おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

JR「倉賀野」駅~東武「境町」駅。その4。(「日光例幣使街道」第1日目。)

2018-06-28 21:48:06 | 日光例幣使街道
                                 「関根本陣」跡。

 左手に道に覆い被さる老い松と古びた門。
 
                   建物は以前、解体されましたが、門は残っています。 

解説板「柴宿本陣跡」。
 日光例幣使街道は、中山道倉賀野宿から分岐して壬生通りの楡木宿に至るまでの13宿で、柴宿はこの3番目の宿場であり、関根家が代々本陣経営に当たっていました。
 本陣は元来、高級武士や公卿の宿泊休憩施設として設置されたものです。構造は近世の武家住宅を基本として、これに、店舗的要素を加えて発達した一種独特の機能を有する建物で、柴宿本陣も概ねこの例にならっています。
 なお、関根家には本陣当時の文書類、調度品が数多く残されており、近世交通史上貴重な資料となっています。 

 本陣跡から200mほど先で右折します。天明の浅間山大噴火でこの付近の利根川流域が壊滅状態になり、街道も道が移され、宿場も元の位置から北側に移設されたため、変則的な道筋(枡形)になっています。

(12:36)右折するところから宿内を振り返る。

 しばらく進み、今度は左折します。けっこうな曲がり具合で車がスピードを出しているとはみ出しそうな感じ。歩行者も要注意。


その曲がり角に「雷電神社」。境内に浅間山噴火の際の溶岩でつくった塚があります。
 「雷電神社」は、特に関東地方を中心に点在する神社で、これまでの街道歩きでも目にしてきました。主な祭神は火雷大神、大雷大神、別雷大神。雷除けの神とされています。北関東は「雷」の多いところ?
 群馬県邑楽郡板倉町板倉にある「雷電神社」が、関東地方の「雷電神社」「雷電社」の事実上の総本社格とされているようです。
 先ほど通ってきた、利根川の右岸(玉村町)には「火雷神社」(主祭神:火雷神《ほのいかづちのかみ》)があります。

1880年代のようす。○が右折地点

2010年代のようす。

ここから、またまっすぐな道が続きます。

振り返って望む。

 柴宿の加宿だった「中町」「堀口町」を過ぎたあたりから雨脚が強くなってきます。先を急ぎます。
(13:00)遠くに「東京福祉大学」のキャンパス。

                       (13:06)雨で霞む校舎。

(13:14)「除ヶ(よげ)・大正寺(だいしょうじ)交差点」で「国道462号線」を横断。

(13:23)公民館の庭先にある「道標」。
             「西五料 東日光道 南本庄道」などと刻まれている。
 この街道沿いには「道標」が多く設置されています。この道標の手前の「豊武神社」の二十二夜塔にも「右ちゝぶ/左日光」とあるようです。

 左手に大きな石碑。
  
宏洞松本翁頌徳碑」。
 江戸末期から明治末にかけて活躍した地元の書画家の顕彰碑です。

紛らわしい案内表示。右手の細い道に進むかのような。

 通りがかった小学生たちに聞いたら「この道には小学校しかないですよ。」(広い方の道を指して)「焼きまんじゅうのお店はこの先にあるかな? 」「ありますよ。」「ありがとう。」「さようなら。」・・・この小学生たちだけではなく、出会う方、通りすぎる方、軒先にいる方など、みんな挨拶をするのには、感心しました。

 角には丸い石柱の道標と小さな角柱の道標(どちらも刻まれた内容は判読できず)。


 (13:35)その先の右手には、「伊勢崎織物 大絣(かすり)発祥の地」と記された大きな石碑。「報繊会結成五十五周年記念碑」としての建立。

 伊勢崎織物の主要原料糸は, 古くから生糸、玉糸を 使用し、その糸は六十キログラムを一俵として白い綿袋 に入れ、更にアンペラの袋に梱包され、縄掛して取引された。
 伊勢崎織物の最盛期の昭和の初期には、約六万俵が消費され、この礎石はその俵を擬している。
 又、碑の台座は、織物を反物として丸巻した姿を模した。
・・・
 今ここに輝ける御功績を賛え 後世にその芳名を伝えるため謹んで銘記する
                          昭和六十二年一月吉日 報繊協同組合

伊勢崎絣とは?
伊勢崎絣(いせさきがすり)とは群馬県伊勢崎市周辺で作られている織物です。代表的なものは着物に採用され、その手触りや風合いは古代より高く評価されてきました。今ではネクタイやのれんなどが生産されており、使うほどに絣の模様や光沢に味が出て、生地の深みが増していきます。
伊勢崎絣の特徴は、「括り絣(くくりかすり)」、「板締め絣(いたじめかすり)」、「型紙捺染加工絣(かたがみおしぞめかこうかすり)」という技法が用いられ、工程のほとんどを手作業で行うことです。

 群馬県伊勢崎市は水はけのよい土地に恵まれ、桑の成長しやすい環境にあるため、古くから養蚕が栄えていた町でした。6世紀のものと推定される淵名古墳からは織物片が出てくるなど、織物の歴史は1200年以上とされています。日本書紀には、朝廷に「あしぎぬ」と呼ばれる織物を献上した記録が残っています。市内にある織物の神を祀る倭文神社(しどりじんじゃ)、機織りの祖先を祀る赤城神社の存在からも織物が地域を活性化させていたことがわかります。
 18世紀の初めの江戸時代には絹市が並び、伊勢崎絣は商品として販売されるようになりました。伊勢崎縞(しま)や伊勢崎太織(ふとり・ふとおり)という品物が登場し、特産品の地位を築いていきます。
 需要が高まると機織りをする農民が増え、仕上げを行う元機屋が登場したきっかけでその伸びは加速しました。1847年(弘化4年)には伊勢崎大絣の起源となる織り方も開発され、作業工程の改善などを繰り返すごとに伊勢崎絣は美しさを増していきます。
 明治時代末期には機械化され黄金時代が幕を開けます。戦後の復興を乗り越え、1975年(昭和50年)には伝統的工芸品として国に認められました。
現在では毎年3月に「いせさき銘仙の日」を定め人々に認知され続けています。

(以上、HPより)



 伊勢崎と並んで絹織物の産地・桐生織物の紹介を。

 桐生織物は1200年前の記録まで遡れるながい歴史を持っています。江戸時代には、幕府の保護もあって「西の西陣、東の桐生」といわれるまでに栄え、明治時代にかけては数々の技術開発や工場制手工業制の確立、ジャカード技術の導入などにより、さらに発展しました。こうした伝統を持つ「桐生織」は昭和52年通商産業大臣伝統的工芸品に指定されています。同時に桐生は絹織物を基幹産業として、時代の要求にあった多品種の織物を高度な技術で製造し、日本有数の繊維総合産地としての地位を築いています。

(この項、「日本絹の里 シルクの総合博物館」HPより)

(13:39)右側の一角に「牛打松」の跡。切り株が残っています。世良田長楽寺を開山した栄朝禅師が牛に乗り、鞭代わりに用いた松の小枝が根付いたと伝わっています。左手には芭蕉の句碑があります。
  

                        

涼しさやすぐに野松の枝の形(なり)
 元禄7年5月11日。伊賀上野の雪芝亭にて。『蕉翁全伝』には、「此の句は閏5月11日の夜、雪芝亭に遊びて、庭の松の物好きもなく植ゑたるを興ぜられしなり。」とあることから句の解釈が可能になる。
・・・
 この家の庭の松は、無理に曲をつけたわけでもなく、枝ぶりはまっすぐに伸びた自然のままでなんとも好感が持てる。それがこの庭の涼しさを一層引き立てているようだ。
 雪芝に対する挨拶吟。この折、雪芝亭ではこの松を植えたばかりだったようである。その植栽記念に芭蕉を招いたのかもしれない。

(以上、『芭蕉俳句全集』HPより)

 「向松庵創立二百年記念碑」は「向松庵」という「牛打松」に向かって建てられた庵の主の顕彰碑となっています。芭蕉の他「松」にちなんだ2名の句が記されています。

(13:45)かなり雨が激しくなってきます。
左手に「日清・日露戦役記念碑」
コメント
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