おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

柏(かしば)屋。本陣跡。問屋場。小野小町。聖徳太子。・・・(宇津ノ谷峠から藤枝まで。その3。)

2015-02-11 20:47:26 | 旧東海道

 しばらく進むと、旧道は右に折れて少し下って行きます。(本来の旧道は通りの反対側から続いていたのではないか? )



 旧国道1号線(県道208号)との分岐点には笠懸松の説明の立て札があります。「旧東海道」という表示も。

笠懸松と西住墓

「・・・やがて西行は駿河国岡部の宿にさしかかった。荒れはてた小さな堂に立ち寄って、一休みしているときなにげなく後を振り返って見ると、戸に古い檜笠が懸かっていた。胸騒ぎがして、よくよく見ると、過ぎた春、都で共に修行した僧の笠だった。
 笠はありその身はいかになりぬらむ
     あはれはかなき天の下かな ・・・・・」(西行物語)
 ここは歌聖として有名な西行が西住と東国へ旅をした時に起きた悲しい物語の舞台である。「笠懸松」は右手西行山の中腹にあったが、松喰虫の被害を受けて枯れてしまった。その根元には「西住墓」と伝えられる古びた破塔がある。



 迂回するように短い距離を進み、「岡部川」を渡って、再びメイン・ストリートの「旧国道1号線(「つた街道」とも)」に戻ると、その先、左側に「柏屋」があります。ここは急角度で右に折れる道。「岡部川」を渡る橋付近が「宿場の城戸口(見付)があったような気がします。桝形のような印象です。

   
                         「大旅籠 柏屋 歴史資料館」。

   
    台所・土間(竈、炊事場・・・)。                2階屋根裏の骨組み。

 敷地面積約2300坪。母屋の建坪100坪。家の前を通っている旧国道1号線(元は旧東海道)の拡幅のときに、建物を1間以上奥にずらしたそうです。 
 1820年(文政)と1834年(天保)の二度大火のため焼失し、現在の建物は、1836年(天保7年)に建てられたもので、180年ほどの歴史を持っている建物のようです。
 5代目良吉(天保年間)以降は、旅籠屋と質屋を兼業しており、田畑の集積も進んで、かなり裕福だったことがうかがえます。柏屋山内家は、その富を背景に、代々問屋や年寄りなどの宿役人をつとめる岡部でも屈指の名家でした。
 江戸時代の終焉によって、「宿駅制度」が廃止されると、かつての宿場町のようすが消えて、「柏屋」を取り巻く環境も激変、この建物もさまざまな変遷を経て、現在は、市の施設として保存、公開されています。
 今日でも、東海道筋における貴重な建物とされ、住まいの随所に創建当時の痕跡が見られます。1998(平成10)年に、国の登録有形文化財に認定されたようです。
 主屋は、歴史資料館として当時の旅籠の様子を再現し、江戸時代と明治時代の二つの土蔵は、ギャラリーや和風レストランとして利用されています。
 見学料300円で中に入り、ボランティアの方に案内、説明してもらいました。



 1階の「帳場」、「みせの間」、「台所」、「仏間」、「みせおく」、「奥の間」、「次の間」。急なはしごのような階段をあがった2階には「一の間」、「二の間」、そして資料展示コーナーと盛りだくさん。「みせの間」「一の間」には弥次さん、喜多さんの人形が寸劇風のやりとりをしたり、ご当地の言葉遣いも披露される、など見飽きません。

 ここの代表的なイベントは「ひなまつり」。等身大のひな人形が15体、豪華絢爛な御殿飾りが披露されるそうです。(2月10日~4月5日)
               

 そろそろ昼食。奥にある「物産館」で「おでん」をつまみながら、コンビニのおにぎりを食べました。ここのおでん「静岡おでん」は、東京(関東)とは異なって、味噌仕立て。



 「どこから来ましたか? 」「静岡駅から」「どちらから?」「東京です」「歩いているんですか? 」「はい」「日本橋からか、よく決心しましたね。」「いや、何日もかけて、来てはまた戻って、の繰り返しです」「今の季節が歩くにはいいですよ。夏は照り返しが強くてね。東北の人には申し訳ないけど。私も歩いてみようと思うんだけど、なかなか。」・・・。

 お茶を飲んでゆっくりして、腰を上げました。
 
江戸時代と明治時代の二つの土蔵。 

 すぐお隣に「内野本陣」跡があり、「岡部宿内野本陣史跡広場」となっています。

    

 広場の中の建物。

 そうとう大きな敷地であったことが分かります。

「問屋場」跡。 

 右手に「造り酒屋」が見えてきたら、左の道に入ります。この辺りからもう一つの中心地「加宿内谷」に。

地酒「初亀」。「酒浪漫」という惹句が。

         
                                   宿場町らしい雰囲気。

    

小野小町の姿見の橋

 小野小町は絶世の美人であり歌人としても有名であった。晩年に東国へ下る途中この岡部宿に泊まったという。
 小町はこの橋の上に立ち止まって、夕日に映える西山の景色の美しさに見とれていたが、ふと目を橋の下の水面に落とすと、そこには長旅で疲れ果てた自分の姿が映っていた。そして過ぎし昔の面影を失ってしまった老いの身を嘆き悲しんだと言う。
 こんな事があって、宿場の人たちはこの橋を「小野小町の姿見の橋」と名付けたという。  

 ここで、「小野小町」にまつわるお話しがあるとは思いませんでした。

小野 小町(おの の こまち、生没年不詳)
 平安時代前期9世紀頃の女流歌人。六歌仙、三十六歌仙、女房三十六歌仙の一人。

 小野小町の詳しい系譜は不明。彼女は絶世の美女として数々の逸話があり、後世に能や浄瑠璃などの題材としても使われている。だが、当時の小野小町像とされる絵や彫像は現存せず、後世に描かれた絵でも後姿が大半を占め、素顔が描かれていない事が多い。故に、美女であったか否かについても、真偽の程は分かっていない。

 生誕地については、伝承によると現在の秋田県湯沢市小野(旧雄勝郡雄勝町小野)といわれており、晩年も同地で過ごしたとする地域の言い伝えが残っている。ただし、小野小町の真の生誕地が秋田県湯沢市小野であるかどうかの確証は無く、平安時代初期に出羽国北方での蝦夷の反乱で出羽国府を城輪柵(山形県酒田市)に移しておりその周辺とも考えられる。
 この他にも京都市山科区とする説、福井県越前市とする説、福島県小野町とする説、熊本県熊本市北区植木町小野とする説、神奈川県厚木市小野とする説など、生誕伝説のある地域は全国に点在しており、数多くの異説がある。
 東北地方に伝わるものはおそらく『古今和歌集』の歌人目録中の「出羽郡司娘」という記述によると思われるが、それも小野小町の神秘性を高めるために当時の日本の最果ての地の生まれという設定にしたと考えられてもいて、この伝説の裏付けにはなりにくい。
 ただ、小野氏には陸奥国にゆかりのある人物が多く、小町の祖父である小野篁は青年時代に父の小野岑守に従って陸奥国へ赴き、弓馬をよくしたと言われる。また、小野篁のいとこである小野春風は若い頃辺境の地に暮らしていたことから、夷語にも通じていたという。このように、小野氏が陸奥国に生活の基盤があったとも考えられる。
 湯沢市には小野小町にちなんだ建造物「小町堂」があり、観光の拠点となっており、町おこしの一環として、毎年6月の第2日曜日に「小町まつり」を開催している。また、米の品種「あきたこまち」や、秋田新幹線の列車愛称「こまち」は彼女の名前に由来するものである。
 京都市山科区小野は小野氏の栄えた土地とされ、小町は晩年この地で過ごしたとの説もある。ここにある随心院には、卒塔婆小町像や文塚など史跡が残っている。後述の「花の色は..」の歌は、花が色あせていくのと同じく自分も年老いていく姿を嘆き歌ったものとされる。それにちなんで、毎年「ミス小野小町コンテスト」が開かれている。
 山形県米沢市小野川温泉は、小野小町が開湯した温泉と伝えられ、伝説が残っている。温泉街には、小町観音があり、美人の湯と称されている。近年、科学的分析により、美肌成分が多く含まれていることが判明し、単なる伝承ではなく、効果の裏付けが確認された。
 小野小町の物とされる墓も、全国に点在している。このため、どの墓が本物であるかは分かっていない。
・宮城県大崎市にも小野小町の墓があり、生地の秋田県雄勝郡横堀村に帰る途中、この地で病に倒れ亡くなったと伝えられている。
・福島県喜多方市高郷町(耶麻郡旧高郷村)には、小野小町塚があり、この地で病で亡くなったとされる小野の小町の供養塔がある。
・栃木県栃木市岩舟町小野寺には、小野小町の墓などがある。
・茨城県土浦市と石岡市には、小野小町の墓があり、この地で亡くなったとの伝承がある。この2つの地は、筑波山の峠を挟んでかなり近いところにある。
・京都府京丹後市大宮町五十河も小野小町終焉の地と言われ、小町の墓と伝えられる小町塚がある。
・京都市左京区静市市原町にある小町寺(補陀洛寺)には、小野小町老衰像と小町供養塔などがある。
等々。
 歌風はその情熱的な恋愛感情が反映され、繊麗・哀婉、柔軟艶麗である。『古今和歌集』序文において紀貫之は彼女の作風を、『万葉集』の頃の清純さを保ちながら、なよやかな王朝浪漫性を漂わせているとして絶賛した。仁明天皇の治世の人物である在原業平や文屋康秀、良岑宗貞と和歌の贈答をしているため、実在性が高い、とする説もある。実際、これらの歌人との贈答歌は多く伝わっている。

・思ひつつ寝ればや人の見えつらむ夢と知りせば覚めざらましを
・色見えで移ろふものは世の中の人の心の花にぞありける
・わびぬれば身を浮草の根を絶えて誘ふ水あらば往なむとぞ思ふ
・うたた寝に恋しき人を見てしより夢てふものはたのみそめてき
・人にあはむ月のなきには思ひおきて胸はしり火に心やけをり
・今はとてわが身時雨にふりぬれば事のはさへにうつろひにけり
・秋風にあふたのみこそ悲しけれわが身むなしくなりぬと思へば
・花の色は移りにけりないたづらに我が身世にふるながめせし間に

小野小町にちなむ作品(小野小町を題材とした作品を総称して「小町物」という。)


 小野小町を題材にした七つの謡曲、『草紙洗小町』『通小町』『鸚鵡小町』『関寺小町』『卒都婆小町』『雨乞小町』『清水小町』の「七小町」がある。これらは和歌の名手として小野小町を讃えたり深草少将の百夜通いを題材にしたものと、年老いて乞食となった小野小町に題材にしたものに大別される。後者は能作者らによって徐々に形作られていった「衰老落魄説話」として中世社会に幅広く流布した。

 鎌倉時代に描かれた、野晒しにされた美女の死体が動物に食い荒らされ、蛆虫がわき、腐敗して風化する様を描いた九相詩絵巻は別名を「小野小町九相図」と呼ばれる。「我死なば焼くな埋むな野に捨てて 痩せたる(飢ゑたる)犬の腹を肥やせ(よ)」の作者とも。

(以上、「Wikipedia」参照)

 ところで、裁縫に使う「待ち針」の語源は小野小町にちなむという俗説もあります。
 言い寄ってくる多くの男に小野小町がなびくことがなかったため、穴(膣)のない女と噂されたという伝説に基づいていて、穴のない針のことを「小町針」と呼んだことから来ているというものですが・・・。


   
                          「高札場」跡。

高札場跡

 高札場は、宿場内の目立つ所や、人々の多く集まる所に設置され、法度や掟(法律や条令)、犯罪人の手配などを木札に書き高々と掲げて、社会の人々に知らせたところです。
 高札が、四辻(交差点)などに建てられると、そこを「札の辻」と呼んでいました。ここがメインストリートということに。

振り返って宿内を望む。

曲がり角。宿場特有の道のつくり。

「非常板」。けっこう目に付きます。非常の際に、ハンマーでたたく。試せませんが。

 左手に「木喰仏 聖徳太子像」説明碑。

 五行菩薩は、・・・56歳の時に「日本廻国」「千体造仏」「国分寺への納経」の願いを持ち、以来40年余り全国を歩き渡った。
 岡部には寛政12年(1800)6月13日からまる8月13日の2ヶ月間滞在し、6体の仏像と数点の書画を残している。
 木喰仏は、別称「微笑仏」といわれており、大きな団子鼻、山なりに曲がる太い眉、大きな弧を描く目、鼻の下の口などが特徴であり、不思議とやさしい笑いをたたえた表情が独特である。岡部に残る6体のうち、光泰寺には2体あり、そのうち一体が聖徳太子像である。

しばらく進むと、角の造り酒屋さんのところで、道は右に折れる。

「桝形」の名残り。ここが西の木戸口(見付)?
 
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つたの細道公園。歌碑。兜堰堤。岡部宿。(宇津ノ谷峠から藤枝駅まで。その2。)

2015-02-10 22:05:02 | 旧東海道

 そのまま道を下っていくと、「つたの細道公園」になります。よく整備された公園。その一角に「宇津ノ谷峠」にかかわる古今の歌が刻まれたパネルが立ち並んでいます。いずれも地元の書家が筆を振るったようです。

  

  

 藤原俊成。藤原定家。鴨長明。兼好法師、・・・。歌枕の地のように、歌に取り入れる名所のよう。もちろん、これらの歌人がここを通ったかどうかは定かではありませんが。

阿仏尼。

在原業平。

 一方、この地区に流れる「木和田川」には、歴史的価値の高い砂防ダム「堰堤」がいくつかあります。それらを辿る遊歩道も整備されているようです。

「兜堰堤第2号」。石組みで出来ています。

説明板。堰堤の復旧工事のようす。

国の登録有形文化財に指定されているほどです。

上流を望む。

「つたの細道公園」入口。

 しばらく公園内の道を下っていくと、左手に吊り橋。何とその橋の上に、朝方の二人連れがいるではありませんか!
 旧東海道を通ってここまでやって来た、らしい(すぐ下で公園からの道と合流しますから)。再会にお互い、ビックリ。ここでまたお別れ。

吊り橋から上流を望む。

案内板。
 じっくり歩きたい所です。ただ、谷間のために日が差さず、今の時期・時間は、少し肌寒い。桜の季節にでも、・・・。

 「坂下」バス停を過ぎて、ここから岡部宿へ向かいます。

正面の道が旧道。

のどかな道。宇津ノ谷峠方向。

 途中から岡部川にそって進みます。
 しばらく行くと、再び国道1号線(旧)に合流しますが、車の通りが少ない、静かな道が続きます。。

「岡部宿」案内板。

◎岡部宿のあらまし
 
 岡部宿は東には宇津ノ谷峠、西には大井川という難所を控えていることから、平安時代後期より宿としての形を整え始めました。鎌倉・室町時代と発展を続け、慶長7(1602)年に宿の指定を受けました。
 岡部宿は当初、川原街・本町・横町の3町で構成されていましたが、交通量の増加から寛永年間に内谷村が加わり、明治5(1872)年の伝馬所廃止を機に宿駅制度が急速に機能を失うまで、東海道の要衝として栄えました。
 江戸時代の作家、十返舎一九の滑稽本『東海道中膝栗毛』にも登場します。雨中の宇津ノ谷峠で転んだ弥次さんと喜多さんが、増水のため、大井川が川留めと聞いて岡部宿に投宿する際に一種『豆腐なるおかべの宿につきてけり足にできたる豆をつぶして』と交通の難所であった様子が描かれています。

◎当時の宿場の様子

 天保14(1843)年の調べによると約1500mの町並みの中に487戸・2322人が住み、宿場の両端には岡部宿の入口を示す桝形が設けられ、常夜燈が置かれていました。また宿場内には幕府からの禁令などを掲示する高札場が置かれていました。
 中心部には大名や公家が宿泊する本陣が2軒、本陣の予備の宿舎である脇本陣が2軒、人馬の
継立などを行う問屋場、飛脚、一般の人々が宿泊する旅籠屋などが軒を連ね、その先には茶店や米屋などの店に交じって、職人や日雇稼、荷物の運搬役を行う人馬役の家、農家などがありました。町並みは街道沿いに広がり、裏には寺社がありました。

 上の説明ですと、「東海道中膝栗毛」を引用して、「大井川」との関連を示していますが、「大井川」までは直線距離にして15㎞以上もあり、道なりでは18㎞以上もある。さらに「藤枝」「島田」と、間に二つの宿場があることを考えると、「大井川」との関連よりも、「宇津ノ谷峠」との関連の方が深そうです。


               「東海道五十三次之内 岡部 宇津之山 / 歌川 広重」

 難所といわれる宇津谷峠を越えると岡部宿である。薪を運ぶ木こり、菅笠をかぶる旅人。奥に見える町へ出入りする様子である。昼なお暗い山合いの川は段差で表現されるような急流で、左右の山の勾配も急である。
(「知足美術館」HPより)

                          

 最寄りのJR線は「焼津」駅ですが、かなり離れていて、バスなどを利用しないと行けません。かえってそういった交通機関から離れている分、静かな町並みや松並木が残り、かつての雰囲気を味わえる町です。(JR東海道線では、静岡から藤枝までが、旧東海道とはかなり離れた区間となっている。もちろん「小田原~三島」もそうですが)

右手に、「十石坂観音堂」。振り返って望む。
 この付近には、「岡部一里塚跡」碑があったらしいですが、2001(平成13)年頃に撤去されたようです。

のんびりと。時々大型ダンプが通り過ぎますが。

 ただし、この先で右に折れて行く道とのつながりから考えると、本来の東海道は、もう少し「岡部川」沿いに続いていたのではないか、と。この旧国道1号線(「宇津ノ谷峠」を「大正トンネル」で越えてきた道、現・県道208号)が開通したときに、廃道になったような印象があります。「岡部一里塚」も、もともとは岡部川沿いの旧道にあったような気がします。
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蔦の細道。在原業平。阿仏尼。・・・(宇津ノ谷峠から藤枝駅まで。その1。)

2015-02-08 18:49:59 | 旧東海道

 日にちを改めて再び、静岡駅へ。前回の続きを、と。2月3日(火)。

 静岡駅からバスに乗って「宇津ノ谷峠」まで。静岡駅でバスを待っていると、外国人夫妻。地図を拡げて、何やら思案顔。
 少し話しかけると、地図を見ながら「宇津ノ谷峠」に行きたいようす。そこで、乗り場まで一緒に。前回帰りに乗ったバスのコースでいいはずですので。一応念のため、案内所で聞いて確認。
 「七番乗り場」。やって来たバスに一緒に乗り込みました。こちらは、曇り空だったこともあって、峠のトンネルを越えた岡部側の「坂下」で降りて、と思っていましたが、峠に近づいても、外国人達は降りる気配は、なし。
 そこで、「ボタン」を押してここですよ、と。結局、一緒に降りてしまいました。その方達には、歩道橋を渡って向こう側に行くように勧め、さて、当方は、と。
 曇っているし、肌寒いし・・・。でも、せっかくなので気になっていた「蔦の細道」をたどってみることにしました。それから「岡部宿」を経て「藤枝宿」までは行けるかな、と。予定よりも1時間のタイムオーバーになりますが、・・・。

「道の駅 宇津ノ谷峠」からの入口。

この階段を上って行きます。

 すぐに、日が差し込まない鬱蒼とした、上りの山道に。道も狭く折れ曲がる急な勾配で、まさに「登山道」。この日の光じゃ、小生の携帯電話では色が飛んでしまい、ぼんやりとした写真にしかなりません。箱根路の時と同じです。

道の脇に細い流れ。

途中にある「文学碑」。鎌倉後期、阿仏尼の「十六夜日記」の一節。

 建治3年(1277年)~弘安元年(1278年)、あるいは弘安2年(1279年)~弘安3年(1280年)にかけて、実子藤原為相(冷泉為相)と為相の異母兄・藤原為氏(二条為氏)との間の、京都では解決出来ない所領紛争を鎌倉幕府に訴えるために京都から鎌倉へ下った際の道中、および鎌倉滞在の間の出来事をつづっています。日記が10月16日に始まっていることを由来として後世に現在の名前が付けられました。
 その中で、「宇津ノ谷峠」に関わる内容が記されています。

 うつの山こゆるほどにしも、あざりのみしりたる山ぶしゆきあひたり。「夢にも人を」など、むかしをわざとまねびたらん心地して、いとめづらかに、をかしくもあはれにもやさしくもおぼゆ。「いそぐ道なり。」といへば、文もあまたはえかゝず。たゞやむごとなきところひとつにぞ、おとづれきこゆ。

我心うつゝともなしうつの山夢にも遠き昔こふとて

つたかえでしぐれぬひまもうつの山涙に袖の色ぞこがるゝ

 こよひは手越といふところにとゞまる。なにがしの僧正とかやののぼるとて、いと人しげし。やどかりかねたりつれど、さすがに人のなきやどもありけり。

廿六日、藁科川とかやわたりて、興津の濱にうちいづ。

    

登り始めて20分ほどで、峠に着きます。

在原業平の歌碑。

 在原業平 伊勢物語

 駿河なる宇津の山辺の
     うつつにもゆめにも
   人にあはぬなりけり 
 
碑の頭越しに富士山(↓)。   

岡部側。明るく開けている。
  
 業平、阿仏尼は京からの旅で、「東下り」。こちらは江戸からの東海道歩きで、「京下り」です。

静岡側はこんな感じですが、

 岡部側は、ミカン畑。

   
               「猫石」。どういう方角で見たら、猫に見えるのでしょうか?

空は明るくなってきました。

しばらく下りの石畳道が続きます。

石畳み道の脇にはせせらぎ。 

「蔦の細道」下り口(登山口)。

蔦の細道 

 蔦の細道は宇津ノ谷峠越えの最も古い道で、峠は標高210㍍、勾配24度、道のり約1500㍍で、文学の名所として著名である。
 『伊勢物語(第九段東下り)』の一節に

 「ゆきゆきて駿河の国にいたりぬ。宇津の山にいたりて、わが入らむとする道はいと暗う細きに、蔦かへでは茂り、もの心細く(中略)
  駿河なるうつの山辺のうつつにも
   夢にも人にあはぬなりけり
 富士の山を見れば、五月のつごもりに、雪いと白うふれり。
  時しらぬ山は富士の嶺いつとてか
   鹿子まだらに雪のふるらむ」 

 とあるが、この文と歌が「蔦の細道」という名の起こりといわれている。

 岡部町教育委員会 

注:この部分の現代語訳

 さらに行って駿河の国(静岡県)にたどり着いた。宇津の山に着いて、私がこれから入ろうとする道はとても暗く細い上に、つたや楓が茂っていて、なんとなく心細く、(中略のところ:つらい目に遭うのだろうと思っていたところ、とある修行者に会った。
「どうしてこのような道にいらっしゃるのですか」と修行者が言うので見てみると、知っている人だった。(そこで)京にいる愛しい人への手紙を書いて、言づてを頼んだ。)

 駿河にある宇津の山辺にきていますが、うつつ(現実)にも夢の中でもあなたに会わないことです。

 ※山の名前「宇津」と「うつつ」をかけている。「駿河なるうつの山辺の」が「うつつ」にかかる「序詞」。

 富士山を見ると、五月の末だというのに、雪がとても白く降り積もっている。

 季節をわきまえない山というのは、この富士山のこと。今がいつだと思って、鹿の子のまだら模様のように雪が降るのでしょうか。

 「阿仏尼」もこの部分になぞらえて、山中での偶然な出会いを記しています。
 『伊勢物語』の成立は、9世紀後半から10世紀前半で、『十六夜日記』は、13世紀後半の作品ですから、約400年ほどの後の作品ということになります。このかん、「蔦の細道」・東下りの章段は、長く語り継がれてきたということになります。今でも、「昔、男(在原業平に想定される)」が主人公の東下りは、印象深いお話しです。

あらためて、来た道を振り返る。

ここまでの下りも、20分ほどの道のりでした。

宇津ノ谷峠をめぐる全体図。

 時間にゆとりがあれば、「道の駅」から、①「蔦の細道」を歩き、次に②「旧東海道」を上り、宇津ノ谷の集落の手前で、③「明治トンネル」を歩く、そして④「大正トンネル」を歩く、というコースもありそうです。

 結局、今回たどったのは、③「明治トンネル」、②「旧東海道」の下り(の一部)、①「蔦の細道」でした。いずれも変化に富んだ興味深い道でした。

 「蔦の細道」は、峠越えの道として「(旧)東海道」が官道となった以降(「お羽織屋」の伝承で言えば、豊臣秀吉の頃から)廃道になってしまった。まさに蔦や楓、雑草、倒木に覆われ、道筋すらまったく不明になったはずです。400年近くの時が経過していくわけですから。

 その廃道を復活させるために、地元の歴史家などのおそらく熱心な、不屈の探求、現地調査があったことでしょう。そのおかげで現在のような「蔦の細道」として歩けるようになったことに感謝しなければなりません。

 さらに、明治以降、「(明治)(大正)(昭和)トンネル」によって安全に早く通過できるようになって、その東海道も通行する人もいなくなり急速に廃れていった、と思われます。ここにも、地元の方々の復活の並々ならぬ苦労、努力があったにちがいありません。
 こうした先人の労苦、歴史を知るには、ぜっこうの場所でした。
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宇津ノ谷。お羽織屋。明治トンネル。PASMO。・・・(静岡駅から「宇津ノ谷峠」坂下まで。その5。)

2015-02-06 20:34:16 | 旧東海道

 案内絵図でも分かるとおり、「宇津ノ谷峠」を越えて行く(抜ける)のには、いくつものルートがあります。

1.蔦(つた)の細道…平安時代から鎌倉時代の古道。
2.旧東海道…江戸時代の道。
3.明治トンネル…明治9年開通、初の有料トンネル。
4.宇津ノ谷隧道…昭和5年開通(県道208号線)。「大正トンネル」ともいう。
5.昭和宇津ノ谷トンネル…昭和34年開通(国道1号線)。
6.平成宇津ノ谷トンネル…平成10年開通(国道1号線)。

 5,6以外はそれぞれに歴史を持つ道筋です。旧道歩きの人間は一般的に「2」を行くことになります。そこで、まずは「宇津ノ谷」の集落方向へ。ここは、「丸子」と「岡部」の宿との間にあった「間(あい)の宿」でした。「宇津ノ谷峠」を背後にひかえた集落。

 狭い上り坂に沿って軒を連ねる宇津ノ谷の集落。

 街並みの景観保存のために、家屋や道の保全、補修など積極的な取り組みがあるようです。

 宇津ノ谷地区は静岡市の西端、旧東海道の丸子宿と岡部宿の間に位置し、街道を往来する旅人たちが休憩した静かな山あいにある40戸ほどの集落です。ここでは、街道の面影を残す懐かしい雰囲気を感じることができます。
 当地区では、地元住民などによる協議会をつくり、歴史や街道の面影を継承していく活動をしています。また、静岡市では、この地区を都市景観条例で「美しいまちづくり推進地区」に指定し、街道の面影を残すまちなみの保存に取り組んでいます。
 そして、この活動が評価され、国土交通省による平成17年度都市景観大賞「美しいまちなみ賞」の美しいまちなみ優秀賞を受賞しました。



HPより)。

このHPには、このかんの、宇津ノ谷地区の取り組みが細かく紹介されています。

 右側のおうちが、「お羽織屋」。

   

秀吉公のお羽織の由来

 天正18年(1590)秀吉が小田原の北条氏を攻めたとき、宇津谷(うつのや)に休息した。その際、当家の祖先が馬の沓を献上し、また戦陣の勝利を示すような縁起のよい話をしたので、帰りに立ち寄って与えたのが、当家所蔵のお羽織である、。表は紙、裏はカイキ(注:和紙と絹でできた陣羽織)、後に家康もこの羽織を見て、記念に茶碗を与えたが、これも当家に所蔵されている。

   東海道宇津谷    石川家

 集落を抜けると、高台にひなびた趣の食事処「ななみ」。
                                     手前の看板「今昔」は、甘味処とものづくりのお店。

 道が二手に分かれ、右手が「出世街道」=旧東海道。峠越えの山道。左は、「明治トンネル」方向。

この先が、旧東海道登り口。

 今回は、あえて旧東海道の道筋から離れて、左手の「明治トンネル」の方へ進みました。

眼下に「宇津ノ谷」の集落。

 車道になっていますが、午後の陽は差しこまず、薄暗い道。広場には、宇津ノ谷峠の立体模型。


 あまり人目に触れられていなさそうで、人が立ち寄る雰囲気ではありません。

いよいよ「明治トンネル」へ。車止めの杭があります。

トンネル入口。右手に朽ちたベンチ。

点々と天井から明かりがあるので、足元は心配ありません。

トンネル内から振り返る。自分の足音だけが響きます。

煉瓦造り。下部に補修したあとが見られます。

 けっこう一人で歩いていると、何だか吸い込まれそうな気分になります。どこからか話し声が聞こえて来るような。一瞬、ぎょっ! 確かに二人連れの話し声が後ろから聞こえてきます。振り向くと、親子が自転車でやって来ます。ビックリしたのは、お互い様です。

反対側の出口。自転車に乗った親子の姿が遠くに。

岡部側出口。親子はそのままトンネルを戻って行きました。

出口にあった説明板。

明治トンネルの由来

・・・
 明治6年、岡部町の杉山喜平治ら7人が「結社」を創立し、明治7年5月工事に着手しました。総工費24,800余円、労役人夫延べ15万人で静岡口約20mは青石造り、岡部口の大部分は木角合掌造りの「く」の字型のトンネルが明治9年6月に完成しました。
 日本最初の有料トンネルで明治9年11月からは東海道本道として使用されましたが明治29年に照明用のカンテラの失火によって、枠組みが焼失崩壊して一時使用不能になりました。
 現在の赤煉瓦トンネルは、静岡口を一部変更し直線とした長さ約203mで明治36年に着工し、明治37年に完成しました。
 しかし、昭和5年、この西側に、近代的な旧国道トンネルが開通したことに伴いあまり使用されなくなりました。
 平成8年に近代土木建造物の保護を目的として新設された国の登録文化財制度により、平成9年5月29日、現役のトンネルとしては全国で初めて文化財建造物に登録されました。

     藤枝市教育委員会 藤枝市建設課

大正期のようす(「知足美術館」HPより)

 舗装された道路はそのまま下って行きますが、道を左にとって、東海道からの峠道に合流することにしました。

明るい日差しの元、宇津の谷峠方向を振り返る。

   
                        下りの山道が続きます。

左手に「髭題目碑」。

その付近から振り返る。

「蘿径記碑跡」。

 蘿径記碑は文政13(1830)年、有名な儒学者でもあった駿府代官の羽倉外記(簡堂)が、蔦の細道の消滅をおそれ、末長く残すために建立した石碑です。
「蘿」は蔦を、「径」は小路を意味します。今は坂下地蔵堂の裏にあります。

しばらく下ると、広い道と合流します。山道を振り返る。

「参勤交代の道」。

右手奥が 「蔦の細道公園」方向。

「旧東海道(別名大名街道)」説明板。

旧東海道(別名 大名街道)

 この道は、駿河国の安倍郡と志太郡の境にある宇津の山の一番低くなった鞍部にある峠道で、二つの峠越しがあった。一つは、源頼朝以後に開発された東海道本筋の通っている宇津の谷峠で、もう一つは、それ以前の蔦の細道の峠である。鎌倉幕府は部隊の行進ができない旧道を廃し、新道を開いたのが宇津の谷峠道である。上り下り八丁(約870メートル)の険路であった。ここで鬼退治にからむ十団子の伝説の生まれたのも、難所であった証拠であろう。
 豊臣秀吉が天正18(1590)年7月、小田原城を落し、戦勝を誇り、蹄の音をこだまさせつつ通ったのも今は兵士共の夢のあとである。慶長6(1601)年 徳川家康が、五街道を設け、交通の便を図ってからこの街道は人や物資の往来がひんぱんとなり、殊に参勤交代の大名行列は豪華絢爛たるもので、二十万石以上の大名は武将が二十騎、足軽が百二十人から三百人もあり、一万石の大名でも五、六十人の供揃えで、その行列はこの峠をうめつくしたことであろう。この道も明治9(1876)年トンネルの開通によってとざされたが、明治初期までは上り下りする旅人の難所であった。 

    藤枝市教育委員会

 坂を下ると道の分岐点の付近に坂下の延命地蔵堂(鼻取地蔵)があります。


「坂下」バス停に向かう途中で、宇津ノ谷峠方向を望む。

 上り線にある大きな駐車場脇の「坂下」バス停から静岡駅に戻りました。この路線バスには、「PASMO」が使えて、500円なり。

 ところで、JR東海道線で熱海駅から西へ行くときには、「PASMO」が使えません。JR東海エリアは別のカードシステム。
 ですから、乗るときに到着駅までの切符を購入してから乗ることになりますが、かつてのように駅員がいる窓口はあまり見かけません。そのままPASMOで改札口を入ることに。
 と、下車駅の窓口で精算となります。乗り越しのカード精算機に入れてもはじかれてしまいます。そこで、駅員のいる窓口へ。そこでは、改札口を入ったという記録を「なし」にして現金で全額払うか、カードを使うかを選択します。
 帰りも同じですが、同じように駅員がいないケースも多く、したがって、2000円以内の切符を買って乗る。当然、下車駅のところで、精算。

 横浜駅南口では「PASMO」も使えず、全額、現金扱い。この前、「新蒲原」駅から乗って横浜駅で精算、差額を聞いたら、4000円も請求された。びっくりして違うんじゃないの、と駅員を問い詰めたら、間違えました、と。正しい金額になった。このときの駅員の行動を見ていると、小さな路線図を見ながら、あれこれ電卓で計算し、いくらです、と言うのみ。まったく客は言われっぱなし。間違ってもそのままのことも?

 その支払い金額の変更も、まずこちらがもらったおつりを出させ、こちらの切符などが入った「引き出し」(「箱」?)に入れ、こちらが払ったお札を「引き出し」から出してこちらに返し、改めて、こちらがお金を出す、というやりとり。さっさと差額をくれればいいのに。・・・

 後ろには同じようなお客さんが並んでいるし、入ってくる人、降りる人、質問する人と立て続け。中にはくってかかる人も(たいていはJR東海管内、たとえば御殿場線からの)。それらを一人でやっている、気の毒と言えば、気の毒。
 同じ精算でも、都内の駅では、パソコンに駅名を打ち込んで計算し、さらに電卓で差額を請求してきます。

 せめて、「自動乗り越し精算機」なら、こういう間違いもなくなるだろう。

 何よりも、どうしてJR東海管内はPASMOが使えないのか、もちろん、JR東海仕様のカードも東日本では通用しない。

 JR東海の車内や駅構内には、やたら「PASMO、Suicaは使えません」キャンペーン・広告が貼ってあります(横浜駅にも貼ってあるが、駅のホームでは役に立ちそうもない)が、それよりも共通にできないのですか? JR東海は「新幹線オンリー」で、在来線などはかまっていられないのかも。でも、庶民の足としてけっこう在来線の乗客も多いような気がします(大きな荷物を持った人が乗っているのは、静岡空港の利用者? )。

 JRで扱っている「青春18きっぷ」。こういう旅にはなんといっても格安で、便利で、お得、なのですが、残念ながら通用する期間が決まっていて、「天気」と「都合」と「気分」で家を飛び出す者には、少し不便(去年の暮れは使った方がよかった! 春シーズンは、使うかもしれない)。

冬:平成26年12月10日~平成27年1月10日
春:平成27年3月1日~平成27年4月10日
夏:平成27年7月20日~平成27年9月10日
冬:平成27年12月10日~平成28年1月10日


 大阪など近畿地方では、地下鉄や私鉄など、どこもPASMOが使えます。「静鉄バス」でも使えるのに。何とかできませんか!
 切実なお願いです。これからもしばしばJR東海管内へ行きますので。
 
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丁子屋。とろろ汁。宇津ノ谷峠。(静岡駅から「宇津ノ谷峠」坂下まで。その4。)

2015-02-05 21:56:19 | 旧東海道


 「安藤広重:東海道五十三次 丸子宿 名物茶店」。

 道なりに歩くと、まもなく「丁子屋」。12時少し過ぎ。ちょうどいいタイミング。まだ混んでいない時分で、2階に上がって、広々とした座敷で「とろろ汁」を。室内は、鴨居には「広重の東海道五十三次」が掲げられています。

現在のようす。
 
「店内」。店員さんもてきぱきとして感じがいい。

 その「とろろ汁」。麦飯にかけて食べますが、けっこう食が進みます。頼んだのは、一番素朴な定食「丸子」(税込み1440円)。「とろろ」と「ご飯」と「味噌汁」と「香の物」ですが、他にも一品料理として(注文しませんでしたが)「揚げとろ」「切りとろ」「酢とろ」「焼きとろ」など「とろろ」づくし。

 さすが伝統のお店。地元静岡の契約農家からの自然薯、自家製の味噌などこだわりが随所に。お酒も飲もうと思いましたが、これからの峠越えを考えて、自重。ビール、地酒なども豊富なようです。

 洗練されていない素朴な味わい、豊かさが、信条のような気がしました。受け継いできた「伝統」の味、ということでしょうか。
 味噌汁に、たたみいわしがさりげなく入っていたのには、びっくり。おひつにほどよい量の麦飯。つい大盛りで二杯もよそってしまいました。

 店内には、東海道にまつわる、けっこう興味深いものが展示されています。



 一通り見て、外に出たら、たくさんの人がいました。タクシーで来るお客さんが多いのか、客待ちのタクシーもけっこう停まっていました。 

 由比の「くらさわや」さんの「桜えびのかき揚げ」定食といい、ご当地物・名物を食べられるのも、この旅のいいところです。けっこうなお値段ですが、堪能しました(店内の展示物を自由に見学出来たのを含めれば、相応かな)。

 店の外にもいくつか記念碑や説明板があります。

「十返舎一九東海道中膝栗毛の碑」。

 けんくわ(けんか)する 夫婦ハ口をとがらして 鳶(とんび)とろろに すべりこそすれ

「千寿の前」。実はお酒の宣伝。内容は・・・、
 
 戦乱の世、源平の時代には数々の美しくも悲しい物語が、残されています。私達の郷土にも「千寿の前」の物語が伝えられています。
 千寿は静岡市手越の長者の娘として生まれ、「白拍子」呼ばれる舞姫でした。
 白拍子は麗しい美人が多かったようですが、中でも千寿は源頼朝が天下の美女、12人を集めた時、その第一に千寿をあげている程でした。(現在のミス日本ということでしょうか)
 千寿と平重衡との恋物語は「平家物語」近くは山本富士子、松本幸四郎共演の歌舞伎にて広く知られたわけですが、悲嘆やるかたなき千寿は尼となり「熊野御前」を訪ねて遠江に移り、重衡の菩提を弔い磐田に住んだと伝えられています。(現在の磐田市白拍子集落)
 千寿の墓石、風雨にさらされて幾百年、今この千寿の前にあやかり麗しき美女のさずからんと手向ける娘達の野花に、戦乱の世に咲ける悲恋がしのばれます。・・・

 どういう内容の「悲恋」なのか、まったく説明がありません。山本富士子、松本幸四郎といってもピンとこないでしょうね。
 書き手が「酒屋」だけに酔いしれている雰囲気が、とても面白い。

 さて、おなかもいっぱいになって満足したところで、出発。目の前の橋を渡ると、「高札場」。丸子宿の京方見付にもなっています。レプリカですが、興味深いものです。



 しばらく川沿いの道を進むと、国道1号線に合流します。
    振り返って望む。

 赤目ケ谷の交差点を左折し、国道の脇を進みます。この付近が日本橋から188㎞。

 途中で、「丸子紅茶」という看板がありました。ここは日本の紅茶の発祥の地だそうです。この道も再び国道に合流します。

来た道を振り返る。

国道1号線。交通量が多い。

 大きな「コンビニ」のところへ出ます。

一本の大きな松の木が目印。

その先にある歩道橋を渡って山側の道を進みます。

歩道橋から静岡方面を望む。

 歩道橋の下には金ピカの仏像が。

 車の行き来の激しい国道に沿ったり離れたりしながら、「宇津ノ谷峠・道の駅」に向かいます。この付近(あるいは通りの反対側?)に「宇津ノ谷一里塚」がある(あった)はずですが、まったく分かりませんでした。 

 歩道の路肩には「東海道ルネッサンス」。

 ようやく「道の駅 宇津ノ谷峠(上り線)」に到着。

平成と昭和の「宇津ノ谷トンネル」。  

 右に折れて進むと、宇津ノ谷の集落。

 集落の入口にある大きな案内版。「出世街道」とあるのが、「旧東海道」。

  

 これから、峠越えです。

 ところで、広重には別に「隷書版」の「東海道五十三次」があって、そこでは「丸子宿」は、雪景色です。これもなかなか風情のある絵柄です。

「鞠子」宿。

(広重の浮世絵は、「Wikipedia」より)

大正期の丸子。(「知足美術館」HPより)

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丸子一里塚跡。丸子宿。(静岡駅から「宇津ノ谷峠」坂下まで。その3。)

2015-02-04 22:42:23 | 旧東海道

 「国道1号線」の「佐渡交差点」を左に折れると、いよいよ「丸子宿」。歩道橋の上からの富士山。眼下の中学校のグランドでは「少年野球大会」が開かれていて、はつらつとした歓声が上がっていました。

                          

   国道側には、「(日本橋から)185㎞」ポストが。

旧道は、喧噪から離れた静かな道で、落ち着いた町並み。 

 しばらく行くと、道は右に大きく曲がり、賑やかな商店街に入ります。コンビニの脇には大きな松の木が。そして、説明板あります。

         

 ようこそ丸子路へ 旧東海道の松並木

 江戸幕府は街道を整備するにあたり、道の両側に松の木を植えました。。夏の日除けか、冬の西風よけのためか?
 この松は、東海道の名残の松です。手越から丸子宿入口まで松並木が続いていました。
 この所は「大曲」と呼ばれ、道の両端には松を植える土手が築かれ、土手には笹が生えていました。
 戦後までは人家も明かりもなく、夜になると「オバケ」「オイハギ」が出没すると噂されほど淋しい場所でした。

 そんな面影はなく、商店が並び、人通りも多くあります。この松の写真を撮っていたら、近所の買い物帰りの女性から「何かあるんですか? 」「いや、この松は東海道の松並木の名残だそうです」「あら、ちっとも知らなかったわ。」通り過ぎていきました。
 地元では、いつも見慣れた風景なのでしょうね。

 上の説明文の中に「冬の西風よけ」とあります。東京(関東)では、冬は「北風」のイメージが強いと思います。しかし、このあたりでは、冬には「西風」が強いことを知りました。「三島宿」以来、静岡県内をしばらく歩いてきて、たしかにそんな感じがします。

 「長田西小」を過ぎると、お店などもまばらに。その先の三叉路のところに、「丸子宿」の案内版があります。

    

 静かな道をしばらく進むと、道路の右側、歩道に「一里塚」跡の石碑。

    

 「一りつかあと」。日本橋から46番目の「丸子一里塚」跡です。歩道上にあり、左右にポールが立てられていました。気がつかないことがないようになのか、通行人がぶつからないようになのか、果たして? 
 写真をよく見ると、右のフェンスの奥に何やら「説明板」があるようです。拡大してみましたが、何が書いてあるか、まったく判読不能でした。
 
 いちだんと静かな道になり、山が次第に近づいてきます。

「丸子宿江戸方見附」跡。

 道が急に狭くなっています。枡形の名残りのようです。

左手にある説明板。

 これから丸子宿 江戸方見付跡

 東海道五十三次のうち丸子宿は日本橋から46里数えて20番目の宿でした。宿場は旧道に沿って350間、規模は小さいが正式な宿場でした。
 宿場の入口(江戸方)出口(京方)に見付という場所があり、街道の見張場の役目をしていました。

○本陣 建坪280坪、門構え玄関付きの大きな公認の宿泊所でした。参勤交代の殿様や幕府の役人、勅使が利用する宿でした。
○脇本陣(2軒) 本陣に準ずる宿でした。
○問屋場 宿場から宿場への荷物を継ぎ送る伝馬業務を担当していた。丸子宿は小さな宿場でしたが百人の人足と百疋の馬を備えた。
○七里役所 徳川家紀伊殿様の宿泊連絡所
○旅籠屋大2軒、中16軒、小6軒
○茶屋 めし、茶、酒、団子と共に近在からの籠物を販売していた。この中に丸子の山から掘り出した山芋が「とろろ汁」として名物となった。

 芭蕉の句「梅若菜 鞠子の宿の 当路々(とろろ)汁」

宿場内を望む。

 道幅も昔のままなのでしょう。家の軒先には屋号の看板が掲げられています。

    

案内版。

 歴史の道 東海道のご案内

 この道筋は、江戸時代の東海道です。ここ丸子宿は文治5(1189)年、源頼朝が、奥州平定の功績により、手越平太家継という駿河の武士に丸子一帯を与えて駅家を設けたのが起源といわれています。今の元宿といわれる辺りです。戦国時代には今川家に仕えた連歌師宗長も「丸子という里、家五,六十軒、京鎌倉の旅宿なるべし」と記しています。
 江戸時代になり、徳川家康によって東海道の整備が行われると、丸子宿は品川宿から数えて20番目の宿場町に定められました。比較的小さな宿場町であったので、周囲の村々からも人足や馬を供給していました。これを助郷制度といいます。

 ここは東の見付を通り丸子宿に入ってきた所です。見付は、宿場の出入口にあり、往来を監視する機能をもっていました。
 現在、宿通りと呼ばれるこの通りに、往時を偲ばせるような建物は残っていませんが、本陣跡、脇本陣跡の碑や格子戸の残る家、間口が狭く奥行きの深い家並みなどから、丸子宿のようすを思い起こすことができます。
 天保4(1843)年の『東海道宿村大概帳』では、宿内町並み東西7町、惣家数211軒、そのうち本陣1軒、脇本陣2軒、旅籠24軒、人口895人、と記録されています。
 丸子宿には、お七里屋と呼ばれる紀州藩御用を務める機関もありました。

 静岡市教育委員会

 この造り酒屋さんの軒先にも「杉玉」がありました。

     
   「脇本陣」跡。                   「問屋場」跡。

格子戸の美しい家。

   
      「本陣」跡。                      「脇本陣」跡。
 
案内版。

江戸時代の丸子宿  駿河国有度郡丸子宿 駿府町奉行所支配所

一 丸子宿の成立
 慶長6年(1601)徳川家康により東海道の伝馬駅として指定される
一 位置  
 江戸へ46里4町10間(約180粁)
 府中へ1里16町 岡部へ2里
一 宿内人口 総数795人
       内 男366人 女429人
一 宿内家数 211軒
一 宿泊施設 本陣1軒 建坪280坪
       脇本陣2軒
       旅籠屋 大2軒 中16軒 小6軒
一 問屋場 一ヶ所 人足100人 馬100疋
一 高札場 一ヶ所 宿場入口に立つ  

鞠児学校跡。

お七里役所跡。

お七里役所  

 江戸時代の初期、寛政年間 紀州 徳川頼宣は、江戸屋敷と領国の居城の間、百四十六里に沿って七里間隔の宿場に、独自の連絡機関として二十三ヶ所に中継ぎ役所を設けた。
 県内では、《沼津》《由比》《丸子》《金谷》《見付》《新居》に設けられ、この役所を『紀州お七里役所』と呼び五人一組の飛脚を配置した。
 これには健脚にして剣道、弁舌、に優れた仲間が選ばれ、昇り竜、下り竜の模様の伊達半天を着て《七里飛脚》の看板を持ち腰に刀、十手を差し御三家の威光を示しながら往来した。
 普通便は毎月三日、江戸は五の日、和歌山は十の日と出発し道中八日を要し、特急便は四日足らずで到着した。幕末の古文書に、入山勘太夫役所、丸子勘太夫などと記されている。
 丸子駅におけるお七里役所は、当家のことである。
 徳川頼宣は、徳川家康の第十子で家康が亡くなって三年後に駿府を追われ紀州和歌山にお国替えさせられた。こうした事もあって紀州家では、幕府の行動を警戒する諜報機関としてお七里役所を置いたのである。

奥には、街道の詳細な絵図。

 そろそろおなかもすいてきました。「丁子屋」まであと少し。「とろろ汁」を食べるぞ!
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川会所跡。安倍川餅。安倍川橋。手越の里。杉玉。・・・(静岡駅から「宇津ノ谷峠坂下」まで。その2。)

2015-02-03 22:23:35 | 旧東海道

 「新通り」からいよいよ「安倍川橋」へ向かいます。

「川会所跡」説明板。

 「県道354号」との合流点にある交番脇にあります。

川会所跡

 江戸時代、東海道で架橋を禁じられていた川に安倍川や大井川などがある。東海道を往来する旅人は川越人夫に渡してもらわなければならなかった。
 川越人夫による渡しでは、小型川越えの興津川、中型川越えの安倍川、大型川越えの大井川などが、いずれも代表的な存在であった。この川越人夫が人や荷物を渡すのを監督するところが川会所であった。
 安倍川にも両岸に川会所があった。ここには、毎日川役人が勤務して川越人夫を指示したり、川越え賃金の取り扱いをするほか、町奉行所からも川場係の同心二人が毎日出張して警備監督に当たっていた。
 この川会所は間口6間、奥行き4間半であり、5人位の裃を着た役人が務めていたといわれている。
 ちなみに、安倍川の川越え賃は、脇下から乳通りまでは一人64文、へそ上は55文、へそまでは48文、へそ下は46文、股までは28文、股下は18文、膝下は16文であったといわれている。

 昭和60年1月 静岡市

「新通り」を振り返る。

 この辺りは「弥勒」というところです。

弥勒町

 江戸時代の地誌「駿河志料」には、現在の弥勒町一帯は、古くは安倍川の河原で、「正保年間に開かれ、江戸時代のはじめ慶長年間に、弥勒院という山伏が還俗して安倍川の河原で餅を売るようになった。この餅を『安倍川餅』という。これが『弥勒町』の名の由来となったと記されています。
 十返舎一九の『東海道中膝栗毛』には、「ほどなく弥勒といへるにいたる。ここは名におふ安べ川もちの名物にて両側の茶屋いづれも奇麗に花やかなり」と著され、「弥勒茶屋」と呼ばれた茶店の賑わい振りをうかがうことができます。
 弥勒町は、駿府の城下町の西の見付の前面に位置し、駿府96ヶ町に準じた扱いを受けていました。
 近世の安倍川は、歩行(かち)渡りの川として川越のための川会所が設けられていました。しかし、明治4年の渡船と仮橋、明治7年の宮崎総五の手になる安水(あんすい)橋の架橋からの安倍川の通行形態の移り変わりと共に、弥勒の町も大きく変化を遂げてきました。
 弥勒の町には、近世以降の歴史の中で、「由井正雪墓址碑」、昭和の初めの小学4年の教科書に載った「安倍川の義夫の碑」、溺死や劔難者のための「慰霊碑」、幕末から明治にかけて広く社会に尽くした宮崎総五の篤行を称える「頌徳の碑」と「安倍川架橋の碑」をはじめ、近世以降の弥勒を語る多くの歴史の跡が残されています。

  平成7年7月         監修 静岡市教育委員会

 「弥勒緑地」にある石碑。

「由井正雪公之墓址」。

「安倍川架橋の碑」。

「安倍川餅・石部屋(せきべや)」。

                

 お店のすぐ隣にあるのが「安倍川の義夫の碑」。

   

安倍川の義夫(ぎふ)の碑

 この碑は、正直な川越人夫の顕彰碑である。
 元文3年(1738)初秋の頃、紀州の漁夫(ぎょふ)が仲間と貯めた金150両の大金を持って、安倍川を渡ろうと川越人夫を頼んだが、渡し賃が高いため、自分で川を渡った。しかし、着物を脱ぐ際に、大切な財布を落としてしまったのである。たまたま、その近くにいた人夫の一人(川原町彦右衛門の息子の喜兵衛)が財布を拾い旅人のあとを追い、宇津の谷峠で引き返してくる旅人に出会って財布を渡した。旅人は喜んで礼金を払おうとしたが、「拾ったものを落し主に返すのは当たり前の事だ」といって、喜兵衛はどうしても受け取らないので、駿府町奉行所に礼金を届けた。そこで、町奉行が喜兵衛を呼び出し、礼金を渡そうとしたが受け取らないので、その金を旅人に返し、代わりに奉行所からほうびの金を喜兵衛に渡したのである。
 昭和4年(1929)、和歌山県と静岡県の学童や有志の人々の募金によって、安倍川橋の近くのこの地に碑が建てられたのである。

 碑文 難に臨まずんば忠臣の志を知らず
     財に臨まずんば義士の心を知らず
 
  昭和60年1月           静岡市

 戦前の道徳の教科書にでも採用されたのでしょうか?

 その先にあったもう1軒のお店「かごや」。

 ここでは3軒のみが販売しているとか。

橋のたもと付近から振り返る。

   「安倍川橋」。けっこう長い。

 ところで、広重が「府中宿」で描いたのは、この安倍川の渡しでした。



 江尻より2里27町。いまの静岡市で、安倍川のほとりにある。ここには、徳川家康が諸侯につくらせた駿府城があり、かれは晩年をここに送ったのである。図は安倍川の渡渉を描いたもので2人の女の輦台渡のありさまをつたえる。輦台渡とは各種渡渉法の一つで2種の方法があり,高貴の人は輿に乗ったままわたし、他は梯子形のものに乗ってわたる。これは武家の娘とその供の女であろうか。『広重 東海道五十三次』

(「東海道五十三次~五葉が選ぶ広重の風景画 - 鹿児島県立図書館」HPより)


 「安倍川橋」は、気分のいい橋。というのは、ボーストリングタイプ(弓と弦)トラスト形式で、それがいくつもつながり、リズム感(そんな印象)に富んでいます。これまでも何度か見てきた橋の、古いタイプの構造です。
 振り向くと、富士山。上流には、白雪の山々、と晴れていれば、のんびりと。併設されている歩道橋からの眺めもいい。橋の構造もしっかり観察できます。雨風が強いときは、大変でしょうが。

土木学会選奨土木遺産「安倍川橋」

 中部5県で最古期の鋼トラス橋であり、ボーストリングトラスとして最大級の橋長である。橋門構中央の球形装飾も特徴的である。

《沿革》

 安倍川(あべかわ)橋は、静岡市街の西方を流れる安倍川に、旧国道1号の橋として1923(大正12)年に架けられた。このあたりは江戸時代、かつての東海道筋の府中宿(駿府)と丸子(まりこ)宿の中間で、川越人夫により人や荷物が川を渡っていた「川渡し」が行われたところであった。左岸側の弥勒(みろく)、右岸側の手越にはそれにまつわる旧跡がいろいろとある。
 明治に入って川越制度はなくなり、旅人は不自由を強いられていたが、これを見かねた宮崎総五という一民間人が多額の私財を投じて木橋を架けたのが初代の安倍川橋である。しかし、名は安水(あんすい)橋といった。1874(明治7)年3月竣工、長さ280間(約509m)、幅2間(約3.6m)、架設費用は8250円と記録されている。通行賃を徴収する民営の賃取橋(有料橋)であった。1897(明治30)年頃、修理基金1000円を付けて静岡県に寄贈された。弥勒側の橋のたもとには、小さな宮崎総五頌徳碑があり、付近の弥勒公園には、立派な安倍川架橋碑があって、顛末を今に伝えている。
 1902(明治35)年には二代目の安水橋が架けられた。この橋も木造であったが、桁は木鉄混合のポニー・クイーンポスト・トラスで、構造計算に基づくものであった。橋脚のほうは4本一組の丸太杭であった。
 三代目の弓形を連ねる大正生まれの現橋は、1921(大正10)年着工、1923(大正12)年竣工された。名も安倍川橋と変わって、鋼鉄製のトラス構造のものとなり、静岡県下の四大河川に架けられた最初の永久橋であった。上弦材が放物線(折れ線で)を描くボーストリング(弓と弦)タイプのトラス桁を14連並べたものであった。橋長と橋桁の数では日本一のボーストリング・トラス橋である。
 実用一点張りの鋼トラス橋ではあるが、アーチ形がリズミカルに連続していることもあり、現代の直線的な橋よりのどかな印象を受ける。近寄ってみると各部材は形鋼や板材が細かい綾材とリベットによって組んであり、現代の橋にはない『技(わざ)』を感じさせる。橋の両端(1番目と14番目)のトラス正面上方には「安倍川橋」の名を表示する橋名額が掲げられていた。現在も左岸側(弥勒側)の元14連目にはこの額が昔のまま残っているが、安倍川橋の切り抜き文字はない。
 国道1号のメインルートは下流側の駿河大橋に移ったが、安倍川橋は県道藤枝静岡線の橋として重責を担っている。右岸側橋詰の手越の信号で停車した車の列の後端が日中でも左岸側橋詰に達するほどの交通量があるので、橋を管理する静岡市では頭を痛めており、早晩4車線化が課題となると思われる。
 なお、右岸側(手越側)に大きなアーチ橋が1連架かっているが、これは1990(平成2)年、右折レーンを設けるために、2連のトラスを撤去して、3車線分の幅をもつアーチの1種ローゼ桁に取り替えたものである。アーチ形式を採用したことと、この新しいアーチ橋の正面に旧橋の橋名額が移設されているのは、粋な計らいである。安倍川橋の支間は34.14mだが、この取り替えの結果、1連目だけが69.11mになっている。
 橋の下流側にはプレートガーダーの歩道が追加架設されているが、下流側から眺めると太い直線となり、弓型のトラスが連なる橋梁景観大いに損ねているのは残念である。しかし、歩道自体は必要不可欠、また、橋のディテールを観賞するにはまことに具合がよい。頻繁に行き来する自転車に注意しつつ、リベットの丸い頭に触ったり、鋼材に浮彫りされた英国のメーカーの名前を読み取ったりするのも一興である。
 なお、弥勒側橋近くには名物「安倍川餅」の店がある。つき立ての餅の味は格別であり、店の風情と人情もまた格別である。丸子宿に足を伸ばすとこれも名物の「麦とろろ」が味わえる。

《諸元・形式》

形式 鋼ボーストリング・トラス(1連目のみローゼ桁)、コンクリート井筒基礎、コンクリート橋脚
規模 橋長約490m/車道幅員7.3m(文献により差がある)/支間長(1連目)69.11m、(2~13 連目)34.14m
竣工 1923(大正12)年7 月23 日(1連目のみ1990年)
管理 静岡市(2005 年4 月より)

                                             (以上、HPより)

                  明治時代の木橋。(「Wikipedia」より。)

   
    橋の向こう、遠くに富士山。                 上流方向。

橋を渡って振り返ると、遠くに富士山。

 (一番手前に見える橋の構造は、それまでの他の橋桁とは異なり、近代的な工法によって、別の構造のものに造りかえられている。)


 渡ると、手越の里。

 「手越の里」は、「千手の里」とも言われ、「平家物語」に出てくる絶世の美女である白拍子「千手の前」の出身地であるらしい。

   

 杉玉(すぎたま)とは、スギの葉(穂先)を集めてボール状にした造形物。酒林(さかばやし)とも呼ばれる。日本酒の造り酒屋などの軒先に緑の杉玉を吊すことで、新酒が出来たことを知らせる役割を果たす。「搾りを始めました」という意味である。
 吊るされたばかりの杉玉はまだ蒼々としているが、やがて枯れて茶色がかってくる。この色の変化がまた人々に、新酒の熟成の具合を物語る。
 今日では、酒屋の看板のように受け取られがちであるが、元々は酒の神様に感謝を捧げるものであったとされる。

(以上、「Wikipedia」参照。)

 「杉」つながりで、たしか「お酒の神様」、奈良の三輪神社との関連もあったように思いますが、・・・。

 しばらく進むと、松並木が、といっても1本ずつぽつんぽつんと。かつては松並木が旅人の目を楽しませたのでしょう。

        

 
 「手越原」で国道1号線と合流します。その歩道橋から東を望む。松が見えて、その奥に富士山。

                  

 「丸子」の宿もあとわずかで到着です。「丸子」は、つい「まるこ」と読んでしまいますが、ここは「まりこ」です。「鞠子」と表示することもあるようですが。
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呉服町。辻之札。七ぶらシネマ通り。府中一里塚。・・・(静岡駅から「宇津ノ谷峠」坂下まで。その1。)

2015-02-02 21:32:47 | 旧東海道

 1月31日(土)。前日の雨・雪だった空もすっかり晴れて、静岡付近まで来ると、快晴。風は冷たいでしたが。

 JR「静岡」駅で下車しての、前回の続き。「江川町交差点」から「呉服町交差点」へ。呉服町の商店街を通り、「伊勢丹」手前の交差点を左折。「七間町交差点」を過ぎて、「サッカーショップ」の角を右折、「梅屋町キリスト教会」の先の角を左折して、「新通り」へ。しばらく進み、右からの「本通り」に合流、「安倍川橋」へ、という順路。「宿場」らしく、右・左折を繰り返して、府中宿(静岡市の繁華街)を抜けていきます。その先は、さほど迷わずに「丸子(鞠子)宿」を経て、「宇津ノ谷峠」へ。

 自宅を6時前に出て、JR東海道線で小田原、熱海、そして沼津で乗り換えて「静岡駅」に着くのが、10時少し前。そこからの行動(歩き)ですから、思ったようには先に進めず、「宇津ノ谷」峠を越え、岡部側の「坂下」バス停から再び静岡駅まで戻って(バス代500円)、在来線で東京へ戻る(もちろん新幹線を使えば楽ですが、こういうことで出かけるためには、節約、節約)。

 この距離になると、自宅からの往復時間も8時間以上かかり(座っているだけでも、大変)、現地での行動にかなり影響が出てきます。まして、真冬。陽の落ちるのも早く感じ、風の冷たさも増してくるので、というわけ。

「呉服町」通り。

 静岡駅前や「江川町交差点」付近の通りの広さから比べると、思ったよりも狭い感じ。しかし、かつての「東海道」府中宿の中心地としての雰囲気が残っていて、賑やかな商店街。

   

呉服町

 今川氏の時代、呉服町は駿府の本町といわれ、当時から城下の主要地城であったことが知られています。現在のように呉服町の名が使われるようになったのは、駿府へ引退した徳川家康が慶長14年(1609年)に行った町割において駿府96ヵ町が定められた時からです。浅間神社に近い北から南に向かって順に1丁目から6丁目までの6ヵ町からなっていました。その名は、この地に今川時代末期(1560年代)から徳川時代初期(1620年代)にかけて絹座、木綿 座の長であった伴野宗善(友野宗全)が住んでいたためつけられたと言われています。宗善は町頭を勤め、駿府町割の際には奉行を補佐し、駿府のまちづくりに活躍した人でもあります。また、呉服町には、その名のとおり、戦前までは十数軒の呉服店が通りに軒を連ねていたことが伝えられています。その後、戦前までは、この名は変わることなく踏襲されてきました。戦後の区画整理に伴い、旧1、2、3丁目が現在の1丁目に、旧4、5、6丁目が現在の2丁目になって現在に至っています。
 また、呉服町は江戸時代の交通の大動脈『東海道』に面しており、多くの人が行き交う「憩いの場」、「交流の場」でありました。東海道は、七間町を通り札の辻を見てから呉服町4丁目に入り、6丁目まで進んだ後、伝馬町方向へと曲がるコースがとられていましたが、最初は、七間町ではなく、本通りを通っ て呉服町1丁目へと入るコースがとられていたようです。その時代から、呉服町は東海道沿いの駿府の中心商店街だったのです。
 その後、呉服町は、明治、大正時代を経て、昭和15年の静岡大火や、戦争による空襲という壊滅的な被害を経験しながら、江戸時代から続く老舗商店やその時代時代の新しい商店が互いに競争しつつ、常に商都静岡市の顔となる商店街の歴史を刻み続けてきたのです。

「札之辻址」。

    

札之辻町

 札之辻町の町名は、江戸時代、ここに高札場があったことに由来します。・・・
 高札とは、幕府の法令を庶民に徹底するため、各地域の要所に設置された掲示場です。札之辻の高札場は、現在の七間町通りと呉服町通りが交差する駿府城寄りの道の中央に立てられていました。札之辻界隈は、当時から商家が軒を連ね、多くの人々で賑わっていたようです。
 また近世の東海道は、この四つ辻で直角に折れ、七間町と呉服町を結んでいました。
 昭和20年、札之辻町は呉服町、七間町の一部となりましたが、「札之辻」の地名は今も市民に親しまれています。

 静岡市教育委員会

  
                           「七間町通り」。

 この通りを進んで行くと、映画撮影機がショーウィンドーのようにガラスケースに収まっているのを発見しました。



 サカエ本社のすぐそばには通称「七ぶらシネマ通り」と名づけられた映画館の街がありました。
 その歴史は明治の時代の、まだ映画が活動写真と言われていた頃からだそうです。
 ここには数軒の映画館が密集していて、静岡に暮らした人の多くが映画を見る為に足を運んだ場所でしょう。
 そんな映画館の街も時代の流れには逆らえず、新たに静岡に出来た商業施設「セノバ」にシネマコンプレックスがオープンとなり移設と共に2011年9月末をもって閉館となりました。
 多くの人が惜しみカメラで街の姿を収めようと来ていました。
 オリオン座は静岡で最大規模の映画館でした。閉館後、この壁画を残すことはできないかと検討されるようですが・・・
 ミラノ座の軒下にはヒメアマツバメのコロニーがありました。いつのまにか撤去されてしまいましたけど・・・屋上に見えるドームは昔、プラネタリウムがあったと聞いています。
 多くの人に夢や希望を与えてきた映画の街は最後に「二十四の瞳」を上映してその幕を下ろし、10月に入ると共に解体の準備に入りました

(「株式会社サカエ「www.omaezaki-sakae.jp/84/post_66.html」HP 2011の記事より)

 かつての映画館跡には、下水道局の大型施設の建設が始まっていました。辺りを見回しても、映画館は一軒もありません。建物としては「静岡東宝会館」というのが目に付いただけでした。

        
 「七ぶらシネマ通り」の標識。               大型照明器具。

 ついつい行きつ戻りつして歩いてしまいました。写真はその後の予定もあるので、これらのみですが。時間があれば、と惜しみつつ先に進みます。上のようなメモリアル計画は、どうなっていくのでしょうか?

「東海道 府中宿」説明板。

東海道 府中宿

 府中宿は江戸から約44里(約176㎞)品川宿から19番目の宿場町です。東見附は横田町、西見附は川越町にあり、天保14年(1843)には、本陣2軒、旅籠は43軒、家数は3673軒、人口は1万4071人の東海道最大規模の宿場でした。
 江戸時代の街道と城下町は、道を曲げたり町の外側に寺を配置することで、敵の侵入を防ぐように作られていました。
 駿府でも、城下町を通る東海道が東の見附から西の見附まで、複雑に折れ曲がっており、的から城や町を守る整備がされていたようです。
 家康公は、駿府のまちづくりの際に、城下町を通る東海道を本通りから新通りに付け替えたといわれています。
 ここを通行する大名や旅人たちは、新通りを主要な街道として利用していました。
 新通りを西(安倍川方面)から東へ進むと、富士山を背景にした駿府城の天守閣の姿が見えたといわれ、家康公もこうした景観を考慮して駿府城下町と東海道の整備を進めたのかもしれません。

「七間町」説明板。

 七間町の由来は、今川時代からの豪商友野氏が七座(七軒)の長として、この地を賜ったためとも、道幅が7間(約14m)あり、これに由来するともいわれています。
 江戸時代の七間町は1丁目から3丁目に分かれていて、町の中心を東海道が通っていました。
 町には竹細工や蝋燭などを商う店が並び、東海道の宿場町として人の往来が絶えない賑やかな町だったようです。

 家康公にまつわるエピソード

 家康公が駿府に住んでいた時代のことです。大坂の豊臣秀頼が京都の方広寺の鐘銘に家康公の名前を勝手につかい、なおかつ「国家安康」と名前を二つに裂いたとして、糾弾される事件が起きました(方広寺鐘銘事件)。
 豊臣秀頼の乳母である正栄尼は、この事件を弁明するために駿府城に登城し家康公に直接謁見することは恐れ多いとしてこの七間町に住んでいた大野氏治の家を訪ね、まず家康公の側室阿茶の局を招いて、謝ったといわれています。
 後に正栄尼は家康公に呼ばれ駿府城に登城し、その弁明も聞き入れられますが、豊臣家側の事件の処理がうまくいかず、この事件が発端となって「大坂の陣」が起こり、豊臣家滅亡に繋がってしまいます。
 戦いに勝利した徳川家は、名実ともに最高権力者となり、家康公は元和2年(1616)に亡くなるまで、この駿府で平穏な日々を送ることになります。

      
                           「新通り」。

 まもなく「一里塚」があるはず。事前調査では「本通り」の方に設置されているらしい、と。そこで、いったん東海道から離れて本通りに向かいましたが、見当たりません。行ったり来たりしながら、よく目を凝らしてみると、通りの向こう側に何やら標識が。

「府中一里塚」跡。

 この「府中一里塚跡(日本橋から45番目)」は「新通り」(旧街道)沿いにはなく、並行する広い本通り(「本町8丁目交差点」付近)に設置されているので、見逃してしまいそうです。

       

 どういうわけか、道路側を向いている。

「説明文」(かなり古びている)。

 ・・・
 一里塚は市内長沼、本通8丁目、丸子、宇津ノ谷の4か所に設置されたが、いずれも現形ををとどめていない。本通りの一里塚はその位置を変え、ここに移動してきたものである。
 現在、県内に残っている三島市錦田の一里塚は、日本橋から28里の起点に築かれたもので、大正11年、国の史跡に指定されているほどである。

 昭和59年3月 静岡市
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