公園を突っ切って通りを横断します。草むらに覆われてオブジェと東海道の道しるべ。
揃ってお出迎え。
左手に解説板。
草津歴史街道 東海道
東海道は、中山道・日光道中・奥州道中・甲州道中を加えた五街道の中でも江戸と京を結ぶ江戸時代随一の幹線路であった。
その里程は、江戸日本橋から相模小田原宿を経由、箱根の関・大井川を越え、遠州灘沿いに西進し、伊勢桑名宿を経て、鈴鹿峠から近江に至り、土山・水口・石部・草津の各宿を経由、勢田橋を渡り、大津宿を経て京三条大橋に至るもので、東海道五十三次と称された。
草津では、小柿から大路川に入るとすぐ砂川(旧草津川)を渡り、11町53間半(約1.3㎞)の草津宿を経て、矢倉・野路・南笠を通過し、勢田に至った。
草津宿には、本陣・脇本陣などが設けられ、常善寺・立木明神(立木神社)ほかの多数の寺社が立ち並び、70軒を越える旅籠をはじめ500軒以上の町屋があった。
また、矢倉には光伝寺・姥ヶ餅屋・矢倉道標・野路には一里塚・教善寺・新宮大明神(新宮神社)・野路の玉川跡などの社寺名所が在り、矢倉野路間、野路南笠間間の街道沿いには松並木が続いていた。
草津市教育委員会
右手の民家の壁に解説板。清宗塚、平清宗。
清宗塚
文治元年3月(1185)に源平最後の合戦に源義経は壇ノ浦にて平氏を破り、安徳天皇(8歳)は入水。平氏の総大将宗盛、長男清宗等を捕虜とし、遠く源頼朝のもとに連れて行くが、頼朝は弟義経の行動を心よしとせず、鎌倉に入れず追い返す。仕方なく京都へ上る途中、野洲篠原にて宗盛卿の首をはね、本地に於いて清宗の首をはねる。
清宗は父宗盛(39歳)が潔く斬首されたと知り、西方浄土に向い静かに手を合わせ、堀弥太郎景光の一刀にて首を落とされる。同年6月21日の事、清宗時に17歳であった。首は京都六条河原にて晒される。
平清盛は義経3歳の時、、あまりにも幼いという事で命を許した。時を経て義経は平家一門を滅ぼし、又義経は兄頼朝に追われ、奥州衣川にて131歳で殺される。
夢幻泡影、有為転変は世の習い、諸行無常といわれるが、歴史は我々に何を教えてくれるのか。
平清宗(1170―1185)
平安時代の公卿、平宗盛の長男、母は兵部權大輔平時宗の娘。後白河上皇の寵愛をうけ、3才で元服して寿永2年には正三位侍従右衛門督であった。
源平の合戦により、一門と都落ち、文治元年壇ノ浦の戦いで父宗盛と共に生虜となる。
「吾妻鏡」に「至野路口以堀弥太郎景光。梟前右金吾清宗」とあり、当家では代々胴塚として保存供養しているものである。
遠藤権兵衛家 当主遠藤 勉
しばらく道なりに進み、通りを地下道で横断します。ただし、11月中には地下道は廃止され、横断歩道を利用することになるようです。
地下道を過ぎると、右手に小さな公園。 ここが荻の玉川の名残りのところです。
古き宿駅 野路駅の名残り
野路の地名はすでに平安時代末期にみえ、『平家物語』をはじめ、多くの紀行文にもその名をみせている。鎌倉時代には、源頼朝が上洛に際し、野路の地での逗留がみえるなど、宿駅として武将の戦略拠点ともなり、また瀬田川沿いを宇治方面へ抜ける迂回路の分岐点にもあたり、交通の要衝として重視されていた。さらに、ここ野路の地に、十禅寺川と東海道が交わるあたりには、日本六玉川の一つとして古くから歌枕に詠まれた名勝がある。
『千載和歌集』の中の源俊頼の歌に、
あすもこむ 野路の玉川 萩こえて
色なる波に 月やどりけり
と詠まれた野路の玉川である。萩の名勝として近世には『近江名所図会』や安藤広重の浮世絵にも紹介されている。しかし、この野路も、草津が宿駅としてクローズアップされてくるとともに交通上の位置は次第に低下していくのである。
付近には重要文化財の本殿がある新宮神社をはじめ、野路小野山製鉄遺跡など多くの歴史遺産が所在する。
野路 萩の玉川
「野路」は平安朝から鎌倉時代にかけて東海道の宿駅として栄えた所である。 源平争乱の時代、ここ野路は数多くの武将の宿陣となり、時には戦火に包まれ若い命が消え去った地とも伝えられる。 ここ玉川は多くの歴史を秘めて日本六玉川の一つとして有名となり、都から公卿・貴族・詩人等、しばしばこの地を訪ね景勝をめでて多くの詩歌を咏んだ。中でも千載集(1188年)所載の源俊頼の作
「あすもこん 野路の玉川 萩こえて 色なる浪に 月やどりけり」
は名歌として世に広くしられている。又十六夜日記(阿仏尼作)には
「のきしぐれ ふるさと思う 袖ぬれて 行きさき遠き 野路のしのはら」
と咏んだ。 十禅寺川の伏流水が清らかな泉となって湧きいでて、あたり一面咲き匂う萩とあいまって、その優美な風情は旅人のしばし憩の場となり、江戸時代の名所図絵によく描かれ、いつの頃か歌碑も建てられた。 その後野路宿が草津宿に移り次第に玉川も亦さびれる運命となった。
近年は泉も涸れ形も小さくなり、風情は一変した。かっては天下の名勝萩の玉川もわずかに残る沼地となり人々から忘れ去られようとしている時、 我等地元住民は、野路の象徴であるこの由緒深い玉川を放置するにしのびず 永く後世に伝え残すため、住民の總意により復元を行ない幾分なりとも往時の面影をとどめることとした次第である。
昭和51年11月28日 草津市野路町
すぐ後ろには、こじんまりとしていますが、田園風景が広がります。かつてはさぞかし風光明媚だったことを偲ばせます。
その先には
「弁天池」。
なだらかで曲がりくねる坂道が続きます。
右手には「ここから大津」と記された常夜燈。ただし、左手はまだ草津市。
ここからは本格的に大津市。
旧東海道
東海道は、平安時代以来、京都と東国を結ぶ幹線道路としての物資の運搬、人の移動に利用されてきた。江戸時代には、五街道の一つとして京都と江戸を結ぶ国内第一の幹線として、行き交う旅人でにぎわっており、幕府によって126里6町1間(約496㎞)にわたる街道筋の現況調査ならびに道中図と呼ばれる一連の絵図等も作られ、大名の参勤交代にも使われていた。
しばらく進むと、左手角に「名勝 月輪大池」碑。
その先、左手の「月輪寺」には、大きな「東海道」碑。
広い通りを横断すると、「東海道立場」碑。
来た道を振り返って望む。
左手には池を中心にした「一里山公園」が大きく広がっていきます。その名の通り、この先には「一里塚」があるはず。
丁寧に道順が表示されていて有り難い。
いかつい「飛び出し」坊や変形バージョン。
つい水路を眺めてしまいます。紅葉の時期。
この付近は「一里山」。「一里山ひかり保育園」。
「瀬田」駅に通じる広い通りを渡る手前、左手のクリーニング屋さんの前には、「大萱一里塚」碑。
日本橋から120里目。
一里塚跡
一里塚は徳川幕府が旅人の目じるしに江戸の日本橋を起点として、東海・東山・北陸の三道に一里ごとに設けた塚です。
ここにあった一里塚は、東海道大津と草津の間に位置するもので、大きな松の木が植えられた塚でしたが、惜しくも明治末期に取り除かれました。その場所は旧道と広い市道の交差しているこの地点にあたります。現在の一里山という地名が一里塚のあったことを物語っています。
大津市教育委員会 昭和61年3月
解説板。
一里塚
江戸時代、街道の一里(約4㎞)ごとに土を盛りエノキなどを植えて距離の目印とした塚で、旧東海道の大津と草津の位置するこの場所にも大きな松の木が植えられていたが、明治末期に取り除かれた。
現在の一里山という地名は、一里塚のあったことを物語っており、「一里塚跡」の石碑を建立して、その位置を留めている。
「一里塚」跡碑があるのは、ここまで。
通りを渡ったところにある石碑。
三条大橋まで5里余り。江戸日本橋まで120里余り。順調にいけば、あと5時間ほどでゴールすることに。今の時刻は11時30分過ぎ。ま、無理することはありません。
揃ってお出迎え。
左手に解説板。
草津歴史街道 東海道
東海道は、中山道・日光道中・奥州道中・甲州道中を加えた五街道の中でも江戸と京を結ぶ江戸時代随一の幹線路であった。
その里程は、江戸日本橋から相模小田原宿を経由、箱根の関・大井川を越え、遠州灘沿いに西進し、伊勢桑名宿を経て、鈴鹿峠から近江に至り、土山・水口・石部・草津の各宿を経由、勢田橋を渡り、大津宿を経て京三条大橋に至るもので、東海道五十三次と称された。
草津では、小柿から大路川に入るとすぐ砂川(旧草津川)を渡り、11町53間半(約1.3㎞)の草津宿を経て、矢倉・野路・南笠を通過し、勢田に至った。
草津宿には、本陣・脇本陣などが設けられ、常善寺・立木明神(立木神社)ほかの多数の寺社が立ち並び、70軒を越える旅籠をはじめ500軒以上の町屋があった。
また、矢倉には光伝寺・姥ヶ餅屋・矢倉道標・野路には一里塚・教善寺・新宮大明神(新宮神社)・野路の玉川跡などの社寺名所が在り、矢倉野路間、野路南笠間間の街道沿いには松並木が続いていた。
草津市教育委員会
右手の民家の壁に解説板。清宗塚、平清宗。
清宗塚
文治元年3月(1185)に源平最後の合戦に源義経は壇ノ浦にて平氏を破り、安徳天皇(8歳)は入水。平氏の総大将宗盛、長男清宗等を捕虜とし、遠く源頼朝のもとに連れて行くが、頼朝は弟義経の行動を心よしとせず、鎌倉に入れず追い返す。仕方なく京都へ上る途中、野洲篠原にて宗盛卿の首をはね、本地に於いて清宗の首をはねる。
清宗は父宗盛(39歳)が潔く斬首されたと知り、西方浄土に向い静かに手を合わせ、堀弥太郎景光の一刀にて首を落とされる。同年6月21日の事、清宗時に17歳であった。首は京都六条河原にて晒される。
平清盛は義経3歳の時、、あまりにも幼いという事で命を許した。時を経て義経は平家一門を滅ぼし、又義経は兄頼朝に追われ、奥州衣川にて131歳で殺される。
夢幻泡影、有為転変は世の習い、諸行無常といわれるが、歴史は我々に何を教えてくれるのか。
平清宗(1170―1185)
平安時代の公卿、平宗盛の長男、母は兵部權大輔平時宗の娘。後白河上皇の寵愛をうけ、3才で元服して寿永2年には正三位侍従右衛門督であった。
源平の合戦により、一門と都落ち、文治元年壇ノ浦の戦いで父宗盛と共に生虜となる。
「吾妻鏡」に「至野路口以堀弥太郎景光。梟前右金吾清宗」とあり、当家では代々胴塚として保存供養しているものである。
遠藤権兵衛家 当主遠藤 勉
しばらく道なりに進み、通りを地下道で横断します。ただし、11月中には地下道は廃止され、横断歩道を利用することになるようです。
地下道を過ぎると、右手に小さな公園。 ここが荻の玉川の名残りのところです。
古き宿駅 野路駅の名残り
野路の地名はすでに平安時代末期にみえ、『平家物語』をはじめ、多くの紀行文にもその名をみせている。鎌倉時代には、源頼朝が上洛に際し、野路の地での逗留がみえるなど、宿駅として武将の戦略拠点ともなり、また瀬田川沿いを宇治方面へ抜ける迂回路の分岐点にもあたり、交通の要衝として重視されていた。さらに、ここ野路の地に、十禅寺川と東海道が交わるあたりには、日本六玉川の一つとして古くから歌枕に詠まれた名勝がある。
『千載和歌集』の中の源俊頼の歌に、
あすもこむ 野路の玉川 萩こえて
色なる波に 月やどりけり
と詠まれた野路の玉川である。萩の名勝として近世には『近江名所図会』や安藤広重の浮世絵にも紹介されている。しかし、この野路も、草津が宿駅としてクローズアップされてくるとともに交通上の位置は次第に低下していくのである。
付近には重要文化財の本殿がある新宮神社をはじめ、野路小野山製鉄遺跡など多くの歴史遺産が所在する。
野路 萩の玉川
「野路」は平安朝から鎌倉時代にかけて東海道の宿駅として栄えた所である。 源平争乱の時代、ここ野路は数多くの武将の宿陣となり、時には戦火に包まれ若い命が消え去った地とも伝えられる。 ここ玉川は多くの歴史を秘めて日本六玉川の一つとして有名となり、都から公卿・貴族・詩人等、しばしばこの地を訪ね景勝をめでて多くの詩歌を咏んだ。中でも千載集(1188年)所載の源俊頼の作
「あすもこん 野路の玉川 萩こえて 色なる浪に 月やどりけり」
は名歌として世に広くしられている。又十六夜日記(阿仏尼作)には
「のきしぐれ ふるさと思う 袖ぬれて 行きさき遠き 野路のしのはら」
と咏んだ。 十禅寺川の伏流水が清らかな泉となって湧きいでて、あたり一面咲き匂う萩とあいまって、その優美な風情は旅人のしばし憩の場となり、江戸時代の名所図絵によく描かれ、いつの頃か歌碑も建てられた。 その後野路宿が草津宿に移り次第に玉川も亦さびれる運命となった。
近年は泉も涸れ形も小さくなり、風情は一変した。かっては天下の名勝萩の玉川もわずかに残る沼地となり人々から忘れ去られようとしている時、 我等地元住民は、野路の象徴であるこの由緒深い玉川を放置するにしのびず 永く後世に伝え残すため、住民の總意により復元を行ない幾分なりとも往時の面影をとどめることとした次第である。
昭和51年11月28日 草津市野路町
すぐ後ろには、こじんまりとしていますが、田園風景が広がります。かつてはさぞかし風光明媚だったことを偲ばせます。
その先には
「弁天池」。
なだらかで曲がりくねる坂道が続きます。
右手には「ここから大津」と記された常夜燈。ただし、左手はまだ草津市。
ここからは本格的に大津市。
旧東海道
東海道は、平安時代以来、京都と東国を結ぶ幹線道路としての物資の運搬、人の移動に利用されてきた。江戸時代には、五街道の一つとして京都と江戸を結ぶ国内第一の幹線として、行き交う旅人でにぎわっており、幕府によって126里6町1間(約496㎞)にわたる街道筋の現況調査ならびに道中図と呼ばれる一連の絵図等も作られ、大名の参勤交代にも使われていた。
しばらく進むと、左手角に「名勝 月輪大池」碑。
その先、左手の「月輪寺」には、大きな「東海道」碑。
広い通りを横断すると、「東海道立場」碑。
来た道を振り返って望む。
左手には池を中心にした「一里山公園」が大きく広がっていきます。その名の通り、この先には「一里塚」があるはず。
丁寧に道順が表示されていて有り難い。
いかつい「飛び出し」坊や変形バージョン。
つい水路を眺めてしまいます。紅葉の時期。
この付近は「一里山」。「一里山ひかり保育園」。
「瀬田」駅に通じる広い通りを渡る手前、左手のクリーニング屋さんの前には、「大萱一里塚」碑。
日本橋から120里目。
一里塚跡
一里塚は徳川幕府が旅人の目じるしに江戸の日本橋を起点として、東海・東山・北陸の三道に一里ごとに設けた塚です。
ここにあった一里塚は、東海道大津と草津の間に位置するもので、大きな松の木が植えられた塚でしたが、惜しくも明治末期に取り除かれました。その場所は旧道と広い市道の交差しているこの地点にあたります。現在の一里山という地名が一里塚のあったことを物語っています。
大津市教育委員会 昭和61年3月
解説板。
一里塚
江戸時代、街道の一里(約4㎞)ごとに土を盛りエノキなどを植えて距離の目印とした塚で、旧東海道の大津と草津の位置するこの場所にも大きな松の木が植えられていたが、明治末期に取り除かれた。
現在の一里山という地名は、一里塚のあったことを物語っており、「一里塚跡」の石碑を建立して、その位置を留めている。
「一里塚」跡碑があるのは、ここまで。
通りを渡ったところにある石碑。
三条大橋まで5里余り。江戸日本橋まで120里余り。順調にいけば、あと5時間ほどでゴールすることに。今の時刻は11時30分過ぎ。ま、無理することはありません。