おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

京成高砂駅~京成金町駅。その2。川千家。川甚。山本亭。

2020-07-06 20:59:01 | 沿線歩き

          柴又駅前のモニュメント。「人車鉄道」。

明治32年(1899)、葛飾に人車鉄道という珍しい交通機関が誕生した。常磐線金町駅前から柴又・帝釈天までの約1・4キロを、はっぴ姿の押夫が定員6名の人車を汗をふきふき押すという、のんびりした乗り物であった。庚申の日には、1日1万余人を乗せた記録が残っている。

他の面にも 「帝釈天」。

「柴又」、「矢切の渡し」などの解説が。

奥に見えるのは、寅さんを見送るさくら像。

江戸川土手の方に進みます。「川千屋」。

その奥に「川甚」。

どちらも柴又では有名な料亭。

川千家

 東京都葛飾区柴又にある鰻料理を中心に川魚料理を出す老舗企業である。 

 創業は安永年間であると言われている。[1] 柴又帝釈天で帝釈天の板本尊が1778年に発見され、江戸市中などから柴又へ参拝に来る客が増えて、そうした客をもてなすために柴又界隈の農家が副業で江戸川でとれる川魚料理を振る舞うようになったのが柴又界隈で川魚料理店ができた機縁と言われている。 
川千家もそうした中でできた店の一つで、天明年間にはさらに参拝客が増えて、柴又界隈では宿泊施設も兼ねた茶屋も多く出来た。 
 1900年に金町駅から柴又に鉄道(京成線ではなく人力車両)が通った頃には、それまで川沿いにあった川千家は現在の参道に移転。 
 当主は7代目 天宮吉五郎、 8代目 天宮久七、 9代目 天宮吉久、 現在は10代目 天宮久嘉にあたり川千家には多くの著名人も訪れて、柴又を代表する川魚料理屋になっている。 
 川千家は柴又を舞台にした映画などにしばしば登場した。 まず獅子文六作「大番」で撮影に使われ、淡島千景と加東大介が訪れた。(1955年) 
 また国民的映画シリーズ「男はつらいよ」でも帝釈天参道の撮影の際に何度も登場し、ロケ地として協力している。 第23作目では結婚式会場として登場している。 
 山田洋次監督『東京家族」(2013年)では、親子の出会いの場として同店内で撮影されている。

(この項、「Wikipedia」参照)

鰻(うなぎ),鯉(こい),川魚といえば 川千家,と親しまれ続けて250年.老舗の味をご宴会で.個室100名様迄対応可.
柴又帝釈天、矢切の渡し、寅さん映画等でお馴染みの下町情緒溢れる柴又で、江戸時代より変わらぬ味を守り続ける川千家の鰻・鯉料理に舌鼓を打つ。
そんな粋なひと時を過ごしてみるのはいかがでしょう。食堂、お座敷(コース)、仕出し、お持ち帰りがございます。お一人様から大勢様まで、お祝い事からご法事まで、様々な場面でご利用下さい。
皆様のお越しをお待ち申し上げております。

(この項、「川千屋」HPより)

川甚

川甚は江戸後期の寛政年間に創業しました。古くは江戸川の畔にあり、川から船で直接お部屋へ上がっていただけました。明治38年の写真や、当時の文学作品でその姿が描かれています。その後、大正初期の河川の改修工事、昭和の国道の整備などで現在の場所へ移りました。場所や建物は移り変わりましたが、本館から眺める矢切の渡しは、当時の空気を思い起こさせてくれます。


 寅さんの故郷、原風景である柴又。ここ川甚は、映画「男はつらいよ」の記念すべき第一作に登場しました。寅さんの妹さくら(倍賞千恵子)と博(前田吟)の結婚披露宴の舞台です。本館の門構えは、式に遅れて来たたこ社長(太宰久雄)が原付で乗り付けたシーンそのままです。
今もなお1969年公開当時と同じ姿で、そこにあります。


 文人たちにも愛された川甚。様々な文学作品の舞台として描かれました。
 ・ 夏目漱石『彼岸過迄』より
敬太郎は久し振りに晴々とした良い気分になって水だの岡だの帆かけ舟などを見廻した。 
......二人は柴又の帝釈天の傍まで来て「川甚」という家に這入って飯を食った。
 ・ 尾崎士郎『人生劇場』より
道が二つに分かれて左手の坂道が川魚料理「柳水亭」(これは後の「川甚」)の門へ続く曲がり角までくると吹岡は立ちどまった。
 ・ 谷崎 潤一郎『羹』より
巾広い江戸川の水が帯のように悠々と流れて薄や芦や生茂った汀に「川甚」と記した白地の旗がぱたぱた鳴って翻っている。
 ・ 松本清張『風の視線』より
車はいまだにひなびているこの土地ではちょっと珍しいしゃれた玄関の前庭にはいった。 
「川甚」という料亭だった。
 文人たちにも愛された川甚。様々な文学作品の舞台として描かれました。

 昭和の時代、お客様の余興の一環として、サイン帳に一筆記していくといった風潮がありました。残された4冊のサイン帳は昭和20~40年代のもので、松本清張をはじめ、三島由紀夫、黒澤明、手塚治虫など文学、映画、芸能など各界を代表する人々の名前が数多く記されています。

こうしたサインの数々を新館にて展示しております。明治から昭和の川甚の写真もございます。
ご来店の際は是非ご覧ください。

(「」HPより)

「川甚」を右折すると左手に「山本亭」。

 

「山本亭」解説板。

この建物は、地元ゆかりの山本工場(カメラ部品製造)の創立者である山本栄之助翁の自宅でした。
関東大震災後、当地に移り住み、以後4代にわたって使われていたものを、昭和63年に葛飾区が取得し、平成3年4月から一般に公開しました。建物は、1階400㎡、2階50㎡の木造瓦葺き2階建てで、地下室、土蔵、長屋門なども備え、大正5年から昭和5年の間に数回にわたる増改築を重ね、現在の姿となりました。伝統的な書院造りと洋風建築を複合した和洋折衷の建物と、純和風の庭園とが見事な調和を保っており、その文化的価値は、国内はもとより海外においても高く評価されています。

 

 大正末期から昭和初期に増改築された、当時には珍しい二世帯住宅です。建物は、床の間・違い棚・明かり障子・欄間からなる書院造り、数奇屋風の天井、下端部は石張りで上部は白漆喰塗りの土蔵などの伝統的な和風建築と、壁には大理石のマントルピース、寄木を用いたモザイク模様の床、ステンドグラスをはめ込んだ窓、ガラス製ペンダント照明を用いた、昭和初期独特の洋風建築が複合されています。池泉・築山・滝などを設けた典型的な書院庭園も国内外を問わず高く評価されています。

 米国の日本庭園専門誌にランクイン
米国の日本庭園専門誌「Sukiya Living(数寄屋リビング)/ジャーナル・オブ・ジャパニーズ・ガーデニング」が実施した日本庭園のランキング調査の結果、山本亭の庭園が2019年4位にランクインしました。
このランキングは、全国900カ所以上の旧所名跡、旅館、旧別荘を対象としています。順位が発表された2003年以降、山本亭は7位以内にランクインし続けています。

(この項、「」HPより)

2019年日本庭園ランキング上位5位

1位 足立美術館(島根県安来市)

2位 桂離宮(国有財産)(京都府京都市) 

3位 皆美館(料亭旅館)(島根県松江市) 

4位 山本亭

5位 玉堂美術館(川合玉堂・日本画家)(東京都青梅市)

このランキングは全国900ヶ所以上の名所旧跡を含む庭園を対象に実施されるもので、世界各国の専門家達が真に日本を代表するくつろぎと美の空間を総合的に判断して評価しています。

注:「Wikipedia」によると、このランキングは、「庭と家が一体となった日本的な生活環境」を楽しめることを評価する志向性を掲げており、山本亭はホスピタリティ面も含めた「おじいちゃんの家の座敷で美しい庭を見ながらのんびり過ごすような和みの空間」(大意)が高い好感度を得ている、とのこと。 

さっそく見学させてもらいます。

       落ち着いた居間と庭の雰囲気が見事。

奥行きを感じさせるしつらえ。

                       

まさに評価の通り、のんびりと庭を眺めながら爺さん、婆さん、孫達が語らうそんなひとときを感じさせます。

         濡れ縁から。

洋間。 「鳳凰の間」。 

玄関にある人力車。  

「花菖蒲」。 

「市松人形」がありました(青戸の「松菊」さん)。

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京成高砂駅~京成金町駅。その1。帝釈人車鉄道。柴又。寅さん。

2020-07-03 20:59:36 | 沿線歩き

            今回は、高砂と金町を結ぶ「金町線」沿線歩き。

                                                                           高砂から分岐して金町までの単線。

京成金町線の起源は、柴又 - 金町間で人が車両を押して動かす人車軌道を運行していた帝釈人車鉄道である。1897年(明治30年)に日本鉄道により金町駅が開業し柴又帝釈天への参詣者が増加した。その交通の便を図ろうと1899年(明治32年)に帝釈人車鉄道が設立され、同年内に柴又 - 金町間で営業を開始した。線路は全線複線で、折り返しのため柴又駅・金町駅の終端部はループ線になっていた。客車は1両6人乗りで64両あり、通常1人で押していたという。1907年(明治40年)には帝釈人車軌道と社名を改めた。 
1909年(明治42年)、成田山や柴又帝釈天の参詣客輸送を目的に、京成電気軌道(現在の京成電鉄)が設立された。京成電気軌道は、帝釈天を通り金町への路線を計画していたが、ルートの重なる帝釈人車軌道は、1912年(明治45年)に軌道特許を京成電気軌道へ譲渡した。 
同年、京成電気軌道は後に押上線・本線の一部となる押上 - 市川(現在の江戸川)間と、支線として曲金(現在の京成高砂) - 柴又間を開業させた。翌1913年(大正2年)には柴又 - 金町間の人車の運行を終了し、単線電化で柴又 - 金町間を延伸して電車の運行を開始した。 
2006年(平成18年)12月、京成電鉄は成田空港線開業に伴う踏切遮断時間増加防止策として、本線高架化を待たずに金町線のみ京成高砂駅付近を高架化する工事は2010年7月5日に完成した。

(この項、「Wikipedia」参照)。以下は「葛飾区史」HPより)  

 明治から昭和にかけ、人が動力となって線路上の車両を押す人車鉄道は、全国に29あった。帝 釈人車鉄道は、日本鉄道海岸線(現JR常磐線)金町駅と柴又帝釈天間の約1.5㎞を結ぶ全国で5番目の人車鉄道として、明治32(1899)年 12 月 17 日に開業した。車両は、10人乗りが59両、6人乗りが5両あった。複線で、車両を押す押夫は、普段は4人であったが、60日毎の庚申の日には120人前後の臨時押夫が雇われ、2人で押した。運賃は、片道5銭、往復9銭であった。
 明治45(1912)年4月27日に京成電気軌道と特許権と財産の譲渡契約を結び、大正元(1912)年8月19日に解散した。京成電気軌道は、電化工事の終了まで人車を運行したが、翌年10月2日に人車鉄道は電気による鉄道へと姿を変えた。なお、不要になった車両は、大正4(1915)年11月に開業した茨城県の笠間稲荷人車軌道で再利用された。
 人車鉄道が複線であったことは、絵葉書からも確認できる。
 
帝釈人車鉄道(絵葉書)(明治38〔1905〕年頃)

後ろ姿の人物は、右から押夫・乗客・題経寺(柴又帝釈天)の住職であろうか。帝釈天を見ている貴重な1枚である。

 
明治42(1909)年の地形図に見る軌道

ジオラマ「帝釈人車鉄道」(「寅さん記念館」内)

        

               (「YouTube」より)

(「今昔マップ」より)   「京成電鉄」となり、高砂駅まで接続している(右図)。「金町浄水場」も出来ている。斜めの線が「上水道」道。

さて、現代の金町線。

高砂駅では高架線ですがすぐに地上線に。目の前を通過する電車。

すぐに柴又駅となります。

                  

線路脇の商店街。 

柴又駅。けっこうな乗降客。

何といってもここは、「寅さん」。

フーテンの寅像
寅さんは損ばかりしながら生きている
江戸っ子とはそういうものだと
別に後悔もしていない
人一倍他人には親切で家族思いで金儲けなぞは爪の垢ほども考えたことがない
そんな無欲で気持ちのいい男なのになぜかみんなに馬鹿にされる
もう二度と故郷になんか帰るものかと哀しみをこらえて柴又の駅を旅立つことをいったい何十辺くり返したことだろう
でも故郷は恋しい
変わることのない愛情で自分を守ってくれる
妹のさくらが可哀想でならない
―ごめんよさくら いつかはきっと偉い兄貴になるからな―
車寅次郎はそう心に念じつつ故郷柴又の町をふり返るのである
 1999年8月 山田洋次

「寅さん」で全国に知れわたった葛飾柴又
 映画「男はつらいよ」は、柴又で生まれ育った主人公の「寅さん」こと車寅次郎が、全国各地を旅しながら、柴又に帰ってきてはさわぎを起こす話で、人情味あふれる様子がえがかれています。  1969(昭和44)年に始まり、1995(平成7)年の最終作までに全48作が公開され、映画館で見た人の数は8000万人以上です。この映画と寅さんのセリフ「私、生まれも育ちも葛飾柴又です」により、柴又は全国的に有名になりました。監督の山田洋次さんは葛飾区の名誉区民になっています。

 

案内板。

柴又

正倉院に残る養老5年(721年)「下総国葛飾郡大嶋郷戸籍」に記されている「嶋俣里」(しままたのり)の比定地である。男165人、女205人の42戸370人が居住していたという。以後「嶋俣」の地名は応永5年(1398年)の葛西御厨田数注文に至るまで文書に多数見受けられ、永禄2年(1559年)の小田原衆所領役帳において初めて「柴俣」(しばまた)が登場する。

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「緑のたぬき」の面目躍如。今日は107名。

2020-07-02 19:44:19 | 平和

電信柱が高いのも郵便ポストが赤いのもいいのよ、いいのよほっといて。みんな夜の街が悪いのよ。         

けっして私のせいじゃないわよ、分かっていいるわね。

ムード歌謡。

(日刊ゲンダイ ニュース記者@gendai_newsより)

昼の街の方が人が溢れかえっているのに。夜の街の住人が四六時中、「夜」の街にいるわけでなし。昼も夜も新宿や池袋にばかりたむろしているわけではなし。感染者数も昼の方が多いのに。

特定の地域をやり玉にあげて(悪者にしたてて)、というやり方は、「排除します」と同様のやり口。それで化か(バカ)される方が悪いのかな?

すっかり元に戻った感のある満員電車での感染は皆無?

人はねぐらに帰るもの。そして、家族に・・・。

選挙までは知らぬ存ぜぬで、その後、・・・。

そういえば、昼飯に「緑のたぬき」を食していた!

コメント (1)
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青砥駅~江戸川駅~北総線「新柴又」駅。その7。北総線・新柴又駅。葛飾区と江戸川区の区界。

2020-07-01 21:23:59 | 沿線歩き

                       江戸川河川敷

土手下に旧家? りっぱなおうち。

北総線沿いに歩きます。

沿道は公園、遊歩道。

「新柴又駅」。

新柴又駅は、東京都葛飾区柴又五丁目にある、北総鉄道北総線の駅。葛飾区の最東端の駅。北総線唯一の自社管轄駅。

京成金町線「柴又」駅、京成本線「小岩」駅には、それぞれ歩いて10分ほどかかる。この3つの駅を結ぶ道が「柴又街道」でもあります。

この付近は、葛飾区と江戸川区の区界が複雑に入り組んでいて、分かりにくい地域。 

「オトカツの日常 otonano-katsushika.blogspot.com › blog-post_28」HPを見ると、江戸川区側は区画整理がされ、葛飾区側はされていないので、地図上ではっきり区界が分かるようです。

「葛飾区史」より)

(「今昔マップ」より)

区画整理後のようす。              2005年頃のようす。斜め直線に延びる道が「柴又街道」。

江戸川区側は、田畑の区画整理の完成後、それが戦後、宅地化されていったことが分かる。道も碁盤の目のようになっている。葛飾区側は、宅地化の際にも旧来のあぜ道風の曲がりくねった道がそのまま残っているところがある。

高砂駅に向かう北総線。

「小岩用水」跡の道。南方向。「鎌倉かなえ通り」につながります。

「桜二橋」。

北西に向かう水路。下に水路が残っている?

車両基地への線路。

上が北総線、下が京成本線。

再び高砂駅に戻ってきました。

次回は、金町線(高砂~柴又~京成金町)の沿線を。

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