英 一蝶(はなぶさ いっちょう、承応元年(1652年) - 享保9年1月13日(1724年2月7日))は、日本の江戸時代中期(元禄期)の画家、芸人。俳号は「暁雲(ぎょううん)」「狂雲堂(きょううんだう)」「夕寥(せきりょう)」。
元禄11年(1698年)、今度は生類憐れみの令に対する違反(後述)により、三宅島へ流罪となった。
乏しい画材を駆使しての創作活動であったが、江戸の風俗を活き活きと描いたり、島民の求めに応じて描いたりした多数の縁起絵などが残されている。一蝶はいつも江戸の方角へ机を向け、創作活動をしていたと伝わり、そこから「北窓翁」の雅号が生まれた。この時期の風俗画は、推定も含め『四季日待図巻』『吉原風俗図巻』『布晒舞図』『松風村雨図』の4点確認されている。画材こそ良質とはいえないが、江戸を偲び、我が身を省みて心情を託して描かれた作品群は、一蝶の代表作の一部として知られる。この時期に描かれた作品を特に島一蝶と呼ぶ。島一蝶は、一蝶を支援した御用船主の梅田藤右衛門がいた新島には16点が伝わり、御蔵島にも絵馬や『鍾馗図』が残る。一方、三宅島には『七福神図』一幅のみ、これは火山噴火や火災で失われたほか、江戸での島一蝶人気を受けて、島を訪れた富山の売薬行商人が買い漁り、持ち出されたためである。
島では、絵を売った収入で居宅を購入して「家持ち流人」となって商いも営み、島役人ともうまく付き合い、流人としてはゆとりのある暮らしをしていた。世話をしてくれていた名主の娘との間に、子を成している。また、配流中の元禄15年(1702年)に、随筆『朝清水記(あさしみずき)』を記す。
宝永6年(1709年)、将軍徳川綱吉の死去による将軍代替わりの大赦によって許され、12年ぶりに江戸へ帰る。このころから英一蝶と名乗り、深川の宜雲寺に住まい、市井の風俗を描く人気絵師として数々の大作を手がけた。また、吉原での芸人活動も続けていたらしく、豪商の奈良屋茂左衛門や紀伊國屋文左衛門らとの交遊の話が伝わる。
江戸に帰った一蝶が、島流し以前に自身が描いた四季絵を見せられて、喜び懐かしんで書いた一文が『浮世絵類考』に収録されている。「此道(岩佐又兵衛・菱川師宣などによる画)予が学ぶ所にあらずといへども 若かりし時あだしあだ浪のよるべにまよひ 時雨朝がへりのまばゆきもいとはざるころほひ 岩佐菱川が上にたゝん事を思ひては」。自らもそういう浮世絵のような風俗画を描いたと述懐しており、この文からは岩佐・菱川両者の作品群に対する一蝶の意識を感じられる。
享保9年(1724年)、死去。享年73。戒名は英受院一蝶日意居士。東京都港区高輪二丁目の承教寺顕乗院に墓所があり、大正13年(1924年)2月には東京府知事によって史跡に指定された。辞世の歌は「まぎらはず浮世の業の色どりも有とて月の薄墨の空」。
※「没後300年記念 英一蝶 ―風流才子、浮き世を写す―」がサントリー美術館で開催。英一蝶の過去最大規模の回顧展
江戸時代の絵師・英一蝶(はなぶさいっちょう・1652~1724)の大規模回顧展が東京・六本木のサントリー美術館で開催。会期は9月18日~11月10日。
この付近は、「高輪台」という高台にあたります。
※高輪の地名は、高い所にある、まっすぐな道という意味の高縄手道が略されたものとも、岬を意味する高鼻というのがなまったものといわれる。
右奥に「二本榎」。
二本榎の由来
その昔、江戸時代に東海道を日本橋からきて品川宿の手前、右側の小高い丘陵地帯を「高輪手(たかなわて)」と呼んでいましたが、そこにある寺に大木の榎が二本あって、旅人のよき目標になっていたそうです。
誰いうことなくこの榎を「二本榎」と呼ぶようになりました。
それがそのまま「二本榎」(にほんえのき)という地名になって続き、榎が枯れた後でもt地名だけは残りました。
戦後、地番変更で高輪4丁目などと地名は変わりましたが、「榎」は幾度となく植樹・移植が行われ、町の人々の大切な象徴となっています。
平成17年(2005年)12月
通りを挟んだ向かい側にあるのが、「高輪消防署」。
庁舎は昭和8年(1933年)に完成し、現在、「東京都選定歴史的建造物」に指定されています。現役の消防署として活躍中。
正面の円筒形の3階部分の上に、灯台のような火の見櫓が立っています。正面入口には「署防消輪高」と右側から書かれていました。
どこかで見たことがあるような建築物。「(関東大)震災復興小学校・公園探索」で訪ねた、旧「台東区立小島小学校」や旧「中央区立京華小学校」などの構造とよく似ています。昭和の初期、ほぼ同じ頃に建てられた建て物であることが分かります。
注: 旧「小島小学校」校舎。半円柱状(丸い搭状)の外観。
屋上は完全な円形で、物見塔(火の見櫓?)のよう。
旧「京華小学校」校舎。曲線に特徴
その先に、
「味の素グループ高輪研修センター」の表門?
ここには、があるようです。
「柘榴坂」。
「柘榴坂」。 (ざくろざか)
坂名の起源は伝わっていない。ざくろの木があったためか、江戸時代はカギ形に曲り、明治に直進して新坂と呼んだ。
1880年代のようす(「歴史的農業環境閲覧システム」より)。
↓の部分がカギ形になっている。この後、改修したと思われる。「東海道」(現在の「第一京浜」)のすぐ東には東京湾が広がっていた。海岸線を通る直線は、新橋からの鉄道線路。
実は、この手前で右折し、「国道1号線」に進むべきでしたが、そのまま進んでしまいました。
「物流博物館」。ここで気づきバックしましたが、
左折して長い下り坂を「五反野駅」方向に歩きます。
(現在)歩いた道は旧鎌倉街道のようです。
東五反田付近をウロウロ。
(1880年代)高輪台付近に集落があります。
集落沿いの道が「中原街道」か?
駅前の大通り。
「JR五反田駅」。
今回は、ここまで。