7月22日(土)。快晴。
猛暑の中を歩いて、失敗! あまりの暑さで「下栗原」交差点で挫折。
「甲斐大和」駅を9時半過ぎに出発して、半日の歩きでした。ずっと下り道ですが、想像した以上にアスファルトの照り返しがきつい! 舗装道路歩きは心身にこたえます。まったく日陰がなく、風がほとんどない。沿道の左右にはブドウ棚やブドウ畑が広がり、道沿いに樹木はほとんどありません。日照時間が大事なのでしょう、ブドウの生育には豊かな太陽光が大切なのですが。
まだ収穫期を迎えない、高いブドウ棚の下は日陰がありますが、ほとんどお店が閉まっていて立ち寄れず。さらに、沿道にコンビニも見当たらず、商店もわずか。人気のお店にはけっこう人がいましたが、道路を歩いているのは、地元を含め、皆無。
ということで、勝沼のはずれ、「白百合醸造」でワインをあれこれ試飲し、ついでにワインを2瓶を購入リュックに入れて・・・、実は、そのせいもあります。ほろ酔い気分で炎天下を歩くことは、・・・。
あらかじめ電話番号を控えていたタクシーを呼んで「山梨市駅」へ向かいました。
そういう意味で、実に中途半端な第8日目です。
中央線・高尾から甲府行きに乗り換えて、前回の「甲斐大和」駅に着いたのが9時半過ぎ。そこから旧甲州街道まで戻っての再開です。
(9:34)駅からの途中、「諏訪神社」境内には、
初鹿野の大杉跡
ここにあった大杉(樹齢371年)は笹子峠の矢立の杉、一宮の大杉と共に甲州街道の三本杉といわれた巨木でしたが、明治36年に鉄道が開通し、その震動と蒸気機関車によるばい煙のためか、樹勢が衰え枯れてしまったそうです。
巨大な切り株。
「本殿」の彫刻。
江戸時代初期の建立。竹林の七賢人をはじめ、上り竜下り竜など見事な彫刻が施されている。
球形の道祖神。この先もこの型のものが目につきます。
「日川」に架かる「立合橋」人道橋を渡り、左に進みます。
(9:50)「金岡自画地蔵尊碑」という石碑。
この地は絵画の巨匠巨勢金岡遍歴の際、岩面に地蔵尊を描いた所です。
今は水害にあい、岩角崩れ当碑のみなり。
「鶴瀬関所跡」。
史跡 鶴瀬関所跡
甲州道中鶴瀬宿東のこの地は、北は山々に閉ざされ、南は日川に阻まれた天然の要害となっており、郡内領より笹子峠を越えて国中に通ずる要所にあたり、ここを通らずして江戸への出入りが難しいこの地に関所が設けられました。
この関は甲州道中の小仏関につぐ口留番所として、上り男手形不要、女上下とも改めて、江戸への鉄砲の入りと、大名妻女の江戸からの脱出「入り鉄砲に出女」を特に警戒したと云われています。
・・・関は明け六つ(午前6時)に開門、暮れ六つ(午後6時)に閉門した。享保年間の検地に8間半の間口3間半口留番所1畝歩と言い伝えられています。
また、参勤交代の際に利用した藩は信濃高遠藩、高島藩、飯田藩でした。
特に鶴瀬の関は甲州一二関の一つとも云われ重要視され、江戸時代を通じて機能を果たしてきたせきしょであったが、明治2年(1869)に廃関され建物は取り壊されました。
現在は、道路の拡幅等により往時の面影は失われてしまいましたが、「木戸下」の小字名は残り、後世に残す遺跡として市の史跡に指定されています。
平成26年3月 大和まちづくり推進会
国道を渡ると、「鶴瀬宿」。
江戸より第三十一宿、江戸へ三十里二十七丁、甲府へ五里一丁
甲州道中 鶴瀬宿
鶴瀬宿は山梨郡栗原筋に属し、江戸より30里27丁余りで、旧村名の鶴瀬村は鶴(都留)郡の背にあたることによると云う。
江戸時代の天保14年(1843)「宿村大概帳」によると、宿高は189石6斗余、人別242人、家数58軒、うち建坪60坪の本陣が宿平に、50坪、32坪の2軒の脇本陣が宿の中程に、また旅籠は4軒あり。
本陣に隣接した問屋場には問屋1人、年寄3人のうち1人と馬指1人が毎日詰めていた。人馬の継ぎ立ては駒飼宿と合宿であり、1ヶ月のうち1日から20日までの間を務めた。同宿に属する加宿には山梨郡栗原筋の小佐手・初鹿野両村があった。
高札場は宿の西方にあり宿の両側は家並みであるが、裏は畑や山で日川が南流している。問屋は大名武家等の荷物を伝馬輸送する事務を執り、村人の多くは農林業の傍ら輸送に従事していた。ほかに旅籠や茶屋を営む小商人があり、土産品として「ひる石」が売られていたと云う。
近世、道路網の発展により宿場は様変わりしたが、宿中程の常夜燈と当時からの家々の屋号(呼び名)に往時の面影を今に伝えています。
平成26年3月 大和まちづくり推進会
すぐに「国道20号線」に合流します。道路、鉄道、中央道等の拡幅・建設によって、かつての宿場の家並みは一部に残っているだけです。
宿内を振り返って望む。