けっこう長い上り道が続きます。国道から1本、西側の道になります。
「ちぃまっぷ」。
聖坂。
古代・中世の通行路で、商人を兼ねた高野山の僧(高野聖)が開き、その宿所もあったためという。竹芝の坂と呼んだとする説もある。
振り返り、坂下を望む。。
「亀塚公園」。
亀塚の名称の由来は複数伝えられている。
- 円墳状の盛り土が存在することによるもの。但し、昭和46年に実施した港区教育委員会と慶應義塾大学文学部との合同調査では副葬品も含めて何も見つかっておらず、古墳であったとは判断できない。
- 竹芝伝説の竹柴の衛士の宅地にあった酒壷の下に住んだ霊亀を土地の人が神にまつったものであるとされるもの。
縄文時代の住居跡が発掘されている。
円墳上部には登ることができ、かつてはそこから360度の方角で東京全体を展望できたが(昭和30年代までは房総半島を視認することが出来たとのこと)、現在は御田八幡神社側に樹木が生い茂り遠望は望めない。華頂宮邸時代の外壁はそのまま存在し、公園を取り囲んでおり独特の雰囲気を醸し出している。
(この項、「Wikipedia」より)
※坂の途中、左に「蟻鱒鳶ル(ありますとんびる)」という奇抜なビルがありますが、見逃し。
港区旧町名由来板。
「伊皿子」交差点。左の坂が「伊皿子坂」正面が「二本榎通り、右が「魚籃坂」。
「歯科医学教育発祥之地」碑。
伊皿子交差点付近(三田四丁目18番地)に高山歯科医学院(東京歯科大学の前身)が存在した。同所には「歯科医学教育発祥之地」が東京歯科大学によって設置されている。
「伊良子坂」。
泉岳寺から上り坂に入り、頂上で魚籃坂に繋がる。江戸時代には、この坂から江戸湾が一望に見渡せた。付近には高輪皇族邸(旧高松宮邸)がある。
およそ1600年頃に、来日した明人が当地に帰化し、当時の外国人の呼称「エビス」「イベス」から自らを「伊皿子」(いびす)と名乗ったという。この帰化人の名が「伊皿子」という町名の由来とされる。明国人「伊皿子」の墓所は高輪の浄土真宗本願寺派正源寺にある。
この坂を左に下り、国道1号線に出ます。
日本橋方向。再び坂を上がります。
途中、左に「泉岳寺」。赤穂浪士と主君のお墓があります。
「周辺開発状況」。変貌著しい。
西に下る魚籃坂。
魚籃坂(ぎょらんざか)
港区三田四丁目と高輪一丁目の境に存在する坂である。なお、魚籃坂の「籃」は「くさかんむり」ではなく「たけかんむり」である。また「魚籃(ぎょらん)」とは魚を入れる籠すなわち「魚籠(びく)」のことである。「魚らん坂」とも表記される。
魚籃坂下交差点から登り、頂上から伊皿子坂に至る(すなわち麻布側からの登りが魚籃坂、頂上から海側に降りる坂が伊皿子坂である)。
坂の中腹に魚籃寺が存在することから付けられた。
※この付近の坂は、以前歩いたことがあります。