おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

「相模海軍工廠」跡。毒ガス、防毒マスク等を製造。圏央道工事中に事故発生。A事案区域。

2025-03-12 21:23:08 | 歴史・痕跡

1939(昭和14)年に操業を開始した「昭和産業一之宮工場」は、1941(昭和16)年4月、海軍によって買収。1943(昭和18)年5月に平塚にあった海軍技術研究所の化学研究部を母体として相模海軍工廠(こうしょう)が同所に開設さた。なお、海軍による工場買収後の1942(昭和17)年10月、昭和産業駅四之宮口駅と改称されている。

《西寒川支線の歴史》

・大正11年(1922)5月10日 - 寒川駅~四之宮駅間が開通(砂利貨物)
 (四之宮駅名は相模川を挟んで平塚市四之宮の飛び地が寒川町側にあったのでその名が付いた)
・大正12年(1923)2月5日 - 途中駅として東河原駅開業(貨物駅)(後の西寒川駅)
・昭和13年(1938)8月 - 昭和産業㈱一之宮工場が操業開始
・昭和14年(1939)10月1日 - 東河原駅を昭和産業駅と改称
・昭和15年(1940)4月20日 - 寒川駅~昭和産業駅間で旅客営業を開始
・昭和16年(1941)4月 - 海軍が昭和産業㈱一之宮工場を買収
・昭和17年(1942)10月 - 昭和産業駅が四之宮口駅に改称
・昭和18年(1943)4月 - 相模海軍工廠が発足し、軍事輸送が本格化(この頃、西寒川~相模海軍工廠内に0.8kmの側線が敷設されたと思われる)
・昭和19年(1944)6月1日 - 旧相模鉄道分が運輸逓信省に買収される。四之宮口駅から西寒川駅に改称、四之宮駅~西寒川駅間廃業

・昭和29年(1954)10月 - 寒川駅~西寒川駅間の旅客営業が廃止(昭和21年頃から旅客列車の運行は無かった)

この「相模海軍工廠(こうしょう)」では、毒ガス、防毒マスク等を製造した。

海軍は毒ガスのことを特薬と名付け(陸軍は色で呼ぶ)、
 
1号特薬(催涙)(緑)
 
2号特薬(クシャミ)(赤)
 
3号特薬甲.(びらん)イペリット(黄1号)乙(びらん)、ルイサイト(黄2号)
 
4号特薬(致死)青酸(茶)があり、
 
他にホスゲン(青)、窒素イペリットガス等があり、細菌兵器として11号特薬もあったとされる

平塚の海軍技術研究所・相模海軍工廠(寒川)で研究開発され実戦配備された各種毒ガス兵器は、南方ラバウル、トラック、サイパン、フィリピン、インドネシア、南洋諸島に配備された。

終戦後、戦犯逃れの為、そのほとんどが遺棄、隠匿されたとされ、平成14年に圏央道工事中に当地でビール瓶に入った3号特薬、すなわちマスタードガスに暴露された作業員11名が被災するという事件が起きた。
 
それを機にA事案区域が規定され、掘削などの土地の改変が厳しく制限されるようになった。

この「旧相模海軍工廠跡地」は、A事案区域に該当している。

※A事案区域

環境省が平成15年に実施した<昭和48年の「旧軍毒ガス弾等の全国調査フォローアップ調査>において終戦時における旧軍の化学兵器に関連する情報を集約した結果を踏まえ設定した事案(毒ガス弾等の存在に関する情報の確実性が高く、かつ、地域も特定されている事案)に該当する区域のことです。具体的には、以下の3区域になります。

1.旧相模海軍工廠跡地(神奈川県寒川町一之宮七丁目付近)

2.旧相模海軍工廠化学実験部跡地(神奈川県平塚市内)

3.旧陸軍習志野学校地(千葉県習志野市・船橋市内)

1-1.旧日本軍相模海軍工廠について
旧海軍工廠は、イペリット爆弾等の化学兵器や火工兵器の本格的な量産を目的として、海軍技術研究所の化学研究部から昇格した工廠です。
現在の寒川町一之宮に相模海軍工廠寒川本廠(約70万㎡)があり、平塚には海軍技術研究所の化学実験部として相模海軍工廠平塚工場がありました。

《事故発生より現在までの経緯》

1.発見日時 平成14年9月25日(水)
2.発見場所 神奈川県高座郡寒川町一之宮6丁目地先
一之宮高架橋下部(その10)工事※現場(P29)
※国土交通省横浜国道工事事務所発注
3.発見確認者 株式会社 松尾工務店(工事請負業者)
4.発見の状況 高架橋下部構造物を築造するために、鋼矢板で締切り(9.2m×15.6m)を行い、締切り内の地盤掘削(GL-2.2m付近)を行ったところ、異臭とともに不審物(ビール瓶)が数本分割れた状態で発見された。
5.発生経緯等
平成14年
9/25~27 ・土工掘削中に作業員がビン数本を割れた状態で確認するとともに異臭を確認
9/30 ・土工掘削完了
10/1~12 ・作業員6名発症(発疹、かぶれ等)
 (現在、発症された方6名、発症の疑いのある方5名、合計11名)
10/ 8 ・ビンの内容物を確認するため施工業者が民間の分析センターへ分析依頼
10/24 ・民間の分析センターから施工業者へ分析が不可能と報告あり
 ・現場そのものが旧相模海軍工廠の跡地であったことを確認
10/31 ・国土交通省から防衛庁に不審物の分析依頼
11/ 1 ・防衛庁から分析協力の回答、不審物の一部を試料採取
11/ 6 ・防衛庁から分析結果が通知される
 試料採取された不審物は2種類で、「黒褐色の溶液」の主成分は「マスタード(び らん剤)」、「乳白色の結晶」の主成分は「クロロアセトフェノン(催涙剤)」 と同定
11/ 7 ・第1回寒川町危機管理連絡調整会議開催
11/12 ・第2回寒川町危機管理連絡調整会議開催

・・・

圏央道の高架(一之宮)の下のフェンスにひっそりと掲げられた「A事案区域」の看板。

                

戦時中、化学兵器を製造する旧相模海軍工廠の敷地だった場所を示している。18年前のきょう(9月25日)、高架の建設現場から毒ガスの入った数本のビール瓶が見つかった。

 割れた古い瓶は異臭を放ち、作業員11人が被災、発疹やかぶれなどを発症した。当時の新聞は水膨れやただれといった「びらん状態」になったとも伝えている。防衛庁の分析で、その中身は化学兵器に使われるイペリット(マスタードガス)などと判明した。まもなく現場の掘削や周辺の土壌調査が行われ、11本の毒物入り瓶のほか、不審物を含め約800本が見つかった。これらは近くに作られた「無害化処理設備」で処理され、現場の安全が確認されたのちに圏央道の建設が再開した。

 いま現地を歩いてもその名残は見当たらず、工場や物流拠点の操業音だけが響く。町内で話題に上ることはほとんどない。相模海軍工廠は現在の一之宮7丁目付近に広さ70万平方メートルの規模で広がり、最盛期に約3千人が従事、町内外から徴用された人や学生たちが化学兵器の製造に関わった。「宇宙人のような」ゴム製の服を着て薬品を攪拌したり爆弾用の容器に入れる作業もあり、劇物が衣服に付着して皮膚がただれることもあったという。親が工廠の軍医だった女性(81・一之宮在住)は「親から、工場内の事故で人が折り重なって亡くなったとか、終戦後に穴をほじくって毒ガスを埋めたと聞いた。当時の工廠一帯は異様な雰囲気だった」と振り返る。過酷な環境下での作業の末、戦後も多くの人が慢性気管支炎や肺気腫などの後遺症に苦しみ、国による救済認定も行われた。「化学兵器が作られていた事実を忘れないでほしい」「このつらい経験を若者たちに伝えたい」――その証言集は寒川文書館の書棚の一角に並んでいる。

(この項、「」20/9/25ニュース」より)

無害化処理されたビンの写真(804本)
無害化処理されたビンの写真(804本)
  A事案区域(海軍工廠の跡地)
A事案区域(海軍工廠の跡地)
 
A事案区域
 
 
                  ※緑の道路が「圏央道」。A事案区域の真ん中を通っていることが分かる。
 
寒川駅に戻る途中、この区域の北側の道(旧中原街道の一部)を歩きました。機会があったら、圏央道の下、西側のフェンス沿いに歩いてみようと思います。
コメント
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