「中原街道」歩き第2日目。
1月13日(祝)。快晴。
孫が成人式。晴れてよかった! 風は強く冷たいが。中学時代の友人と連れ立って出かけた。背広姿も様になってきたか?
というわけで、当方、寒風の中をJR「五反田駅」から東急多摩川線「沼部駅」まで。
途中、洗足池と「勝海舟記念館」で時間をとってしまい、「丸子橋」の手前まででした。
五反田駅前の案内図。
「大崎橋」。
「目黒川」。
東京都世田谷区三宿の東仲橋付近で北沢川と烏山川が合流して目黒川となり南東へ流れ、品川区の天王洲アイル駅付近で東京湾に注ぐ。河口付近では古くは「品川」(しながわ)といい、古代から中世まで武蔵国の品川湊があった。品が行き交っていた川であったことから、地名「品川」の起こりとされる。
1957年(昭和32年)には、台風22号による集中豪雨で氾濫が発生したことがある。
(この項「Wikipedia」参照)
右手の大きなビルは、「TOCビル」。
TOCビル
東京都品川区西五反田7丁目に位置する、商業施設・コンベンションセンター等の複合施設である。TOCとは「東京卸売センター(Tokyo Oroshiuri Center)」の略称である。
星製薬工場跡地に建設された地下3階地上13階の建造物で、落成当時は日本最大の容積率であった。事務所・ショールームとして貸し出されている部分、飲食店舗や小売店舗群、展示ホール、貸し会議室等からなる。
「中原口信号」。
「国道1号線(第2京浜)」と交差。右手に「中原街道」
右手の道に進む。
高速道路下を抜け、旧中原街道に入ります。
細い上り坂の道。
上りきった先の右手角に「子別れ地蔵」。
享保12年(1727)に建てられた「子別れ地蔵」と呼ばれた地蔵菩薩です。ここは、かつて桐ヶ谷の火葬場に続く道筋で、子に先立たれた親がその亡骸を見送った場所といわれております。
その先、左手には、
「旧中原街道供養塔群」。
ここの供養塔群は、かつては、現在地から北方約一〇メートル、旧中原街道と碑文谷道の交差点付近にあったが、昭和三十八年(一九六三)の区画整理の際、現在の場所に移された。
ここには四基の供養塔があり、四基とも、安山岩でできている。
(1)中央の大きい石造地蔵菩薩供養塔は、丸彫地蔵菩薩立像で、像身ーニ五・〇、総高一九ニ・〇センチメートルに及ぶ。造立年代は明らかではないが、台石に刻まれている一七ヵ村の村名や形態からみて、江戸中期と考えられる。
(2)右手には、寒念仏供養のため延享三年(一七四六)に造られた、像身五六・〇センチメートルの石造地蔵菩薩供養塔があり、舟型光背地蔵菩薩半肉彫立像で、右手に錫杖、左手に宝珠を持っている。
(3)右手奥の石造馬頭観世音供養塔は、舟型光背馬頭観世音半肉彫立像で、像高が九六・〇センチメートル。元文元年(一七三六)の造立で、右手は上方が輪宝、下方が矢、左手は上方が棒状のもの、下方は欠損していて不明、中央の手は合掌している。江戸中期に、戸越本村の馬を農耕や運送に利用していた村民が、馬持講を組織していたことを示している。
(4)前記三基が供養塔であるのに対し、左手前にある舟型光背聖観世音菩薩半肉彫立像は、石造墓碑であり、正面に「妙法珠妙躰霊」の銘文がある。貞享年間(一六八四~八七)に建てられたもので、像高は八六・〇センチメートルある。上方に妙法とあるので、日蓮宗の檀徒であることが分かる。この墓碑がいつ供養塔群の中に入ったのか明らかではないが、他の場所から移されたものと推定される。
これらが造立された江戸中期以降の、庶民の信仰の状況を示すものとして貴重である。
「旧中原街道」の標示。
右手奥に「星薬科大学」。
「旧中原街道供養塔群(二)」。
旧中原街道は江戸虎ノ門より相模国平塚に至る道路で、かつては東海道に並行した脇街道として旅行者や物資の輸送にりようされた。本供養塔群は旧戸越村地内の旧中原街道に沿った所に六基存在する。・・・これらの供養塔群は、旧街道時代の状態がよく遺され、江戸期の街道の面影を伝えるものとして、また戸越村・桐ヶ谷村の民間信仰を今に伝える民俗資料としてその価値が高い。
この付近は、道路拡張予定地。
旧道も大きく変化するのでは?
来た道を振り返る。
この付近の今昔。
(現在)現中原街道の1本北西側の道が旧中原街道。
(1880年代)農村地帯となっている。