おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

「横浜市営地下鉄・仲町台駅」~「相鉄線・三つ境駅」。その1。アップダウンの続く道。東方(ひがしかた)農業専用地区。標高は、50M。星谷(ほしがや)。(「中原街道」をゆく。第4日目。)

2025-02-05 19:35:14 | 中原街道

きんかん。 

さて、「中原街道」歩きも4日目。2月2日が雪模様になるかもしれない、という予報でしたので、2月1日(土)に。

晴れ。帰る頃に曇り空になってきました。

街道歩きも、旧道はほとんど不明な箇所が多く、現中原街道をひたすら歩く、という状態になりつつあります。

今でも幹線道路なので、車の行き来が激しい中、起伏の激しい横浜の丘陵地帯を上がったり、下りたりの一日です。

横浜市営地下鉄「仲町台駅」。

いったん広い通りに出ます。

新横浜元石川線(しんよこはまもといしかわせん)。この広い道路の中央分離帯には、高圧電線塔、高木が植えられています。

「桜並木」バス停。「桜並木」は、ここの地名のようです。

周辺案内図。↑の先を左折し、「中原街道(県道45号線)」に復帰します。

※図の上は、南、下が北。

「港北ニュータウン」方向。旧道?

中原街道(旧道)は、港北ニュータウンの造成により失われているようです。

この先、アップダウンの続く道になる。

右手には畑などが。

左手(東)方向を望む。(都筑区桜並木)

「東方(ひがしかた)農業専用地区」。

向かい側には「JA横浜」「新鮮野菜直売所」があります。

新道と合流します。

             横浜市営バス停「東方原(ひがしかたはら)」。

                                       (「今昔マップ」より)

○が合流地点。かつては旧道のみがあった。標高は、50mと記されている。

本格的なアップダウンが始まります。

「星谷(ほしがや)」交差点。標高:25m。

振り返る。道はほぼ直線ですが・・・

左手を望む。ここまでも急坂。

遙か東はどの辺りなのか? 横浜の地理にはまったく明るくないので。

中原街道は尾根の際(それもアップダウンの激しい)を進むようです。

(「同上」より)

星谷には、まとまった集落があったようです。

「関戸」バス停。ここから下りに。

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立春。2月3日。飛び梅・菅原道真。春一番・キャンディーズ。春告鳥・ウグイス・メジロ。雪解け・一茶。旧正月・春節。

2025-02-03 19:14:24 | 二十四節気

                 一重寒紅(ひとえかんこう)

昨日の節分。東京地方は昼頃まで小雨、雪こそ降りませんでしたが、寒い一日でした。日本海側を中心に、しばらくは「立春寒波」が襲ってくるようです。

それでも、これから先、寒の戻りはあっても、「冬来りなば春遠からじ」あるいは「冬は必ず春となる。いまだ昔よりきかず、みず、冬の秋とかえれることを。」とあるように、春の到来、ぬくもりを感じる日も増えてきそうです。
 
そういえば、次第に日が落ちる時間が遅くなってきたような。残照。

西の空。

     けやき。東の空。

そういえば、今日、都立の中高一貫校の入試がありました。塾で鍛えた? 小学生が頑張っての受験です。

旧暦では、一年のはじまりは立春からと考えられていました。「二十四節気」も立春から始まります。そのため、節分や八十八夜など、季節の節目の行事は立春を起点として定められています。梅の花が咲き始め、徐々に暖かくなり、春の兆しがところどころで見られます

※旧暦の1月1日(元旦)・春節は、1月29日でした。具体的には、2025年の旧正月は1月29日から始まります。この日を農暦の1月1日とするため、毎年日付が変わるのが特徴です。

中国では毎年、日本でいう「旧正月」=「春節」の前後7日間ほどが連休になります。2025年の連休期間は、春節前日の1月28日から2月4日までの8日間です。

春節は、特に中国文化圏において非常に重要な祝祭であり、家族の団らんや先祖への感謝を強調する機会です。春節は「春の節目」を意味し、冬が終わり春の到来を祝うことから発展した行事です。旧正月は家族の絆や伝統を重んじ、地域ごとの特有の風習が色濃く反映されるため、各地で異なる独自の祝い方が見られます。例えば、赤い装飾や花火、獅子舞などが一般的に行われ、これらは悪霊を追い払い、幸運を呼び込むためのものとされています。

延べ90億人が移動するとされる中国の「春節。中国国内はもとより、海外へ旅行に出かけます。コロナ禍以前、2016(平成28)年の春節期間の中国人海外旅行者数は600万人とも言われ、日本では中国人旅行客による「爆買い」という言葉が生まれました。2025年も多くの中国人観光客が来日すると予想されます。

「七十二侯」では三分割して

・初侯 2月3日〜2月7日頃 東風解凍 はるかぜこおりをとく

暖かい春の風が、冬の間張りつめていた氷を解かし始める頃。

春先に東から吹いてくる風を「東風」といいます。東風は「こち」とも読みます。

「東風」というと、菅原道真の歌を想起します。道真が太宰府に左遷されたとき、邸の梅の花に別れを惜しんで詠んだと伝わっています。道真は学問の神様として「天神様(天満宮)」として崇められています。

東風吹かば にほひおこせよ 梅の花 主なしとて 春な忘れそ(『大鏡』)

東風吹かば にほひおこせよ 梅の花 あるじなしとて 春を忘るな(『拾遺和歌集』)
 
※飛梅伝説
梅を愛した菅原道真が左遷で都(京都)から太宰府に送られる際、上記の歌を詠んだところ、梅が道真を慕い、一晩で飛んできたというもの。
 
菅原道真は平安時代に活躍した貴族・政治家・学者。醍醐天皇の時代に右大臣まで出世したが、その才能を恐れた左大臣たちに濡れ衣を着させられたあげく、罪人となり、太宰府という地方行政機関で謹慎し、そのまま都(京都)に戻ることなく生涯を遂げる。

その後、道真が亡くなった後、都(京都)では次々と不幸な出来事が起こり始める。疫病が流行ったり、清涼殿に雷が落ちたり、道真の左遷に関わったとされる者たちが次々と亡くなった。当時の人々は「これは道真公の祟りだ」「道真公の怨霊だ」と考えるようになり、畏怖の対象とされるように。

そこで、「菅原道真公の怒りを鎮めるためにお祀りしよう」ということになり、雷を落としたことから「雷神」、「天神」と信じられるようになった。

道真が亡くなった場所にお墓をつくり、そのお墓を祀っているのが現在の太宰府天満宮(福岡)。左遷されたまま都に戻れなかった道真を鎮魂するという意味で祀っているのが北野天満宮(京都)。

時が経ち、人々の記憶から道真の祟りや怨霊のイメージが薄れる一方で、道真は京都で高名な学者だったことも知られており、左遷後も自分の運命を受け入れて勤めに集中したといわれている。山の頂上に登って7日間篭りながら、自分を陥れた者たちへの恨みではなく「世の幸せと自分の無実を訴えるために祈り続けた」というエピソードも広まる。

そのため「恐ろしい祟りの神」から、少しづつ「学問の神」としての信仰へと変わっていった。

また、「天神とは菅原道真公のことである」という教えが広まり、「天神」=「菅原道真公」=「学問の神」という考え方が一般的になった。

(この項、「・なぜ菅原道真公は学問の神様に。亀戸天神社の禰宜(ねぎ)である大鳥居さんにお話をお聞きすることができました」参照)

「春一番」も、春の到来を告げる風。

春一番は、その年の立春から春分(今年は3月20日)までの間の最初に吹く、強い南風です。風を生ぬるく感じるほど、気温が上昇するのも、春一番の特徴です。
 
「春一番」というと、キャンディーズの歌声が浮かんできます。
 
               (「youtube」より)
                
 
穂口雄右作詞・作曲
 
雪が溶けて川になって 流れてゆきます
つくしの子がはずかしげに 顔を出します
もうすぐ春ですね ちょっと気取ってみませんか
風が吹いて暖かさを 運んで来ました
どこかの子が隣りの子を 迎えに来ました
もうすぐ春ですね 彼を誘ってみませんか
泣いてばかりいたって 幸福(しあわせ)は来ないから
重いコート脱いで 出かけませんか
もうすぐ春ですね 恋をしてみませんか
 
 
・次侯 2月7日〜2月12日頃 黄鶯睍睆 うぐいすなく

「ホーホケキョ」と、ウグイスが馴染みのある美しい鳴き声で、春の到来を告げる頃。ウグイスには「春告鳥」という異名があります。その年初めて鳴くことを「初音(はつね)」といいます。

『源氏物語』初音の巻に明石の君から姫君に寄せた歌があります。

年月を松にひかれて経る人に今日鴬の初音聞かせよ

  長い年月、姫君の成長を待ち続けている私に、今日はせめて鶯の初音を聞かせてください(お便りを下さい)。

※その年に初めて聞く「夏告鳥」=ホトトギスの鳴き声は、「忍音(しのびね)」。

江戸時代には、鳴き声から「法、法華経」と聞きなされ、「経読鳥(きょうよみどり)」という異名もつけられました。

ところで、「梅に鶯」という言い方がありますが、「梅にウグイスが来る」ということではありません。梅は春の訪れを告げるように咲き、ウグイスは春の訪れを告げる鳥として共に親しまれました。この二者は待ちわびた春の訪れを告げる理想的な取り合わせなのです。そこで、万葉の昔から「梅に鶯」の組み合わせを歌に込めました。

: 梅の花散らまく惜しみ我が園の竹の林に鴬鳴くも

: 春されば木末隠りて鴬ぞ鳴きて去ぬなる梅が下枝に

: 鴬の音聞くなへに梅の花我家の園に咲きて散る見ゆ

: 我がやどの梅の下枝に遊びつつ鴬鳴くも散らまく惜しみ

ウグイスは鳴き声は聞こえるが、姿を見せることはない鳥なのです。

※ところが、一昨年春、都県境歩きの時にウグイスの姿を見ました。

川崎市麻生区片平。

「ホーホケキョ」とさわやかな声が響いてきます。見上げると、

。ウグイスの姿が。

よく見ると、電線にとまっています。姿を見せない、といわれるウグイスが?

しばらく見ていると、たしかに「ホーホケキョ」「ホーホケキョ」とさえずっています。

都会のウグイスは電線にも、とまるのでしょうか。

        しばらくさえずった後、飛び去っていきました。

※実際、梅の花の蜜に寄ってくるのは、メジロです。「向島百花園」でたくさん梅の花にとまっているのを見たことがあります。

2019年2月。鶯色をした小鳥がたくさん集まっています。メジロ。 

鶯は、ふみなどにもめでたきものにつくり、聲よりはじめてさまかたちも、さばかりあてにうつくしき程よりは、九重のうちになかぬぞいとわろき。人の「さなんある」といひしを、さしもあらじと思ひしに、十年ばかりさぶらひて、ききしに、まことにさらに音せざりき。さるは、竹ちかき紅梅も、いとよくかよひぬべきたよりなりかし。まかでてきけば、あやしき家の見所もなき梅の木などには、かしがましきまでぞなく。よるなかぬもいぎたなき心地すれども、今はいかがせん。夏・秋の末まで老いごゑに鳴きて、「むしくひ」など、ようもあらぬ者は、名を付けかへていふぞ、くちをしくくすしき心地する。それもただ、雀などのやうに常にある鳥ならば、さもおぼゆまじ。春なくゆゑこそはあらめ。「年たちかへる」など、をかしきことに、歌にも文にもつくるなるは。なほ春のうちならましかば、いかにをかしからまし。

(『枕草子』「鳥は」より)

あらたまの 年たちかへる 朝より 待たるるものは 鶯の声  素性法師

春を告げるものには、鳥のほか、魚などもあります。たとえば「春告魚(はるつげうお)」はニシン(地方によっては、メバルなど)。

昔、ニシンは春になると産卵のため大量に浜へ押し寄せることから、“春告魚”と呼ばれていました。

・末侯 2月13日〜2月17日頃 魚上氷 うおこおりをいずる

春の暖かさで湖や川の氷が割れ、氷下で泳いでいた魚が氷の上に跳ね上がる頃。

春になって、積もっていた雪が解(と)け始めることが「雪解(ゆきどけ)」。
雪解は、特に北国の人たちにとっては、たいへん待ち遠しいものです。

雪解というと、小林一茶の句が。

雪とけて村一ぱいの子ども哉(かな)

50歳で永住を覚悟し故郷・信濃国柏原(現在の長野県信濃町)に帰ってきた時の句。
 
暦の上では春を迎えていても、雪国ではまだまだ寒い日が続く。
しかし、降り積もった雪が少しずつ解けはじめて、ようやく春の気配を感じることができる日がやってくる。冬の間、じっと家の中で過ごしていた子どもたちがいっせいに飛び出し、今までどこにこんなにたくさんの子どもがいたのか、と。
 
のもの
野菜

蕗の薹(ふきのとう)。

             (「向島百花園」にて)

雪解けの土の中から顔を出す春の訪れを告げる山菜です。独特の香りとほろ苦さが春の息吹を感じさせ、冬の間にこわばっていた体を目覚めさせてくれます。冬眠から目覚めた熊は、最初に蕗の薹を食べるという話もあります。

そして二十四節気の2番目が「雨水」。2月18日(火)です。
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「東急・多摩川駅」~「横浜市営地下鉄・仲町台駅」。その7。「勝田(かちだ)橋」。坂を上っていく旧道。関屋住宅(国指定重要文化財)。「港北ニュータウン」。「仲町台駅」。(「中原街道」をゆく。第3日目。)

2025-02-02 21:01:19 | 中原街道

中原街道。

右の旧道に入ります。

「勝田(かちだ)橋」。

上流方向。

下流方向。向こうの橋は、新道の橋。

右の坂を上っていくのが旧道のようです。

が、新道の方を進みます。

  新道に合流する旧道?

右手奥に関家住宅表門(長屋門)が見えてきます。

        

関屋住宅(国指定重要文化財)

関家は『新編武蔵風土記稿』にも載る旧家で、もと後北条家に仕えた地侍と伝え、江戸時代には代々名主を勤めたといいます。小高い丘陵に挟まれた袋状の谷戸の中腹に屋敷を構え、主屋を中心として南に表門(長屋門)、東西に土蔵・書院を配し、右後方の小高みに墓地や鎮守があります。・・・東日本で最古の一つに数えられる貴重な民家です。(「解説版より)

都筑区勝田町にのこる関家住宅は、建築当初から市内にある古民家として唯一、国の重要文化財に指定されている建造物です。関家は、戦国時代に小田原北条氏の家臣だったという伝承をもち、江戸時代の初めから勝田村の名主を務めました。江戸後期には代官職も兼務し、屋号「おだいかん」を号しています。関東地方でも最古級と考えられる主屋の建築は17世紀前半にさかのぼり、書院は18世紀前半、表門は19世紀中頃に建てられました。

関東地方で最古とみられる主屋(重文)のほかに、書院・表門が残されており、山林や畑地を含む屋敷構えもほぼ旧状を止めている。多摩丘陵における格式ある農家の構えを知ることができる。

  

(この項、「横浜市」HPより)

※敷地の北側を旧中原街道が通っている。

関家山林、畑地。

右の高台に神社、住宅などが建ち並ぶ。

住宅地内を旧道が進んでいた。ニュータウン建設で消滅?

来た道(新道)を振り返る。

右手に「港北ニュータウン」が大きく広がる。

      

  歩道橋より北東方向を望む。

          通りは「中原街道・新道」。

「中原街道」は突き当りを右折し、さらに左折して旧道へ進む。

.

(「今昔マップ」より)○が港北ニュータウン。↓が旧道。途中、旧道が消失している。

今回は、ここまで。横浜市地下鉄「仲町台駅」を目指します。

駅までの「プロムナード仲町台」。

「横浜市営地下鉄・仲町台駅」。

終点の「あざみ野駅」から東急田園都市線に乗り換え、「半蔵門線」経由で戻ります。

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「東急・多摩川駅」~「横浜市営地下鉄・仲町台駅」。その6。「第三京浜」。「鎌田堂」。旧道。のちめ谷戸。のちめ不動尊。(「中原街道」をゆく。第3日目。)

2025-02-01 21:08:18 | 中原街道

リハビリ通院も今は週1回。だんだん動くようになってくるのが、我が身にひしひしと感じます。

さて、中原街道の旅の報告も6回目。次回で一段落の予定。

緩やかな上り坂。

左手は畑や森。

「第三京浜」のトンネルを抜けます。

トンネルの左手奥に「鎌田堂」。

「横浜市仕切弁」。

上部に横浜市水道局の噴水のマーク。市章と水の字をデザインした仕切り弁の蓋。

右手に旧道が続きます。

                             (現在)弓状の道が旧道。

                             (1880年代)「旧道」が顕著に。街道沿いに家並み。

新道の交差点。「のちめ谷戸」。この付近は、丘陵地帯になっている。

谷戸

丘陵地浸食されて形成された状の地形である。また、そのような地形を利用した農業とそれに付随する生態系を指すこともある。(や、やと)・谷津やつ)・谷地(やち)・谷那(やな)などとも呼ばれ、多摩丘陵三浦丘陵狭山丘陵房総丘陵武蔵野台地下総台地といった関東丘陵地・台地の縁辺部が、長い時間をかけて浸食され形成された谷状の地形。

旧道を進みます。来た道を振り返る。

旧家? 立派な長い塀。

「のちめ不動尊」。

この不動尊は今から約130年前の文久2年 (1864)、のちめの住人が八王子からお不動様を背負ってこの地に祀り、七世代にわたり地域の守り神として護持されて来ました。昔は山の上に鎮座されていましたが、天災の為現在の場所に安置さ れました。この間数回の改築補修がなされましたが、平成元年暮れに二〆・城山講中全員の発意により再建することになりました。

※「のちめ」=「二〆」。

新道に合流。

「宮の下」バス停。

                  右手に「山田(やまた)神社」。※山田は「やまだ」ではなく、「やまた」。

横浜市のマンホール。

デザインはベイブリッジ。4羽の鳥・「ユリカモメ」? 「YOKOHAMA」の文字と、「OSUI」の文字。

農家の軒先に「新鮮野菜直売」。

キャベツが400円と表示されていたので、買って帰ろうか、と。大きな丸ごとなので、諦めました。

「中川中学校」グランド脇に「馬頭観音」。塔婆が供えられている。

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