀬田の唐橋」が見えてきます。
「神領」交差点。
ふと通りの向こうを見ると、
「瀬田名物 たにし飴製造元 辻末製菓舗」という看板。
「たにし飴」??? 店には入りませんでしたが、ずいぶんとインパクトのある飴! そこでパソコンで調べると、
ニッキ味の黒糖飴で、形が巻貝の田螺に似ているのでタニシ飴と名付けたようです。140g 200円(税込)
飴屋のあいだでは、古くから丸めた飴を「どんぐり」、 烏帽子(えぼし)形に切ったものは「たにし」と呼ばれてきたそうで、それが湖畔に多くすむタニシと重なって、ここの飴はすっかり瀬田名物になったんだそうです。
なるほど、言われてみると大きさといい、形といい、タニシっぽい?
口のなかに入れたときの香りや歯ざわりまで追及した初代は工夫を重ね、独自の味をつくりだしました。黒糖とザラメ糖の飴を引いて空気を入れ、それを肉桂油と芥子の実を入れた飴で包むという手間のかけよう。
たかが飴、と侮れないこだわりが、個性的な味と息の長い人気の秘密といえそうです。のどにもいい「たにし飴」。全国菓子博覧会で金賞も受賞。
・・・
思えば近頃はとんとタニシを見ることはなくなりました。琵琶湖にいなくなってしまったのか、それとも私たちが水辺で遊ばなくなったせいなのか…。
辻末製菓舗の「たにし飴」は、その味とかたちで私たちの郷愁をさそってくれる名菓です。
(以上、「」HPより)
足元には瀬田の唐橋。
賑やかな通りになってきました。年季の入ったお店もちらほら。
いよいよ「瀬田の唐橋」に到着です。
瀬田の唐橋(せたのからはし)は、滋賀県大津市瀬田の瀬田川にかかる橋。全長260m。勢多の唐橋とも書き、瀬田の長橋とも言われます。宇治橋、山崎橋とならんで日本三古橋の一つとされてきました。また、日本の道100選にも選ばれています。
「瀬田川」は、琵琶湖から流れる唯一の川で、「宇治川」、「淀川」と名称を変えて、大阪湾に注ぎます。
歴史と伝説
東海道・東山道(中山道)方面から京都へ向かうには、琵琶湖を渡る、もしくは南北いずれかに迂回しないかぎり、琵琶湖から流れ出る瀬田川を渡る必要がある。瀬田川にかかる唯一の橋であった瀬田の唐橋は京都防衛上の重要地であったことから、古来より「唐橋を制する者は天下を制す」と言われた。
①壬申の乱(671年)
近江朝廷軍(大友皇子)、大海人皇子軍との戦い敗れる
②藤原仲麻呂の乱(恵美押勝の乱、764年)
仲麻呂軍が近江国府に入るのを防ぐため、孝謙上皇軍が瀬田橋を焼く。
③治承・寿永の乱(源平合戦)
源範頼・義経軍、瀬田・宇治にて木曽義仲軍と戦う。木曽義仲・今井兼平戦死。
④承久の乱 1221年(承久3年)
後鳥羽上皇が鎌倉幕府と戦う。
⑤建武の戦い 1336年(建武4年)
⑥本能寺の変~天王山の戦い
瀬田城主山岡景隆が瀬田橋を焼き、明智光秀の安土城進撃を一時阻止する。
・・・
江戸時代以降、膳所藩(本多家)が管理。
木造の橋が現在のコンクリート製になったのは1979年(昭和54年)のことであるが、橋の特徴である擬宝珠は歴代受け継がれており、「文政」「明治」などの銘が入ったものも現存する。 2012年(平成25年)には、唐茶色に塗り替えられ、現在に至っている。
江戸時代初期の安楽庵策伝『醒睡笑』は連歌師・宗長の歌を引用し、「急がば回れ」の諺の発祥であると紹介している。
武士(もののふ)のやばせの舟は早くとも急がば廻れ瀬田の長橋
東から京都へ上るには矢橋(やばせ)の港から大津への航路が最も早いとされていたが、反面、比叡おろしの強風により船出・船着きが遅れることも少なくなかった。 瀬田まで南下すれば風の影響を受けずに唐橋を渡ることができ、日程の乱れることもないとして、これを「急がば廻れ」と詠んだものであるという。
松尾芭蕉も旅の途上にてこの橋を詠んでいる。
五月雨に隠れぬものや瀬田の橋
橋桁の忍は月の名残り哉
(以上、「Wikipedia」参照)
近江八景「瀬田の夕照」(広重作)
富士山らしき山が描かれているのは、ご愛敬ですが。「近江富士」を誇張したものか。
「常夜燈」と句碑。松風の 帆にはとどかず 夕霞 茶酔
俵藤太(藤原秀郷)オオムカデ退治の図。
時刻は、12時20分。
橋の下の河原で昼食休憩。日差しが弱くてけっこう風が冷たかった!
「琵琶湖」方向。
さて、膳所(ぜぜ)に向かって出発。
渡り終えたところにも解説板。
「日本の道100選」碑。
京阪電車の踏切を渡ります。左手には「唐橋前駅」。
その先の「鳥居川」交差点を右折し、JR石山駅方面に向かいます。しばらく進むとまっすぐJR線をくぐる道になります。旧東海道はJR線によって分断され、石山駅を通る道が本来だったようです。しかし、そのままガードをくぐって北へ向かいます。途中で、石山駅北口から来た道(こちらが「旧東海道」? )と合流します。
○が明治中期の旧東海道の道筋。↓が晴嵐付近。湖畔の道。
現在のようす。
合流地点の解説板。
粟津の晴嵐
江戸時代、旧東海道のこの辺り、膳所城下町の南総門から鳥居川の間は、美しい松波危機が続いており、近江八景の一つ「粟津の晴嵐」として知られた名勝であった。歌川広重の浮世絵などにも、湖辺に城と松並木が続く風情ある景色として描かれている。
近江八景「粟津晴嵐」。(広重)
左手工場フェンス沿いに松の木が数本。
この付近に「粟津一里塚」(日本橋から121里目)があったようです。
その先にも解説板。同じく「粟津の晴嵐」の解説文。
工場のフェンス沿いに進み、直進すると住宅街に。
大江の地名は、平安前期以来、朝廷の文章道(史学・文学)をつかさどる家柄として知られる貴族であった大江氏(大江千里)が、この地を開発されたことから地名になったと伝承されている。千里は「ちりんさん」と呼ばれ、村人から敬われた三十六歌仙の一人として著名で、没後、住居の旧跡に小祠(野上社)を建て遺徳をしのんだ。明治25年(1892)に御霊神社に合祀されたことで、その旧跡として「野上社旧蹟」と刻んだ石碑が建立されている。
この解説板からしばらく進むと、新たな解説板があり、そこを左折します。
大津市に入ると、「旧東海道」は住宅や寺院の並ぶ道筋を、けっこう南に、北に、西に、と右左折を繰り返しますが、こうした解説板(案内板)が要所、要所に立てられ、道に迷うこともほとんどなくて、大変有り難い。
また、解説内容もそれぞれ豊富で興味深いものがあります。
「西行屋敷跡」。
西行法師は、俗名佐藤義満といい、百足退治の伝説で知られる俵藤太(藤原秀郷)の後裔で、鳥羽上皇の院御所を警備する北面の武士であったが、23歳のとき出家し、諸国行脚を重ね、仏道修行と歌道に精進した平安末期の代表的歌人だが、一時この大江の地(瀬田小学校の南の忠魂碑の近く)に住んでいたという伝承がある。
しばらく進み、「初田仏壇店」の先を右折。
電柱に案内表示あり。
西に向かって少し上り下りのある道を進むと、広い通りにぶつかります。正面は「たばこ・宝くじ・ぶつだん ハツダ」。ここを左に。
石材店の大きな猫の石像が見えたら、左の道へ。
すぐに広い通りに突き当たるので、そこを右折します。いよいよ正面に「瀬田の唐橋」が見えてきます。
「神領」交差点。
ふと通りの向こうを見ると、
「瀬田名物 たにし飴製造元 辻末製菓舗」という看板。
「たにし飴」??? 店には入りませんでしたが、ずいぶんとインパクトのある飴! そこでパソコンで調べると、
ニッキ味の黒糖飴で、形が巻貝の田螺に似ているのでタニシ飴と名付けたようです。140g 200円(税込)
飴屋のあいだでは、古くから丸めた飴を「どんぐり」、 烏帽子(えぼし)形に切ったものは「たにし」と呼ばれてきたそうで、それが湖畔に多くすむタニシと重なって、ここの飴はすっかり瀬田名物になったんだそうです。
なるほど、言われてみると大きさといい、形といい、タニシっぽい?
口のなかに入れたときの香りや歯ざわりまで追及した初代は工夫を重ね、独自の味をつくりだしました。黒糖とザラメ糖の飴を引いて空気を入れ、それを肉桂油と芥子の実を入れた飴で包むという手間のかけよう。
たかが飴、と侮れないこだわりが、個性的な味と息の長い人気の秘密といえそうです。のどにもいい「たにし飴」。全国菓子博覧会で金賞も受賞。
・・・
思えば近頃はとんとタニシを見ることはなくなりました。琵琶湖にいなくなってしまったのか、それとも私たちが水辺で遊ばなくなったせいなのか…。
辻末製菓舗の「たにし飴」は、その味とかたちで私たちの郷愁をさそってくれる名菓です。
(以上、「」HPより)
足元には瀬田の唐橋。
賑やかな通りになってきました。年季の入ったお店もちらほら。
いよいよ「瀬田の唐橋」に到着です。
瀬田の唐橋(せたのからはし)は、滋賀県大津市瀬田の瀬田川にかかる橋。全長260m。勢多の唐橋とも書き、瀬田の長橋とも言われます。宇治橋、山崎橋とならんで日本三古橋の一つとされてきました。また、日本の道100選にも選ばれています。
「瀬田川」は、琵琶湖から流れる唯一の川で、「宇治川」、「淀川」と名称を変えて、大阪湾に注ぎます。
歴史と伝説
東海道・東山道(中山道)方面から京都へ向かうには、琵琶湖を渡る、もしくは南北いずれかに迂回しないかぎり、琵琶湖から流れ出る瀬田川を渡る必要がある。瀬田川にかかる唯一の橋であった瀬田の唐橋は京都防衛上の重要地であったことから、古来より「唐橋を制する者は天下を制す」と言われた。
①壬申の乱(671年)
近江朝廷軍(大友皇子)、大海人皇子軍との戦い敗れる
②藤原仲麻呂の乱(恵美押勝の乱、764年)
仲麻呂軍が近江国府に入るのを防ぐため、孝謙上皇軍が瀬田橋を焼く。
③治承・寿永の乱(源平合戦)
源範頼・義経軍、瀬田・宇治にて木曽義仲軍と戦う。木曽義仲・今井兼平戦死。
④承久の乱 1221年(承久3年)
後鳥羽上皇が鎌倉幕府と戦う。
⑤建武の戦い 1336年(建武4年)
⑥本能寺の変~天王山の戦い
瀬田城主山岡景隆が瀬田橋を焼き、明智光秀の安土城進撃を一時阻止する。
・・・
江戸時代以降、膳所藩(本多家)が管理。
木造の橋が現在のコンクリート製になったのは1979年(昭和54年)のことであるが、橋の特徴である擬宝珠は歴代受け継がれており、「文政」「明治」などの銘が入ったものも現存する。 2012年(平成25年)には、唐茶色に塗り替えられ、現在に至っている。
江戸時代初期の安楽庵策伝『醒睡笑』は連歌師・宗長の歌を引用し、「急がば回れ」の諺の発祥であると紹介している。
武士(もののふ)のやばせの舟は早くとも急がば廻れ瀬田の長橋
東から京都へ上るには矢橋(やばせ)の港から大津への航路が最も早いとされていたが、反面、比叡おろしの強風により船出・船着きが遅れることも少なくなかった。 瀬田まで南下すれば風の影響を受けずに唐橋を渡ることができ、日程の乱れることもないとして、これを「急がば廻れ」と詠んだものであるという。
松尾芭蕉も旅の途上にてこの橋を詠んでいる。
五月雨に隠れぬものや瀬田の橋
橋桁の忍は月の名残り哉
(以上、「Wikipedia」参照)
近江八景「瀬田の夕照」(広重作)
富士山らしき山が描かれているのは、ご愛敬ですが。「近江富士」を誇張したものか。
「常夜燈」と句碑。松風の 帆にはとどかず 夕霞 茶酔
俵藤太(藤原秀郷)オオムカデ退治の図。
時刻は、12時20分。
橋の下の河原で昼食休憩。日差しが弱くてけっこう風が冷たかった!
「琵琶湖」方向。
さて、膳所(ぜぜ)に向かって出発。
渡り終えたところにも解説板。
「日本の道100選」碑。
京阪電車の踏切を渡ります。左手には「唐橋前駅」。
その先の「鳥居川」交差点を右折し、JR石山駅方面に向かいます。しばらく進むとまっすぐJR線をくぐる道になります。旧東海道はJR線によって分断され、石山駅を通る道が本来だったようです。しかし、そのままガードをくぐって北へ向かいます。途中で、石山駅北口から来た道(こちらが「旧東海道」? )と合流します。
○が明治中期の旧東海道の道筋。↓が晴嵐付近。湖畔の道。
現在のようす。
合流地点の解説板。
粟津の晴嵐
江戸時代、旧東海道のこの辺り、膳所城下町の南総門から鳥居川の間は、美しい松波危機が続いており、近江八景の一つ「粟津の晴嵐」として知られた名勝であった。歌川広重の浮世絵などにも、湖辺に城と松並木が続く風情ある景色として描かれている。
近江八景「粟津晴嵐」。(広重)
左手工場フェンス沿いに松の木が数本。
この付近に「粟津一里塚」(日本橋から121里目)があったようです。
その先にも解説板。同じく「粟津の晴嵐」の解説文。
工場のフェンス沿いに進み、直進すると住宅街に。