6月19日(火)。梅雨の間の晴れ間。「桜桃忌」。三鷹の禅林寺には多くのファンが訪れていたことでしょう。
昭和23年(1948年)6月19日。13日に玉川上水で愛人・山崎富栄と入水した太宰治。一週間後、奇しくも39歳の誕生日に遺体が発見され、その日を「桜桃忌」と称して、太宰を偲ぶことに。以来、70年の年月を経ても、まだ訪れる人は、絶えません。
また、ますます太宰の作品の世評は、特に、若い方々の評価は、高いようです。
「処女作集『晩年』を上梓してから13年目の、6月13日、絶筆『グッド・バイ』を13回書き残して、自殺した」(亀井勝一郎・p285)という「語呂合わせ」(失礼! )も手伝ってか、死んでもなお、太宰治の人となりや、文学は、「神秘」的に、生き続けています。
今や、俳句の、「夏」の季語にもなっている、とのこと。
「桜桃忌」の名付け親は、同郷で太宰と親交の深かった、直木賞作家・今官一。太宰晩年の短編小説「桜桃」の名にちなんで、命名されました。やはり、「桜桃・サクランボ」を食べながら、太宰を偲ぶのでしょうか。しかし、酒好きだった太宰に対しては、なんとも・・・。
山形名産の「サトウニシキ」は、抜群においしいです。
太宰のお墓の斜め前には、明治の文豪・森鴎外のお墓があります。太宰のお墓を参拝する人の中には、「森林太郎(「もりばやしたろう」・もちろん正しくは「もりりんたろう」)」って誰? という人もいるとか、ま、これも「都市伝説」のひとつですが。
「太宰治」というペンネームにも、あれこれ、曰く因縁を、説く人もいます。ご本人は、「万葉集」だったか、たまたま目にした、とか書いていますが、てれなのかどうか・・・、妻の美知子さんは、「それほど深く考えて付けた名前じゃありません」とか、おっしゃっていますが、やはり深読みしたくなるのでしょうね。
今年は、生誕109年にあたります。来年は「110周年」ということで、「100周年」の時のようには、いかないまでも、太宰ゆかりの各地で、さまざまなイベントが、開催される、でしょうね。
三鷹、荻窪、船橋、そして甲府、生まれ故郷の金木・・・、太宰の足跡をたどる旅も、相変わらず、盛んなようです。小生も、ミーハーなので、行ってみようかしら。
ところで、こんな記事を、見つけました。
太宰の下宿、東京から湯布院へ 「碧雲荘」交流施設に
2016/2/18 12:18「日経新聞」
作家、太宰治(1909~48年)がかつて暮らし、保存が危ぶまれていた東京都杉並区のアパート「碧雲(へきうん)荘」が、温泉地として知られる大分県由布市湯布院町に移築されることが18日までに決まった。
湯布院で旅館を経営する橋本律子さん(65)が解体・移築費用を負担。本を中心とした交流施設「文学の森」(仮称)として活用する。移築は今秋には完了する見通しで、橋本さんは「太宰の名前を発信し、全国から訪れる方を“お接待”したい」と語っている。
碧雲荘をめぐっては杉並区が昨春、高齢者福祉施設整備のため敷地を購入、今年4月までに建物を撤去することで所有者と合意した。しかし、地元住民らが「荻窪の歴史文化を育てる会」を組織し、建物の保存を訴えていた。
太宰が碧雲荘に住んだのは36年11月から37年6月までの約7カ月。駆け出し作家だった太宰は、薬の中毒症状で体調を崩し、病院から退院した直後。短編「東京八景」でも碧雲荘は「天沼のアパート」として登場する。
「育てる会」会長の岩下武彦中央大教授は「地元に残らないのは本当に残念だが、消失という最悪の結末は回避できた。移築を見守りたい」としている。(〔共同〕より)

東京の、アパートの窓から見る富士は、くるしい。冬には、はつきり、よく見える。小さい、真白い三角が、地平線にちよこんと出てゐて、それが富士だ。なんのことはない、クリスマスの飾り菓子である。しかも左のはうに、肩が傾いて心細く、船尾のはうからだんだん沈没しかけてゆく軍艦の姿に似てゐる。三年まへの冬、私は或る人から、意外の事実を打ち明けられ、途方に暮れた。その夜、アパートの一室で、ひとりで、がぶがぶ酒のんだ。一睡もせず、酒のんだ。あかつき、小用に立つて、アパートの便所の金網張られた四角い窓から、富士が見えた。小さく、真白で、左のはうにちよつと傾いて、あの富士を忘れない。窓の下のアスファルト路を、さかなやの自転車が疾駆しつくし、おう、けさは、やけに富士がはつきり見えるぢやねえか、めつぽふ寒いや、など呟つぶやきのこして、私は、暗い便所の中に立ちつくし、窓の金網撫でながら、じめじめ泣いて、あんな思ひは、二度と繰りかへしたくない。 (『富岳百景』より)
ここに登場する、「アパート」というのも、この「碧雲荘」でしょうか? 一説では、その共同便所からは、富士山は見えなかった、とか。どうでも、いいじゃないかねぇ。
※ その後、この跡地を含め、大規模な複合福祉施設「ウェルファーム杉並」が完成しています。
この施設の東北隅、道路に面して「碧雲荘」アパートがあったようです。
湯布院文学の森「碧雲荘」。
さて、この書。太宰治の死、そして人生、むろん文学に関わる方々の「追悼文集」になっています。すべて45人、今やすべて故人。解説の町田康さんのみ生きていらっしゃる、というわけです。
それだからこそ、太宰を語りながら、その方々の文学観、人生観、そして、その方の一生、言い過ぎならば、生の一端を垣間見ることができる、という、希有な読み物になっています。
太宰の死を、どう受け止めているか(受け止めたか)、太宰との関わりを、自らの生き方、遍歴と重ねながら、どう認識しているか、実に万華鏡のようなおもしろさがあります。
中でも、坂口安吾、中野重治、内田百閒、三島由紀夫などの文章は、大変、興味深く読みました。
玉川上水で死を共にし、抱き合っていたまま遺体が引き上げられた「山崎富栄」さんへの評価もさまざま。
死は、彼にとっては一種の旅立ちだったのだろう。その旅立ちに、最後までさっちゃんが付き添っていてくれたことを、私はむしろ嬉しく思う。
(豊島与志雄・p303)
太宰氏にとっては、あの女性がなくても、死は不可避の必然だったろう。・・・「情死」―いやな言葉だ― (野口冨士男・p104)
しかし、太宰治という人間は、没後を含め、作品で触れるだけの人でも、また、私生活でも接したことがある人でも、「自分と太宰」、「自分にとっての太宰」、「太宰からの語りかけ」という、とらえ方になってしまう、まさに「不思議」な人物でした。
その意味で、井伏鱒二の文章が、冒頭の弔辞と、「太宰治のこと」と、二編載せてあるところは、ちょっとキザかな。
町田康の、最後の言葉「すみません」も、いただけません。「さよなら(「グッド・バイ」)の言葉にかえて」という副題も、よくないやね。
明日からは、しばらく、梅雨空が、続くそうです。
昭和23年(1948年)6月19日。13日に玉川上水で愛人・山崎富栄と入水した太宰治。一週間後、奇しくも39歳の誕生日に遺体が発見され、その日を「桜桃忌」と称して、太宰を偲ぶことに。以来、70年の年月を経ても、まだ訪れる人は、絶えません。
また、ますます太宰の作品の世評は、特に、若い方々の評価は、高いようです。
「処女作集『晩年』を上梓してから13年目の、6月13日、絶筆『グッド・バイ』を13回書き残して、自殺した」(亀井勝一郎・p285)という「語呂合わせ」(失礼! )も手伝ってか、死んでもなお、太宰治の人となりや、文学は、「神秘」的に、生き続けています。
今や、俳句の、「夏」の季語にもなっている、とのこと。
「桜桃忌」の名付け親は、同郷で太宰と親交の深かった、直木賞作家・今官一。太宰晩年の短編小説「桜桃」の名にちなんで、命名されました。やはり、「桜桃・サクランボ」を食べながら、太宰を偲ぶのでしょうか。しかし、酒好きだった太宰に対しては、なんとも・・・。
山形名産の「サトウニシキ」は、抜群においしいです。
太宰のお墓の斜め前には、明治の文豪・森鴎外のお墓があります。太宰のお墓を参拝する人の中には、「森林太郎(「もりばやしたろう」・もちろん正しくは「もりりんたろう」)」って誰? という人もいるとか、ま、これも「都市伝説」のひとつですが。
「太宰治」というペンネームにも、あれこれ、曰く因縁を、説く人もいます。ご本人は、「万葉集」だったか、たまたま目にした、とか書いていますが、てれなのかどうか・・・、妻の美知子さんは、「それほど深く考えて付けた名前じゃありません」とか、おっしゃっていますが、やはり深読みしたくなるのでしょうね。
今年は、生誕109年にあたります。来年は「110周年」ということで、「100周年」の時のようには、いかないまでも、太宰ゆかりの各地で、さまざまなイベントが、開催される、でしょうね。
三鷹、荻窪、船橋、そして甲府、生まれ故郷の金木・・・、太宰の足跡をたどる旅も、相変わらず、盛んなようです。小生も、ミーハーなので、行ってみようかしら。
ところで、こんな記事を、見つけました。
太宰の下宿、東京から湯布院へ 「碧雲荘」交流施設に
2016/2/18 12:18「日経新聞」
作家、太宰治(1909~48年)がかつて暮らし、保存が危ぶまれていた東京都杉並区のアパート「碧雲(へきうん)荘」が、温泉地として知られる大分県由布市湯布院町に移築されることが18日までに決まった。
湯布院で旅館を経営する橋本律子さん(65)が解体・移築費用を負担。本を中心とした交流施設「文学の森」(仮称)として活用する。移築は今秋には完了する見通しで、橋本さんは「太宰の名前を発信し、全国から訪れる方を“お接待”したい」と語っている。
碧雲荘をめぐっては杉並区が昨春、高齢者福祉施設整備のため敷地を購入、今年4月までに建物を撤去することで所有者と合意した。しかし、地元住民らが「荻窪の歴史文化を育てる会」を組織し、建物の保存を訴えていた。
太宰が碧雲荘に住んだのは36年11月から37年6月までの約7カ月。駆け出し作家だった太宰は、薬の中毒症状で体調を崩し、病院から退院した直後。短編「東京八景」でも碧雲荘は「天沼のアパート」として登場する。
「育てる会」会長の岩下武彦中央大教授は「地元に残らないのは本当に残念だが、消失という最悪の結末は回避できた。移築を見守りたい」としている。(〔共同〕より)

東京の、アパートの窓から見る富士は、くるしい。冬には、はつきり、よく見える。小さい、真白い三角が、地平線にちよこんと出てゐて、それが富士だ。なんのことはない、クリスマスの飾り菓子である。しかも左のはうに、肩が傾いて心細く、船尾のはうからだんだん沈没しかけてゆく軍艦の姿に似てゐる。三年まへの冬、私は或る人から、意外の事実を打ち明けられ、途方に暮れた。その夜、アパートの一室で、ひとりで、がぶがぶ酒のんだ。一睡もせず、酒のんだ。あかつき、小用に立つて、アパートの便所の金網張られた四角い窓から、富士が見えた。小さく、真白で、左のはうにちよつと傾いて、あの富士を忘れない。窓の下のアスファルト路を、さかなやの自転車が疾駆しつくし、おう、けさは、やけに富士がはつきり見えるぢやねえか、めつぽふ寒いや、など呟つぶやきのこして、私は、暗い便所の中に立ちつくし、窓の金網撫でながら、じめじめ泣いて、あんな思ひは、二度と繰りかへしたくない。 (『富岳百景』より)
ここに登場する、「アパート」というのも、この「碧雲荘」でしょうか? 一説では、その共同便所からは、富士山は見えなかった、とか。どうでも、いいじゃないかねぇ。
※ その後、この跡地を含め、大規模な複合福祉施設「ウェルファーム杉並」が完成しています。

湯布院文学の森「碧雲荘」。

さて、この書。太宰治の死、そして人生、むろん文学に関わる方々の「追悼文集」になっています。すべて45人、今やすべて故人。解説の町田康さんのみ生きていらっしゃる、というわけです。
それだからこそ、太宰を語りながら、その方々の文学観、人生観、そして、その方の一生、言い過ぎならば、生の一端を垣間見ることができる、という、希有な読み物になっています。
太宰の死を、どう受け止めているか(受け止めたか)、太宰との関わりを、自らの生き方、遍歴と重ねながら、どう認識しているか、実に万華鏡のようなおもしろさがあります。
中でも、坂口安吾、中野重治、内田百閒、三島由紀夫などの文章は、大変、興味深く読みました。
玉川上水で死を共にし、抱き合っていたまま遺体が引き上げられた「山崎富栄」さんへの評価もさまざま。
死は、彼にとっては一種の旅立ちだったのだろう。その旅立ちに、最後までさっちゃんが付き添っていてくれたことを、私はむしろ嬉しく思う。
(豊島与志雄・p303)
太宰氏にとっては、あの女性がなくても、死は不可避の必然だったろう。・・・「情死」―いやな言葉だ― (野口冨士男・p104)
しかし、太宰治という人間は、没後を含め、作品で触れるだけの人でも、また、私生活でも接したことがある人でも、「自分と太宰」、「自分にとっての太宰」、「太宰からの語りかけ」という、とらえ方になってしまう、まさに「不思議」な人物でした。
その意味で、井伏鱒二の文章が、冒頭の弔辞と、「太宰治のこと」と、二編載せてあるところは、ちょっとキザかな。
町田康の、最後の言葉「すみません」も、いただけません。「さよなら(「グッド・バイ」)の言葉にかえて」という副題も、よくないやね。
明日からは、しばらく、梅雨空が、続くそうです。