甲州街道歩きも、第11日目。
夏場の炎天下で、思ったように距離がかせげなかった。何とかして年内には、と。性懲りもなく9月30日(土)。
韮崎駅から歩き始めて台ヶ原宿までたどりついて、韮崎行きの路線バスで韮崎駅まで戻ってくる、という算段。台ヶ原バス停が14:53。最終が17:43。14:53発に乗れれば、と甘い考えで出発。天気は、雲は多めですが、晴れ。
(10:10)左手に


小林一三は、1873(明治6)年、現在の山梨県韮崎市に生まれました。「一三」の名は、誕生日1月3日に因みます。19歳の時に慶應義塾を卒業し、三井銀行で本店勤務の後、大阪支店に赴任します。元来、文学青年で小説家志望であった一三ですが、銀行員時代の先輩達との出会いから事業の面白さに目覚めていきました。
1907(明治40)年、三井銀行を退職し、箕面有馬電気軌道(現、阪急宝塚線・箕面線)を創立します。1910(明治43)年運行を開始した電車事業は、沿線の住宅開発を共に行うという独創的なアイデアによって好調なスタートを切りました。
1920(大正9)年には神戸線が開通し、社名も阪神急行電鉄と改め「阪急電車」として親しまれます。一方梅田には、1929(昭和4)年、阪急百貨店(現、阪急うめだ本店)を開業し、洋食をメインとした大食堂は大人気となりました。また、宝塚歌劇や阪急ブレーブス、そして東宝を設立するなど、たくさんの人たちが楽しむ事業を次々に成功させていきました。
一三のユニークな発想から生まれたビジネスモデルは、私鉄経営を始めとする各地の事業者達に影響を与えました。そうした手腕が見込まれて、東京電燈(現、東京電力)の経営を立て直し、1940(昭和15)年には第二次近衛内閣の商工大臣、戦後には戦災復興院総裁に任命されました。
一三個人としても、幅広い著作を遺した文化人としての素顔を持っています。日常の暮らしの中では、趣味の俳句や茶の湯を通じて多くの人々との交流を楽しみました。
多方面に足跡をのこした一三は、1957(昭和32)年、享年84歳で没しました。しかし、お客様への新たな生活と楽しみの提案を第一とする一三の精神は、現在も阪急阪神東宝グループの様々の会社によって受け継がれています。そして一三が創始した数々の社会事業・文化事業は、今もなお社会の中で発展を続けています。
(以上、

たしか東京・錦糸町駅前にある「東京楽天地」ー旧「江東楽天地」。現在、「LUMINE(ルミネ)」や映画館、温泉などがある複合ビルーの創立者もこの方です。

高い崖を背後に「ホテル ルートイン」。

ここにも交通安全おばあさんバージョン。JA共済の提供。これから先にも見かけます。旧東海道の時、三重から京都までの道筋のように励まされます。

民家が崖下にへばりつくように。

これは元祖「飛び出し坊や」・「とび太くん」。懐かしい!




(

※ 東海道でもいろいろなバージョンのものに出会いました。
右へ登って行く「青坂」が見えてきました。この道は中央本線に沿って小淵沢を抜け原村方面へと伸びている県道17号。
旧甲州街道は、左へ進みます。
(10:22)「青坂」バス停。

まもなく国道20号と国道141号の交差点「一ツ谷」。国道141号は、ここから清里・野辺山を越え上田市まで伸びています。
その交差点の角に、

しだいに左側が開け、甘利山方面が良く見えます。「甘利山」は山登りを始めたきっかけになった山です。職場の先輩に連れられて、「甘利山」から「千頭星山」。帰りは青木鉱泉へ降りたような記憶が。
今回は、周囲の山々がよく見えるような空模様。甲州街道歩きでは久々の山々を眺めながらの旅になりますか。

(10:26)右手には「十六石」碑。


武田信玄公が治水に力を入れたのは有名だが、まだ晴信といわれた天文十二・三年頃年々荒れる釜無川の水害から河原部村(現韮崎町)を守るため、今の一ッ谷に治水工事を行った。
その堤防の根固めに並べ据えた巨大な石が十六石で、その後徳川時代になって今の上宿から下宿まで人家が次第に集まり韮崎は宿場町として栄えるようになったといわれている。
国道20号線を進む。


その先で、旧道は国道から分かれ、右の道に入っていきます。

庭先のコスモス。

下祖母石の集落。のどかな道筋。

右手、田畑の向こうには断崖。七里岩。


七里岩
約20万年前に発生した八ヶ岳の山体崩壊による韮崎岩屑流(または韮崎泥流、韮崎岩屑なだれ)と呼ばれる岩屑なだれが形成した平坦地を、西側の釜無川と東側の塩川によって侵食崖を形成したものが七里岩である。狭義には、釜無川の侵食により形成された、川沿いに連なる高さ10mから40mの断崖のことを指す。この七里岩は韮崎から蔦木付近まで28kmも続いている。広義には、長野県諏訪郡富士見町から、山梨県の北杜市の小淵沢町、長坂町、大泉町、高根町と須玉町の一部を経て、韮崎市の中心地まで達する台地のことを指す。この山体崩壊した土砂の体積は約10 km3と推定されており、七里岩を生み出した岩屑なだれは甲府盆地を横断し、反対側の曽根丘陵まで達している。
台地の形が舌状であり「韮」の葉に似ているので、その先端部のある地域を「韮崎」として、韮崎市の地名発祥のひとつになったとされる。
台地の崖下を流れる釜無川と塩川には、それぞれ平行して甲州街道と佐久甲州往還が走っていた。現在では、それぞれ国道20号と国道141号に相当する。
左手には「鳳凰三山」が見えています。

