おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

旧玉川上水余水吐。水番所跡。水道碑記。四谷大木戸跡。・・・(渋谷川を遡る。その5。)

2015-11-05 22:29:57 | 河川痕跡
 「渋谷川」の水源とみられる一つが「新宿御苑」内の「上の池」(その北西にあった「天龍寺」境内の湧水、という説が強い)。
 他にも「新宿御苑」付近では二つあります。

① 「玉川上水」からの余水。上の案内図で行くと、A←B←C「玉川上水」。
② 「新宿御苑」内の「玉藻池」(「玉川上水」からの引き水)。上の図で行くと。E←D←C。

 そこで、この二つの流路の痕跡を確認に。10月20日(火)午後。JR「千駄ヶ谷」駅下車。

①の流路跡。

 「千駄ヶ谷」駅改札口を出て左に曲がり、ガードをくぐってから右に進むと、「外苑西通り」。その向かい側。マンションと住宅地の間を抜けた突き当たりの公園を右に。

線路沿いに残る煉瓦壁。

 前回、新宿御苑内の「下の池」に通じる暗渠(渋谷川)と「玉川上水」の余水から流れとが合流して一本になるあたりになるか? 小公園になっているが、川底という雰囲気のくぼ地になっている。
 地図上では、渋谷区と新宿区の区界になっているようで、この付近、渋谷川が区界になっていることを考えると、「渋谷川」とみることが出来そう。


        (「今昔マップ」より)1896年~1909年のようす。
 
○が上の部分。→が「玉川上水(余水)」、←が「渋谷川」。この地図から「渋谷川」の流れは玉川上水の余水からの方が多かった、という印象。

北東方向を望む。
                        さびれた公園には、ブランコと動物のモニュメントがいくつか。

階段を上がってJR線路方向を望む。
                      
「信濃町」駅方向から「大京町」交差点へ通じる道路。「新宿区立四谷第6小」が道沿いの右にある。

    

 この先上流がどのように「新宿御苑」・「玉川上水」方向に向かっていくのか定かではない。


                1927年~1939年のようす(「同」より)。
  その後、地図上では戦後しばらくまで「旧玉川上水」という表示が残っていた。


                現在のようす(「同」より)。
  「新宿御苑」の東側に沿って崖状の表示。これに沿って現在も「旧玉川上水」の流れが残っているはず。

「外苑西通り」沿いに残る水路跡。

向こう側は「新宿御苑」。

そこにあった「伝 沖田総司逝去の地」

 この場所には、高遠藩主内藤家屋敷(現新宿御苑)に沿って流れる旧玉川上水の余水吐(よすいばき・渋谷川と呼ばれる)に池尻橋がかかっていました。
 多くの歴史小説や映画などで、新撰組隊士沖田総司(1844~1866)が晩年に療養し、亡くなったとされる植木屋平五郎(柴田平五郎)の屋敷はこのあたりにありました。

 平成26年3月  新宿区

しっかりと流路が残されている。

    
                                  左手が「新宿御苑」。
 「新宿御苑」内から「旧玉川上水」を望む。

    

                   
                       この先、左に折れたところで、さっきの水路跡につながる。

 新宿御苑の「大木戸門」方向へ移動。その手前にある「四谷区民ホール」のところに大きな石碑「水道碑記」

    

 「区民ホール」付近が「旧玉川上水」からの分岐点(余水吐)の所だったようです。石碑の隣に解説板がある。

史跡 玉川上水水番所跡

 玉川上水は、多摩川の羽村堰で取水し、四谷大木戸までは開渠で、四谷大木戸から江戸市中へは石樋・木樋といった水道管を地下に埋設して通水した。
 水番所には、水番人が1名置かれ、水門を調節して水量を管理したほか、ごみの除去を行い水質を保持した。水番所内には次のような高札が立っていた。
            記
1、此(の)上水道において魚を取(り)水をあび
  ちり芥捨(つ)べからず 何にても物あらひ申間敷(もうしまじく)
  並(びに)両側三間通(り)に在来候並(びに)木下草
  其(の)外草刈(り)取申間敷候事(とりもうすまじきこと)
 右之通相背輩あらば可為曲事者也(曲事者となすべきなり)
  元文四巳未年十二月   奉行

東京都指定有形文化財(古文書) 水道碑(いしぶみの)記 指定年月日 昭和5年12月  

 玉川上水開削の由来を記した記念碑で、高さ460㌢、幅230㌢。上部の篆字は徳川家達、撰文は肝付兼武、書は金井之恭、題字は井亀泉によるもので、表面に780字、裏面に130字が陰刻されている。
 碑の表面には明治十八年の年紀が刻まれているが、建立計画中に発起人の西座真治が死亡したため、一時中断し、真治の妻の努力により、明治28年(1895)に完成したものである(裏面銘文)。

四谷大木戸跡碑

 四谷大木戸碑(この説明板の裏側にある)は、昭和34年11月、地下鉄丸ノ内線の工事で出土した玉川上水の石樋を利用して造られた記念碑である。
 実際の大木戸の位置はここより約80㍍東の四谷4丁目交差点のところで、東京都指定旧跡に指定されている。

 平成24年6月 新宿区教育委員会 

        「四谷大木戸記念碑」。

四谷4丁目交差点にある石塔「大木戸」。

新宿御苑北側にある解説板。

玉川上水の水番屋 玉川上水を管理する水番屋

 江戸の貴重な水資源を守るため、玉川上水は、厳重に管理されていました。上水で魚を獲ることや水浴びをすること、洗いものをすることを禁じていました。このため、流域の村々の利用は厳しく制限され、羽村、代田村(現杉並区)、四谷大木戸には、水番屋が設置され、水質、水量や異物の監視を行っていました。
 四谷大木戸の水番屋は、構内の総坪数が630坪(約2082平方メートル)余りあり、流れてきたごみを止める「芥留」、満水時に渋谷川へ水を排出する「吐水門」、暗渠へ入る「水門」がありました。「水門」では、水量を測定する「歩板」が設けられ、この板から水面までの感覚から市雨量の増減を調べました。

水道碑記

 四谷大木戸の水番屋は、現在の四谷地域センター内にあり、これを記念して、明治28(1895)年に石碑が建てられました。
 石碑は、高さ4.6㍍におよび、篆額は徳川家達が書き、書は金井之恭が書いています。碑文には、寛文で玉川上水建設の理由や、工事を請け負った玉川兄弟の功績をたたえた内容が書かれています。

  新宿区
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富士見坂。全生庵。海上海。・・・(じじばばがゆく。「やねせん」編。)

2015-11-03 19:37:18 | じじばばがゆく

「お疲れ様でした。」
「坂道は上ったり、下ったりでけっこう大変。」
「下り坂と上り坂と、どちらが多かったですか? 」
「そんなの、わかるわけないでしょ。」
「そういえば、お体がお悪いとか。」
「満身創痍ですよ。」
「でも、おやせになったようすもないし、お元気そうで。」
「むくんでいるだけですから。」
「・・・。それでもこうやって歩くんですから、たいしたものんですよ。」
「ま、そこは何とかかんとか。」
「ところで、富士見坂はどうでしたか? 」
「富士が見えるパネルはあった、というんで期待したんですが、なくてがっかり。」
「そしたら、その声を聞きつけてそのおうちの方が持ってきてみせてくれたん、ですって。」
「そうそう。」
「実は、まだあの近所で富士山が垣間見できるところがあるらしい。」
「エッ~」
「どうも個人のお宅の庭先のようで、公表していないようですよ。」
「そう、人がおしかけてきそうだしね。」

 唐突に「乾杯~!」の音頭。

「どうもお疲れさまでした。」

 年に一度の「都内の歴史散歩」。

 今回は、「やねせん 味な散策」と題しての坂道散歩。

 JR「西日暮里」駅。10時に集合して、
 諏訪坂→富士見坂→佃煮屋→日本酒「山内」→朝倉彫塑館→夕焼けだんだん→夜店通り→コシヅカハム→リバティーパン→全生庵→蛇道→海上海(懇親会)というようなコース。

 この企画をこのところ担当してくれる方。百名山に、地元のボーリング場に、蓼科の別荘に、国会前に、・・・と実に精力的に動き回って、生き生きとしている方。今回もおんぶにだっこ。
 但し、去年、はじめちょろちょろ、なかぱっぱと大雨にたたられ、一昨年は大雨で中止と。今回は雨こそ降らなかったが、どうもぱっとしない天気の10月31日(土)。
 雨男なんじゃないのと陰口をたたかれながらも、今回も、わがまま勝手なじじばば相手の案内役。

 当方は、この辺りは来たことがあるのと、前日、富士山を東から南、西から北へとドライブしたのでお疲れ気味で「海上海」での「懇親会」のみ参加。
 30日は、「薩埵(さった)峠」を皮切りに、朝霧高原から河口湖、と別のじじばばと回ってきたというわけ。いい天気で富士山が下までず~と丸見えのラッキーdayでした。

「全生庵は、円朝ゆかりの寺なんでぜひ、と思っていたんでよかったです。」
「あそこはアベが座禅でよく通っているところじゃないか。」
「エッ、それは知らなかった! 山岡鉄舟ゆかりのとか言っていたわ。」
「アベが座禅で澄んだ心になるとは思えんがなあ。」
「アベが行っているんで、けっこうはやっているらしいわね。」
「座禅だけじゃなくて、いろいろ生臭い密談もありそうな感じだが。」
「そういえば、その場で、自民党の総裁選のとき自分の他にだれが出馬するか、探りを入れたらしい。」
「へえ! そういう場でもあるんだ。」
「あいつらは生臭さそのもので生きている連中だから。」
「お寺もそれでいいのかなあ。」
「腹の中はどうだか。」
「ま、来る者は拒まず、去る者は追わず、という感じかな。」
「縁ある衆生はいらっしゃい。縁なき衆生は度しがたし、てなわけか。」
「あそこに行ったら、幽霊の絵を見せてもらわないと。」
「目が動いた、とかいう話ね。」

 てな、戯れ言をいっているうちに、2時過ぎ。そこで解散。

 「次回までお達者で・・・。」
 
 まだ昼の内、元気な連中で二軒目に。飛び込んだお店が「豆腐カフェ&レストラン」。千駄木2-48-18「カテリーナ千駄木」1F。
 お豆腐料理専門のお店。日本酒もおいしくて、あれこれ豆腐料理を注文しては飲み食い三昧。おつまみもすべて豆腐づくし・・・。なんでも「名水百選」「国産大豆」「天然にがり」・・・、マスターらしき男性と若い女性二人のこじんまりとしたお店。能書きのうるさいのが、少し、飲んべえには気になりましたが。値段も意外と安かった!
 4時過ぎになって、ここもお開き。ついでに機関誌の編集会議(?)も終わって、帰途に。

 さすが「やねせん」は、隠れた、味のある「散策」どころでした。

 ところで、そのお店の名は、「豆腐roomDy’s 」。
 「海上海」も昔懐かしい雰囲気のある、中国料理、とくに餃子が格別美味しいお店でした。

 以前、撮った写真を。

 
 唯一、区内で富士山が見えていた坂が、マンション建設によってまったく見えなくなってしまった! それでも、「富士見坂」は、富士山が見えなくても夕陽の光景が美しい坂道。 

 「全生庵」の方は。

ごあいさつ
 三遊亭円朝(1839~1900)は幕末から明治にかけて落語界の大看板であると共に、「怪談牡丹燈籠」「真景累ヶ淵」「文七元結」などの原作者としても広く知られております。そして、今なお落語界はもとより歌舞伎をはじめ、演芸界全般に多大な影響を与え続けております。
 また人格面においても、全生庵開基・山岡鉄舟の導きにより禅をよく修し、その淵源を極め、京都天竜寺の滴水禅師より「無舌居士」の号を付与され「芸禅一如」の境涯に達した人物であります。
 全生庵に所蔵しております円朝遺愛の幽霊画コレクションは、円朝歿後その名跡を守られてきた藤浦家より寄贈されました。伝円山応挙というものから、柴田是真、菊池容斎、松本楓湖、伊藤 晴雨、河鍋暁斎など、幕末から明治の著名な画家達の筆による大変ユニークな幽霊画でございます。
 全生庵では、毎年、円朝忌の行われる八月の一ヶ月間、幽霊画全幅を公開しております。十一日の円朝忌には、落語家により盛大な供養の会も行われまして、大勢の方々にお越しいただいております。

 円朝辞世の句 「耳しいて聞きさだめけり露の音」
                                全生庵七世住職 平井正修
    (HPより)
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草津宿本陣。太田酒造。「近江ちゃんぽん」。・・・(「三雲駅」から「草津駅」まで。その8。)

2015-11-01 21:45:47 | 旧東海道
                               「旧草津川隧道(トンネル)」(明治19年完成)の扁額。

草津宿のメインストリート。道は南西に向かいます。

「草津市民センター」前にある石碑、解説板。

 近江路や 秋の草つは なのみして 花咲くのべぞ 何處ともなき    覧富士記

 将軍のお供をして富士を見に行く途上、秋の近江路を草津まで来たが、草津とは名ばかりで、秋の草花が咲いた美しい野辺を思い描いていただけに心寂しい思いをするものだよ。

 ◎ 作者紹介   覧富士記    堯孝法師 (1390~1455)
 この歌は『覧富士記』に収められており、堯孝法師の作といわれている。室町時代の歌人で頓阿の曽孫。常光院と号し応永21年(1414)には二条派の中心歌人であった。正長元年(1428)足利義教が幕府で歌会を開いて以来飛鳥井家の人々の中心メンバーであり、永享4年(1432)の富士見にお供して『覧富士記』を残した。堯孝法師が東常縁に伝えた古今伝授は、後、宗祇(近江出身)に継承された。

草津歴史街道 東海道

 東海道は、中山道・日光道中・奥州道中・甲州道中を加えた五街道の中でも江戸と京を結ぶ江戸時代随一の幹線路であった。
 その里程は、江戸日本橋から相模小田原を経由、箱根の関・大井川を越え、遠州灘沿いに西進し、伊勢桑名宿を経て、鈴鹿峠から近江に至り、土山・水口・石部・草津の各宿を経由、勢田橋を渡り、大津宿を経て京三条大橋に至るもので、東海道五十三次と称された。
 草津では、小柿から大路井に入ると、すぐ砂川(旧草津川)を渡り、11町53間半(約1.3㎞)の草津宿を経て、矢倉・野路・南笠を通過し、勢田に至った。
 草津宿には、本陣・脇本陣などが設けられ、常善寺・立木大明神(立木神社)ほかの多数の社寺が立ち並び、70軒を越える旅籠をはじめ500軒以上の町屋があった。
 また、矢倉には光伝寺・姥ヶ餅屋・矢倉道標・野路には一里塚・教善寺・新宮大明神(新宮神社)・野路の玉川跡などの社寺名所が在り、矢倉野路間、野路南笠間の街道沿いには松並木が続いていた。

 草津市教育委員会


「草津本陣」。残念ながら休館日です。

      
                                           正面には「細川越中守宿」宿札。

宿札の掲揚(復元)

 大名や旗本、幕府役人などが本陣に宿泊・休憩するに際しては、本陣の前と宿場の出入り口に、その名前を記した宿札(関札とも言う)を掲げました。三島宿(静岡県)の記録によれば、四方に立てた丸太の上部を、二本の横木で十字に結び、十字の個所に宿札を掲げる青竹を固定するものでした。青竹の長さは三間(約5.5メートル)にもおよび、かなり高く掲げられていたようですが、ここでは、宿札掲揚の様子を可能な範囲で復元しました。
 大名の家臣である宿札(関札)役人か、それを兼ねた宿割役人が休泊日の前日か数日前ころに持参して本陣に渡したものといわれます。


草津宿
 東海道五十三次のうち、江戸より数えて52番目の宿場町で、東海道と中山道が分岐・合流している交通の要衝でした。天保14年(1843)の「宿村大概帳」によると草津宿には、田中七左衛門本陣と田中九蔵本陣の2軒の本陣、2軒の脇本陣、72軒の旅籠がありました。(脇本陣、旅籠の数は時代によって変化します)
また、草津宿は中山道と東海道の分岐点で、その分かれ目に追分道標が立っています。(草津宿本陣からは歩いて1分程です)道標の上部にある現在の火袋は木製ですが、文政4年(1821)頃につくられた「栗太志」によると、当時は銅製であったと記されており、大変立派なものであったことが分かります。

草津宿本陣
 「本陣」とは本来、戦の際に軍の総大将のいる本営のことを指していましたが、休泊施設としての起源は、室町幕府の二代将軍足利義詮が上洛に際して、その旅宿を本陣と称し宿札を掲げたことに求められます。そして江戸時代には街道を往来する大名や公家等、貴人の休泊施設を指すようになりました。
ここ草津宿本陣は、当主の田中七左衛門が寛永12年(1635)に本陣職を拝命したとされ、明治3年(1870)に本陣が廃止となるまで、代々本陣職を勤めてきました。また、いつの頃からか材木商も営む様になり、田中九蔵本陣と区別して「木屋本陣」と呼ばれていました。
本陣が廃止となった明治時代以降、本陣の建物は郡役所や公民館として使用されていましたが、江戸時代の旧姿をよくとどめているとして、昭和24年(1949)に国の史跡に指定されました。現在、全国に残る本陣の中でも最大規模を有しており、当時の面影を今に伝えています。

(以上、「」HPより)

「本陣」全景。左に照れくさそうな「飛び出し」坊や。

 古い家並み。お店が多い。

    

お店の脇に「脇本陣跡」碑。
                      「飛び出し」坊やが後ろ向きなのは「一方通行」の通りだから。

昔と今とが混在する家並み。

その先には「草津宿がわかる歴史館」。ここも休館日。

 その先、左手には、太田道灌が遠祖という「太田酒造」という酒蔵があります。

    
                                        「道灌」という酒樽。

  「草津宿と政所」

 草津宿は東海道53次の中でも大宿で、水陸交通の要所でもあることから、関所的な役割を担ってきました。
 草津宿でこの付近一帯は、政治的な中心地として、宿場における旅に必要な馬や人足の用意をしたり、宿の管理を行う問屋場がありました。併せて東海道筋では3ヵ所しか置かれていなかった荷物などの重量検査を行う貫目改所も設置されていたので太田家を中心とするこの付近は、草津の政所(まんどころ)といわれた所以です。

太田酒造 道灌蔵(おおたしゅぞう どうかんぐら)

 江戸城築城の祖として、文武両道に優れた武将名高い太田道灌を祖先に持つ太田家は、東海道五十三次の宿場の中でも大宿であり、また水陸交通の要所でもあった草津において、海道の動静を見守る関守を務め草津行政の中心となっていました。
 太田家が酒造りを始めたのは廃藩後のこと。当時所領としていた100余町歩の田畑から収められる良質の近江米を有効活用するため酒造りを始めたといわれています。以後酒造りを生業として発展。今日まで人々に愛される美酒を世の中に送り続けています。
 旧東海道 草津宿に趣のある佇まいを見せる道灌蔵は見学・試飲が行えますので是非お立ち寄り下さい。

(「滋賀・びわ湖観光情報」HPより)

 今回は、ここまで。「草津川トンネル」まで戻り、アーケード街を進み、左折してJR「草津駅」。「ちゃんぽん亭総本家 草津駅前店」で「生ビール」と「近江ちゃんぽん」でお疲れ様!

 「草津」から再び「京都」に戻り、帰京。

 次回は京・三条大橋まで。日没も早くなるので、二日がかりか? ・・・。見所はたくさんありそうですので、余裕を持った日程にしましょう。
 残る宿場は、53番目の宿場、大津宿。

                     「左中山道 右東海道」。
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