道沿いの崖には祠がチラホラ。
右の道を行く。
右手は細い谷筋。
左手に田園風景が広がる。緑豊か。
しばらく進むと、内房線の踏切へ。
「国道465線」に合流。
「東京湾観音」への上り道。
いよいよ佐貫町へ近づく。視界が開けてきます。
右奥に「佐貫町駅」。
旧道が残っているということで。
1880年代のようす。佐貫町は右上の方に中心が。
2010年代のようす。旧道らしき道を進む。
この先で、佐貫町駅からの道を横切ります。
正面の床屋さんの脇の道が旧道?
右手、「佐貫町駅」方向を望む。
この道を進みます。
この先、のどかな田園風景が。
景色を眺めながら小休止。静か。
通りがかりの方。
昔はもう少し賑やかな街だったけど、今はすっかり寂れてしまって。電車も1時間に1本になって。
どこまで? 「上総湊」までなら1時間で着くよ。これから岩井まで出かけるさ。・・・
再び「国道465線」に合流、JR線を越えます。
来た道を振り返返ると、
右手奥に大きなネムノキ。ポツンと1本。
花がうまく写らない。
昔、我が家の小さな庭に小さなネムノキがありました。懐かしく思い出します。
ネムノキは、夜になると葉が合わさって閉じて眠るように見えることに由来します。漢字名の「合歓木」は、中国においてネムノキが夫婦円満の象徴とされていることから付けられたもの、とのこと。
近づいて撮ろうとしましたがうまく撮れず。「Wikipedia」から拝借。
「ねぶ(ネムノキ)」といえば、芭蕉の『奥の細道』の一節を思い浮かべます。
酒田の湊より東北の方、山を越、礒を伝ひ、いさごをふみて其際十里、日影やゝかたぶく比、汐風 真砂を吹上、雨朦朧として鳥海の山かくる。闇中に莫 作して「雨も又奇也」とせば、雨後の晴色又頼母敷と、蜑の苫屋に膝をいれて、雨の晴を待。其朝天能霽て、朝日花やかにさし出る程に、象潟に舟をうかぶ。先能因島に舟をよせて、三年幽居の跡をとぶらひ、むかふの岸に舟をあがれば、「花の上こぐ」とよまれし桜の老木、西行法師の記念をのこす。江上に御陵あり。神功皇宮の御墓と云。寺を干満珠寺と云。此 処に行幸ありし事いまだ聞ず。いかなる事にや。此寺の方丈に座して簾を捲ば、風景一眼の中に尽て、南に鳥海、天をさゝえ、其陰うつりて江にあり。西はむやむやの関、路をかぎり、東に堤を築て、秋田にかよふ道 遙に、海北にかまえて、浪打入る所を汐こしと云。江の縦横一里ばかり、俤松島にかよひて、又異なり。松島は笑ふが如く、象潟はうらむがごとし。寂しさに悲しみをくはえて、地勢魂をなやますに似たり。
象潟や 雨に西施が ねぶの花 (きさがたや あめにせいしが ねぶのはな)
注:「西施」=中国、春秋時代の越の美女。呉に敗れた越王勾践から呉王夫差に献上され、寵愛を受けた。夫差が彼女の美しさにおぼれている間に呉は越に滅ぼされた。
〈余談〉顰に倣う(ひそみにならう)
西施には胸が痛む持病があったという。ある日、その発作が起きた。彼女が胸元を押さえ、顰(眉間)にしわを寄せた姿にはなんともなまめかしく、か弱い女性の美しさがにじみ出ていた。彼女が里から歩いて来るその様に、里の人たちは皆、目が釘付けになった。
ある里に一人の醜い女がいた。この日、西施が胸元を押さえ、眉をひそめた様子にたくさんの人が釘付けになっているのを見た女は、西施のまねをして、胸元を押さえ、眉をひそめて、村を行ったり来たりした。この醜い女が大げさにふるまうとただでさえ醜い顔がもっとひどくなった。そのため、この女の奇怪な様を見ると里の人々は、すぐに戸を閉め、貧乏人は妻や子を連れて遠くに逃げるといった具合であった。
このことが顰に倣う(ひそみにならう)、むやみに人のまねをするのは愚かなことという故事になった。「西施捧心」と四字熟語とも表される。日本では、先人に倣った行為にあたって自らをへりくだる表現としても用いられる。
追記 7月15日。
感染者数が高止まりの東京及び首都圏。一方で、政府は、前倒しした「Go To トラベル」キャンペーンは中止にしないと言明。小池知事は「実施の時期や方法などは改めてよくお考えいただきたい」と。他の首長から異論続出。日医会長も前倒しに疑問を。
果たしてどうなることやら。朝令暮改でもいいから、この企画、さっさと仕切り直しした方がいいと思います。
「GO TO 感染拡大」じゃ、さまになりませんから。
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