東飯能駅付近の地図(現在)。
西に大きくカーブしていくのが「西武秩父線」。
※西武線が直接、東飯能駅に向かう短絡線の用地がそのまま残されています。そのわけは?
・・・西武秩父線に対して短絡線の計画は、なかなか進みませんでした。東京のベッドタウンとして発展し続けていた飯能市の市街中心部を通るルートだったため、全長わずか500mほどの距離ながら、用地買収交渉や都市計画との調整などで時間がかかったためといえます。それでも1980年代の後半には用地買収がほぼ完了し、複線の線路を敷くことができる建設用地が確保されました。
赤い線の部分。
しかし、そのあいだにセメント輸送がトラックなどに移ったこともあり、貨物列車の輸送量が減少。1996(平成8)年には貨物列車の運転が終了してしまいます。短絡線のメリットを最大限に生かせる列車がなくなったこともあり、西武は短絡線の計画を休止。せっかく確保した建設用地は数十年にわたり放置された状態になっています。
(この項「」HPより)
八高線は南下します。
高架線になっていきます。
「入間川」。
入間川(いるまがわ)
埼玉県を流れる荒川水系の一級河川である。上流部は名栗川(なぐりがわ)とも呼ばれる。荒川の支流としては最長である。川越市古谷付近で荒川に合流する。江戸時代の頃は、舟運が江戸の市中まで通じた。
古代の入間川は単独で東京湾へ注いでいた(最下流は隅田川)。荒川は入間川とは合流していなかったが、江戸時代の1629年に荒川の付替えが行われ、熊谷市久下から現在の荒川合流点まで開削し、現在の流れが形作られた。
また、さらに古くは現在の入間川が荒川に合流するあたりから下流の旧入間川は現在の流路より北部を蛇行して流れていた。今より浦和市街に近い位置で、大宮台地を避けるように蛇行していた。流路はいくつかの河川や排水路として現在も面影をとどめている。
(この項、「Wikipedia」より)
「県道195号線」。
「金子駅」。
都県境歩きの時、東京都青梅市と埼玉県入間市との都県境がこの駅の西方にありました。その先は、丘陵地帯から山に入っていきます。
葛飾区と三郷市の境に当たる「水元公園」から延々歩き続けた都県境(北西編)。ここを一区切りとし、「金子駅」から帰路につきました。
・・・
左側。
茶畑が広がります。
都県境が茶畑の間を抜けています。(都県境歩きのときの記録)
入間市側の茶畑。
青梅市側の茶畑。
・・・
「箱根ヶ崎駅」。
この駅は、「日光千人同心街道(日光街道)」歩きのときに利用しました。
「旧日光街道」交差点。
箱根ケ崎村
語源は、古語で「ハコ」は神の棲む、「ネ」は山を意味するという説があります。
この地区にある狭山池は、中世までは今よりもずっと広大で、面積は10町(10万平方メートル)以上もあったといわれ、狭山丘陵の西端に位置することから、後世鎌倉街道と呼ばれるようになった古街道が通っていました。箱根ケ崎の名称が古文献に現れるのは、戦国時代後期の天文年に北条氏照が発したに「筥根賀崎」と書かれています。
しかし、江戸時代前期の古地図には箱根ケ崎の地名はなく、絵図上の当該地点には村山村と記されています。
そのため、中世まで当地は中世郷村としての多摩郡村山郷の一部だったと思われます。
慶安5年(1652年)に八王子千人同心の日光勤番が始まると、同心達が日光へ往来するための勤番経路として日光街道が整備され、その沿線上に位置した箱根ケ崎村は、幕府より人馬の継立てを命じられ日光街道の旅人の往来が活発となり、箱根宿として発展しました。
このため、村山村の現箱根ケ崎地区に人口が増加し、寛文8年(1668年)の検地をもって村山村から分村したようです。
(以上、「」HPより)
「青梅街道」歩きの時の記録。
JR八高線の踏切に近づきます。
「金子駅」方向。
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