「下頭橋」を渡ってすぐ左の道を進むのが、「旧川越街道」。
「環七」と「国道254号線(現川越街道)」との交差点「板橋中央陸橋」にぶつかり、そのまま進みます。
その手前に、「旧川越街道」という標識あり。
(11:17)「本郷まで9㎞」ポスト。
しばらく国道を進み、右の道に入ります。↓の道。「下練馬宿」となります。
国道の中央分離帯にある「五本けやき」が見えてきます。
「改正道路と五本けやき」。
昭和の初め、東京の郊外に都市化の波が広がっていったが、これにともない、都市計画道路工事も相次いで行われた。
新川越街道(現・国道254号)も一環として新設された道路の一つで、昭和2年に計画されており、このうち板橋区内の工事は9か所に分けられ、昭和8年から同19年にかけてそれぞれ完成をみている。
当初、旧川越街道と区別することもあって改正道路と称していた時期があった。
さて、五本けやきは元板橋村々長・飯島弥十郎家の屋敷林の一部であった。道路用地となったため、切り倒される予定であったが、同家の強い要望もあって工事は木を避け、昭和13年~翌14年にかけ完成した。
武蔵野の面影を残す五本けやきは、ドライバーの疲れを癒やすオアシス的存在であり、昭和45年には地元有志によって五本けやき保存会も発足し、その保護に努めている。
街道に戻ります。
周囲を高い建物で囲まれた趣のあるおうち。
よく手入れされた大きい庭のおうち。
ここも、街道沿いに発展した商店街。「下練馬宿」。
「宿場まつり」開催中。
東武練馬駅周辺で11月18日、「下練馬宿(しもねりまじゅく)まつり 将軍綱吉と練馬大根」が開かれる。
練馬区北町の3商店街(北一商店街振興組合、きたまち商店街振興組合、ニュー北町商店街振興組合)が組織する「下練馬宿活性化委員会」が、区内唯一の宿場町「下練馬宿」があった北町地域の魅力を発信することを目的に開く同イベントは、今回が初開催。
江戸時代、江戸城から川越城を結ぶ川越街道が通り、江戸から大山・富士山へと続く大山道が分岐する同地域は、宿場町「下練馬宿」として栄え、徳川綱吉が下練馬村の大木金兵衛に練馬大根の培養を命じ、年々献上させていたという言い伝えがある。
当日は、言い伝えを再現する劇や徳川綱吉、金兵衛などに扮(ふん)した約50人が商店街を練り歩く時代行列を行う。再現劇は、電車の見える公園、浅間神社、北町上宿公園の3会場で行う。当日、和装で来場し、3会場でスタンプを集めた人に先着で練馬大根や肉引換券を進呈する。
(この項、「練馬経済新聞」HPより。既に終わった行事ですが。)
すぐ右から来る道は中山道の志村坂上からの「大山道」らしい。
「旧中山道」清水坂との分岐点にあった道標を再掲。
「富士・大山道の道標と庚申塔」。
富士・大山道とは、霊山である富士山や神奈川の大山に通じる道です。この場所は中山道から富士・大山道が分岐する場所でした。
向かって左側の道標(道しるべ)は、寛政4年(1792)に建てられたもので、正面には「是より大山道并(ならびに)ねりま川こへ(川越)みち」と刻まれています。右側の庚申塔は、万延元年(1860)に建てられたもので、左側面に「是ヨリ富士山大山道」とあり、練馬・柳澤(西東京市)・府中への距離が示されています。
この二基の石造物は、江戸時代の交通や信仰を物語る上で貴重な存在であり、昭和59年度に板橋区の文化財に登録されました。
平成17年3月 板橋区教育委員会
この商店街もけっこう賑わっています。
「川越街道 下練馬宿」
中山道の脇街道である川越街道は板橋宿からわかれ、江戸城から川越城を結ぶ道として整備されました。
ここ北町は、練馬区唯一の宿場町として栄え、商店街が続いています。この辺りは下宿と呼ばれ、鍛冶屋、紺屋(染め物)などがあり、江戸時代鷹狩りの餌となる「けら」を扱う「けらや」もありました。
板橋区との境には、王子、戸田への道標となる馬頭観音の祠が道路の中央にあります。錫杖八等線の上には「従是大山道」と刻まれた道標があり、富士・大山道が分岐しています。
富士・大山詣でをする人たちで賑わいを見せていたことがうかがい知る事ができます。
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