右手に「太陽光自動追尾システム スカイリングソーラー」。巨大な装置に、ちょっとビックリ。
我が家のは屋根に取り付けた固定式のものですが、冷暖房を使用しない季節、時間帯では、けっこう売電になっています。
「戊辰戦争兵士の墓」。県道8号線との交差点の角。
慶応4年(1868年)閏4月の戊辰戦争(市川船橋戦争)において、下総国上山新田馬込沢で戦死した官軍佐土原藩士、常吉の墓。明治19年(1886)に千葉県が造立。
※もともと墓のあった「安立庵」は廃寺になっています。
「鎌ヶ谷大仏墓地」にも「官軍兵士の墓」があります。
戊辰戦争は、王政復古を経て樹立された明治新政府と、これに反発した旧江戸幕府勢力との内戦です。慶応4年(1868)1月の鳥羽・伏見の戦いに始まり、翌年5月の五稜郭の戦いまで1年半近くに渡り、主に東日本の各地で両軍が激突しました。
この中の市川・船橋戦争は慶応4年の閏4月に起こりました。前月に江戸城は無血開城されたのですが、これに不満を抱く旧幕臣たちは江戸を脱出して関東各地で挙兵、千葉県内でも中山法華経寺(現市川市)や船橋大神宮(現船橋市)などで陣を構えます。これに対し、新政府軍(官軍)も中山村、行徳、八幡(現市川市)と鎌ケ谷村に展開します。鎌ケ谷村に駐留した官軍は、薩摩藩の支藩、佐土原藩(現宮崎市)の藩兵120余名でした。
主戦場は市川、船橋市内となり多くの民家が焼失し罹災者も多数出たようです。鎌ケ谷でも現在の大新田付近で官軍と旧幕府軍が戦火を交え、佐土原藩士の蓑毛次右衛門、巳之助、常助の三名が戦死しました。このうち、蓑毛次右衛門と巳之助の墓は明治元年に佐土原藩によって大仏墓地内に建てられ、明治19年には千葉県が墓石を新しくしました。蓑毛次右衛門は武士で、巳之助は兵糧を運んだ農民と思われます。
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市川・船橋戦争の戦死者の墓は、大仏墓地のほか市川、船橋市内の寺などに何か所かあります。ひっそりと佇む墓石の下で、官軍兵士と旧幕府軍兵士は永遠の眠りについています。
(この項、「」HPより)
木立の深いおうち。
「鎌ケ谷新田郵便局」。
「二和道」バス停。「二和」は東に広がる町。
明治時代初期に下総台地の小金牧、佐倉牧の土地を貧民救済のため入植開墾させた際、入植した順番に数字を振り、瑞祥地名をつけたことに由来する。これらの地名は数字の順に初富、二和(ふたわ)、三咲、豊四季、五香、六実、七栄、八街、九美上、十倉、十余一、十余二、十余三と続く。(この項「Wikipedia」より)
この交差点を左折したところに「鉄道遺跡」があります。以前このブログで取り上げましたが、再掲。
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鎌ケ谷市東道野辺。
「千葉公園」内にある「第一連隊」のコンクリート製の橋脚と同じものがここにもありました。ここのものは、「第二連隊」が設置したもの。習志野(津田沼)から松戸への演習線のほとんどは、戦後、「新京成線」になりましたが、ここはそのまま残されたようです。
史跡 鉄道連隊橋脚 鎌ケ谷市東道野辺6丁目8番
この橋脚は、昭和初期に旧日本軍の鉄道大隊が、訓練や物資等の輸送のため建設した鉄道の一部です。近代の戦争では、鉄道は人や物資の輸送のために重要な役割を担っていました。・・・
この橋脚は第二鉄道連隊が、大戦中、鉄道を敷く訓練として津田沼~松戸間に設けた路線の一部でしたが、終戦後は放置されていたため、この部分を除くほとんどを京成電鉄が買い受けました。その後、昭和21年(1946年)に京成電鉄の出資により新京成電鉄が設立され、当路線の整備を行いました。しかし、この部分は整備から除かれこの橋脚だけが残りました。現在の新京成電鉄の全線が整備を終え、開通したのは昭和30年(1955年)のことでした。
平成11年3月 鎌ケ谷市教育委員会
窪地(実際に小川が流れていたようです)に橋脚を設置して、架橋などの訓練施設にしました。
脇にはすべり台などがあって、子供の遊び場になっています。適度な窪地状の起伏が格好の遊び場なのでしょう。
道路に沿って5基ほど残っている。
緑に覆われているが、特に大きな遊具もない。
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(「今昔マップ」より)
赤い←が遺構のある公園。青い↓が敷設された線路。現在の新京成線「二和向台」駅から分岐していた。今は道路になっている。公園内の遺構を保存するため、手前で現・道路は少し迂回する。現在の新京成線は西北に向かう。右図で家並みが続く街道が「木下街道」。
左手に大きな「馬頭観世音」。
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