「鎌ケ谷」バス停。
かつての街並みの中心は、新京成線「鎌ヶ谷大仏」駅の手前付近でした。
1880年代のようす。放牧のための土手がある。 2010年代のようす。黄色い線が「木下街道」。
鎌ヶ谷宿は江戸幕府直轄の広大な小金中野牧(野馬放牧場)の中を通っていた街道の継場(小規模の宿場)が発展したもので、 最盛期には問屋1軒、旅籠7軒と記録されている。松尾芭蕉の鹿島紀行の中に「・・やはた(八幡)と云う里を過れば、かまかいが原と云うひろき野あり」とある。当時 は広大な原野の中を街道が通っていた。
(この項、「」HPより)
沿道には新しい建物が並ぶ中で、昔風のおうちや木々に覆われたおうちなどがあります。
宅地開発中のところも。
よく見かける屋根のつくりのおうちも。
「木下街道」の標識。
右手には「丸屋」。
丸屋は、江戸時代に木下街道沿いにあった鎌ケ谷宿の旅籠で、明治26年の火事で消失し、同30年頃に再建された建物です。明治35年にはすでに旅籠としての利用を終え、明治末期に改修された後は、住居として使用され、さらに昭和31年にアパートとして改修され、現在の姿となっています。
(この項、「」HPより)
新京成線を越えます。右手に「鎌ヶ谷大仏」駅。
左手に「鎌ヶ谷大仏」。小ぶりですが。
その先、旧家らしいおうち。
「オカルト店長がいるお店」? 「ハップス鎌ケ谷店」。
(「Googleマップ」より)。この女性はオカルト店長ではなさそう。
しばらく進むと「魚文句碑」・道標。
「ひとつ家へ 人を吹き込む 枯野かな 魚文」(銘文)
魚文は三級亭魚文と称し、芭蕉の高弟服部嵐雪の直系大島蓼太の高弟で、1700年代(江戸後期)蕉風復活に力を尽くした人です。平明な俳風に特色があり、師の蓼太も「筑波紀行」などを書いているので、魚文も師と同様に旅に出て、途中鎌ケ谷を通過したときにこの句を詠んだものと思われます。
木下街道は江戸時代、江戸から下総・常陸に至る道路として、特に下利根川方面に直行できる最短路として貴重な脇往還で、行徳く)河岸(現市川市)と木下河岸(現印西市)の全長約9里(約36キロメートル)を結んでいました。江戸時代、主要街道以外は定まった名称はなく、通行者の目的により異なった名称でよばれ、木下街道も「鹿島道」「銚子道」「印西道」「江戸道」「行徳道」など様々に呼ばれていました。俳人松尾芭蕉が『鹿島紀行』を著した貞享4(1687)の旅もこの道路を通ったといわれています。文化・文政期(1804~30)頃からは香取神宮、鹿島神宮、鳥栖神社の「三社詣」や銚子、下利根川観光のため、一般民衆の往来が活発化し、多くの文人墨客が通りました。
江戸時代の画家、渡辺崋山の「四州真景図」の「釜原」の図は文政8年(1825)鎌ケ谷宿を通った折にスケッチしたものといわれ、鎌ケ谷市役所市民課前のロビーにタイルで復元されています。
文化2年(1805)刊行の『木曽路名所図会』第5巻の「釜ヶ原」には鎌ヶ谷大仏や魚文の句碑、また、当時この付近は幕府直轄の馬牧であったため、野馬が戯れる様子が描かれ、この頃の周囲の様子を知ることができます。
なお、左側の石碑は大正14年(1925)の村道改修の碑です。
「裏面」明和元年(1764)、武陽産高橋氏建立。「右 木をろし(下)道」「正面 ひとつ家へ人を吹込む枯野かな」「左 中木戸道」と刻まれています。
1880年代のようす。○が分岐点。「木下街道」は右に。
2010年代のようす。斜め右の細道を進む。
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