おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

JR「倉賀野」駅~東武「境町」駅。その2。(「日光例幣使街道」第1日目。)

2018-06-26 21:39:02 | 日光例幣使街道
                    (10:07)「関越自動車道」の下をくぐって進むと、「玉村宿」へ。
玉村宿                     
 江戸時代初期、幕府の代官伊那備前守忠次によって新田が開発され、付近の住民を移して集落が形成された玉村は、寛永13(1636)年、日光東照宮が完成、例幣使街道の開通によって街道一の宿場町へと発展しました。本陣1軒、旅籠屋50軒、問屋場2軒。
 今の玉村宿は慶応4(1868)年の大火で全焼したため、当時の面影はあまり残っていない。

 例幣使一行は、毎年旧暦4月1日に京を出発して中山道を経由、4月11日に倉賀野を通過後、「玉村宿」に到着し、一泊。次の宿泊地である「天明宿」を経由し、4月15日に日光に到着するという行程でした。

はるか向こうまでまっすぐな道が続きます。

(10:20)左手には「萬福寺」の石仏群。

 「萬福寺」から6~7分、左手にある旧家は元「問屋場」であった井田家。「泉屋」という屋号をもつ造り酒屋「井田酒造」を営んでいます。
 母屋は、慶応4(1968)年の大火を免れた江戸時代の貴重な建物です。


                          

すぐ隣の「玉村八幡宮」駐車場から望む。

 永正4(1507)建立という「玉村八幡宮」の本殿は、国の重要文化財となっています。境内には「芭蕉句碑」があるとのこと。(この先、道中では芭蕉の句碑が散見できます。)
 やすやすと出でていざよふ 月の雲   翁


堅田十六夜の弁(元禄4年8月16日:48歳)
 望月の残興なほやまず、二三子いさめて、舟を堅田の浦に馳す。その日、申の時ばかりに、何某茂兵衛成秀といふ人の家のうしろに至る。「酔翁・狂客、月に浮れて来れり」と声々に呼ばふ。あるじ思ひかけず、驚き喜びて、簾をまき塵をはらふ。「園の中に芋あり、大角豆あり。鯉・鮒の切り目たださぬこそいと興なけれ」と、岸上に筵をのべて宴を催す。月は待つほどもなくさし出で、湖上はなやかに照らす。かねて聞く、中の秋の望の日、月浮御堂にさし向ふを鏡山といふとかや。今宵しも、なほそのあたり遠からじと、かの堂上の欄干によって、三上・水茎の岡、南北に別れ、その間にごして峰ひきはへ、小山いただきを交ゆ。とかく言ふほどに、月三竿にして黒雲のうちに隠る。いづれか鏡山といふことをわかず。あるじの曰く、「をりをり雲のかかるこそ」と、客をもてなすこころいと切なり。やがて月雲外に離れ出でて、金風・銀波、千体仏の光に映ず。かの「かたぶく月の惜しきのみかは」と、京極黄門の嘆息のことばをとり、十六夜の空を世の中にかけて、無常の観のたよりなすも、この堂に遊びてこそ。「ふたたび恵心の僧都の衣もうるほすなれ」と言へば、あるじまた言ふ、「興に乗じて来たれる客を、など興さめて帰さむや」と、もとの岸上に杯をあげて、月は横川に至らんとす。
錠明けて月さし入れよ浮御堂  ばせを

やすやすと出でていざよふ月の雲 同

 この句は、上にも記されているように、「いざよい」(十六夜)にちなんだ句で、近江八景の一つ「堅田の落雁」として知られる琵琶湖・堅田の浮御堂での作。(「浮御堂」は、平安時代、恵心僧都が湖上安全と衆生済度を祈願して建立したという。)
 現在、その堅田には「十六夜公園」があるそうです。
 
 「玉村八幡宮」と反対側の道を行くと、「称念寺」には「家鴨(あひる)塚」という石塔があります(10:32)。


                 
 嘉永3年(1850)、国定忠次郎(忠次)が捕縛され江戸送りの途中、玉村宿に17日間留置かれました。その時に、道案内の者(目明かし)の角万佐十郎(本名柳澤佐十郎)が忠次郎の中風に同情し、その治療のため家鴨の生血を飲ませたと云われています。その家鴨の供養のため、この碑が安政5(1857)年に建立されたと伝えられます。

 手前の岩石は、浅間山が噴火したときの溶岩とのこと。この先、「五料」宿・関所にかけて天明3年(1783)浅間山の大噴火の被害を伝える溶岩、石仏などが多くあります。

「玉村町散策マップ」。

「例幣使道玉村宿」交差点。
             
(10:40)「町田酒造」。
                              銘柄は、「太平人」。
       
 その向かいの道路を入った奥に「木島本陣歌碑」があります。
 
木島本陣跡歌碑
 玉村宿は、中山道倉賀野宿から分かれた例幣使道の第一宿でした。木島家は、本陣として朝廷からつかわされる例幣使や公務の役人が宿泊しました。元の建物は、慶応4年(1868)の玉村宿大火で焼失してなく、屋敷内には、天保14年(1843)帰路も中山道をたどった例幣使参議有長の歌碑〔建立文久4年(1864)4月17日〕があり、当時の名残を物語っています。

 天保十四年卯月例の
   みてくらの使にかさねて
     むかひける帰るさに

玉むらのやどりにひらくたまくしげ 
 ふたたびきそのかへさやすらに 参議有長


閑静な街並み。

木造の「日光例幣使道」解説板。
 国道354号(注:現在は「県道142号線」)は、江戸時代日光例幣使道と呼ばれ、日光東照宮に毎年朝廷から派遣された例幣使が通行した道です。朝廷は正保3(1646)年久しく中断していた伊勢神宮への例幣使の再興と併せて日光東照宮へも派遣を決め、同4年以後慶応3(1867)年まで221回、毎年4月に派遣されていました。
 このように東照宮が朝廷から特別の権威と待遇を与えられたことから、幕府も例幣使専用の通行路として、中山道の倉賀野宿で分かれてから、玉村、五料を経て利根川を渡り、芝、木崎、太田を経由して壬生通りの楡木に至るまでの間を日光例幣使道と命名しました。
 明和元(1764)年には道中奉行の直接支配下に置かれ、当時の東海道等の五街道に次ぐ道路として整備・管理されるようになりました。その頃の玉村宿は本陣と問屋や旅籠が軒を並べ、五料宿には関所があり問屋や河岸もあって交通の要衝としての機能を果たしていました。また、例幣使のほかに日光参拝の公卿や大名をはじめ多くの人達の往来があり、たいへん栄えました。
 現在、玉村宿の往時を偲ぶものとしては、国重要文化財指定の本殿がある玉村八幡宮や問屋のたたずまいを残す井田家や、本陣が置かれた木島家に残る例幣使参議綾小路有長の歌碑等があります。


赤煉瓦造りの建物(「桐生信用金庫」倉庫)。

玉村宿を振り返って望む。

右手に、「上州櫓造り」の建物。
 換気をよくするため空気を通す小屋根があります。養蚕農家に特徴的な造り。現在はほとんど見られません。この家でも塞がれていて使用していないようす。かつては群馬、栃木ではよく植えられていた桑畑も沿道にはまったく見当たりません。

 (11:02)しばらく進むと、玉村宿の下木戸があった場所といわれている、その左手に石塔群があります。

 その手前に「毘沙門堂の石灯篭」が建てられています。この石灯篭は、江戸時代、下新田村と飯島村の境にあった毘沙門堂の常夜燈であったと伝えられているようです。文化財としてこの地に保存されています。


(11:15)一直線だった街道が緩やかに右に曲がります。

 家並みも少なくなり、左右に田畑が開けてきます。


           

 街道は工業団地の中を30分ほど進みます。少しぽつぽつ雨模様に。来た道を振り返って望む。


 (11:41)左手の小さな公園に石碑が何本か建っています。
 
「日露戦争戦役記念碑」。                    「日清戦争戦役記念碑」。 

そして「聖跡記念碑」と刻まれた石塔。
                               明治天皇が旧陸軍の演習を天覧した記念碑。
その先で左側の「旧道」に入ります。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする