幕が開くと、青白い舞台が一面に広がります。
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渡し守が出て名乗ります。能や狂言の定番の始まりかたです。
今日は川の対岸で「大念仏(だいねんぶつ)」がある、という話をします。
念仏を唱えて供養をする集まりの、大きなものがあるのです。
狂女が出てきます。歌舞伎だと「班女の前(はんにょのまえ)」という名前が付いています。
笹の枝を肩にかついでいます。
幣(奉納用の布きれ)を結びつけた笹の枝は、能をはじめ、中世に成立した芸能に共通する「狂女」の小道具です。
「人の親の 心は闇に あらねども 子を思う道に 迷い(まどい)ぬるかな」
藤原兼輔(ふじわらの かねすけ)の歌です。900年代の人です。
班女の前が出るところの謡の文句がこれなのですが、
親心の悲しくも愚かしい、しかし有難い真理をついた歌として江戸時代は非常に有名でした。
歌舞伎、というか浄瑠璃の文句に頻出するので覚えておくといいと思います。
子供がさらわれて、探して旅をしてきた。
親子の縁はこの世だけ、一世の契りです(夫婦は二世、主従は三世)。
その短い間すらいっしょにいられないさびしさをなげきます。
渡し守に船に乗せてと頼みますが、渡し守は、「狂っているならおもしろく舞え、でなきゃ乗せない」とひどい事を言います。
隅田川の渡し守と言えば都からの旅人に優しいものなはずなのに、あなたはずいぶんひどい、と怒る班女の前。
このあと、有名な、「あの白い鳥は何?」「カモメだよ」「隅田川の渡し守なのに都鳥と言わないの?」
のやりとりがあります。
感心して、反省した渡し守は班女の前をていねいに船に載せます。
川の対岸で、さっき渡し守が話した大念仏をやっています。この由来を語る渡し守。
人買いが子供を連れて都からやってきた。
子供は慣れない旅で疲れ果て、この場所で倒れてしまった。人買いは情け知らずで子供を捨てて行ってしまった。
どことなく上品な子だったので土地の人が心配して世話したが、運命だったのだろう、死んでしまった。
都の吉田少将の子、梅若丸といった。
父は早くに死に、母に付き添っていたのだが、それももはやできない悲しさよ。
都の人が恋しいので、都からの旅人が通るこの道端に埋めてください。
そう言って死んだ。悲しいことだ。
それがちょうど一年前。その供養の念仏だ。
ショックを受ける班女の前、船から上がることもできません。
改めて事情を聞いて、探しているのが、まさにその子供だと知った渡し守、
深く哀れんで、班女の前を船から上げ、墓である小さな塚に案内します。
この前後はセリフも極端に少なくなり、班女の前の一挙一動を息を詰めて眺めるような舞台です。
言われるままに鐘を叩いて念仏を唱える班女の前。
能だと、子役のひとが一緒に念仏を唱え、塚から子供の幻が現われますが、歌舞伎では出ません。
班女の前が子供を見たと思い込んで駆け寄るのですが、子供はいないのです。
泣き崩れる班女の前。
夜が明けます。子供に見えたのは塚の上の草でした。なまじ幻を見てしまったばかりに思いはいや増します。
何もないまわりのの景色が悲しみを深めます。
(この項、「歌舞伎見物のお供」(gooブログ)HPより)
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渡し守:坂東竹三郎
班女の前(はんにょのまえ):坂東玉三郎。
こうして、静かに幕が下ります。
「木母寺」
「木母(もくぼ)寺」は寺伝によれば、976年(貞元元年)忠円という僧が、京都から人買いによって連れてこられてこの地で没した梅若丸を弔って塚(梅若塚:現在の墨田区堤通2-6)をつくり、その傍らに建てられた墨田院梅若寺に始まると伝えられる。
1590年(天正18年)に、徳川家康より梅若丸と塚の脇に植えられた柳にちなんだ「梅柳山」の山号が与えられ、江戸時代に入った1607年(慶長12年)、近衛信尹によって、梅の字の偏と旁を分けた現在の寺号に改められたと伝えられており、江戸幕府からは朱印状が与えられた。
明治に入ると、神仏分離に伴う廃仏毀釈によりいったん廃寺となったが、1888年(明治21年)に再興された。その後、白鬚防災団地が建設されるにあたり、現在の場所に移転した。(以上、「Wikipedia」参照。)
「⑩梅若の秋月―風流隅田川八景―」。
「風流隅田川八景」シリーズの一枚です。「たずねきて問わばこたえよ都鳥 すみだ河原の露ときえぬと」との辞世の句で有名な木母寺に古くから伝わる「梅若伝説」を題材にしています。京の方から騙されて連れられてきた梅若丸は、病に倒れ、隅田宿あたりで僅か12歳の生涯を閉じました。母の花御前は悲しみのあまり狂女となり、我が子を探し彷徨ったと伝えられています。平安時代の話を江戸時代に置きかえ、生前に会えなかった母子が、絵の中では仲睦まじく舟遊びをしている姿で描かれています。文化中期(1804~18年)頃の作品です。
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木母寺には、平安時代中期の梅若丸と狂女となった母親の悲しい物語が伝わり、梅若塚と梅若堂が祭られています。梅若丸物語は古来、母子の愛情を示す悲劇として民衆の紅涙をしぼり、語りつがれてきました。
◆能楽◆
最初に、この梅若丸物語を芸道として大成させたのは、室町時代中期の能役者観世十郎元雅(1401?~1432)です。「隅田川」は、春の隅田川を舞台に子と母の愛情を描いた能で、狂ものをシテとした狂女物の代表的傑作とされています。
この演目が作られ、隅田川芸能がはじまったのです。
◆浄瑠璃◆
寛文元年(1661)以前の説教浄瑠璃や、宇治加賀掾や山本土佐掾の正本にも「すみだ川」があり、古浄瑠璃として取り入れられています。それをもとに、浄瑠璃作者中興の祖と言われている近松門左衛門が「雙生隅田川」を書きました。人形浄瑠璃(文楽)でも盛んに上演されています。能「隅田川」からは梅若丸と東門院の若松が兄弟に、忍の惣太は人買いから忠心に忍ぶの惣太がお家再興の金欲しさから主家の子供を誤って殺してしまうという因縁話が結びついた内容になっています。
近松門左衛門の「雙生隅田川」が、江戸期の世相や人情を反映していると言われているのはこのためです。
◆歌舞伎◆
元禄14年(1701)初代市川団十郎作「出世隅田川」が、中村座で初演されました。
その後、浄瑠璃の「雙生隅田川」の影響を受け、人買いに殺された悲劇の稚児として描かれるようになり、奈河七五三助作「隅田川続俤」や河竹黙阿弥作「都鳥廓白浪」などの隅田川物が描かれました。大正8年(1919)には東京・歌舞伎座で初演され、二代目市川猿之助や二代目市川団四郎らによって演じられました。上演された記録は多くの浮世絵からも知ることができます。
◆舞踊◆
舞踊では清元の「隅田川」がありますが、詞章がもの悲しく、清元の哀調をしんみりと聞かせます。また、一中節の「峰雲賤機帯」や長唄の「八重霞賤機帯」などは、能「隅田川」をもとに作詞されました。
(この項、「」HPより)
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ここにもあるように、この舞台は、清元の「隅田川」が原型。
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