2020-08-06 付 東京新聞夕刊 上の記事
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歪められた原爆報道─占領期における連合国側記者の活動を中心に─
一部引用・・
報道に対する米政府の対応
さて、京都で捕虜収容所を訪問し(59)、東京に戻ったバーチェットを迎えたものは、GHQ による彼の報道の否定だった(60)。
東京帝国ホテルで 1945 年 9 月 12 日開催された連合国の海外特派員向け記者会見で(61)マンハッタン計画の副責任者のトマス・ファーレル准将は
「原爆の影響でこれ以上死ぬ者が出ることはないだろう」と述べた(62)。
会場に遅れて姿を現したバーチェットが、放射能の影響で被爆地では今でも多くの人が苦しみ、亡くなっていることを指摘すると、
ファーレルは「広島に原子放射能があり得たということは不可能だ。爆弾は空中の高いところで爆発するように仕組まれてあった。
もし、いま現に死んでいるものがあるとすれば、それはそのとき受けた被害のため以外にない」と答えた。
バーチェットがなお食い下がると、ファーレルは「君は日本の宣伝の犠牲になったのではないかね」と言って腰をおろし、
質問には答えないまま記者会見を終了した(63)。
New York Times のローレンス記者は、この記者会見の様子を次のように記している。「ファーレル准将は、秘密兵器の爆発力は発明者が予見するよりも大きかったとしながら、
それが廃墟となった町に危険な残留放射能を生み出したり、爆発時に毒ガスを作り出したりしたことは断固として否定した」(64)。
公にするには問題があり過ぎると考えられた原爆の秘密の側面の中でも、放射能はおそらく最も問題となるものだった(65)。
1943 年 5 月 12 日に発足した「放射能毒性小委員会」は、放射性物質を「毒(poisons)」として認識しており、
ごく少量の放射能でも人体に深刻な影響を及ぼすことを把握していた(66)。
1917 年には、時計の文字盤に塗るラジウム入り夜光塗料に被曝したニュージャージー州の女工の話が米国内の新聞で大きく報道され、
賠償金の請求問題に発展していた(67)。
ビヴァリー・アン・ディープ・キーヴァーは、これら「ラジウム・ガールズ」の話をマンハッタン計画の責任者たちも知っていたと指摘する。
というのも、この事件がマンハッタン計画とその後の原子力産業従事者の健康基準を設定するための医学研究の必要性を呼び起こしたからだという(68)。
当時同盟通信は原爆投下を「野蛮な政府だけが為しうる行為」としてアメリカを非難する海外放送を行っていた。
また、日本政府はヨーロッパの公館を通じて、原爆投下を国際法違反の非人道犯罪として海外に喧伝し、少しでも有利な占領政策を引き出すカードにしようとしていた(69)。
こうした訴えを退けるためには、放射能の影響は否定されなくてはならなかった(70)。
ファーレルの記者会見の内容は世界中に打電され、被爆者はいないことになり、放置される結果を招いた(71)。
ところで、ローレンスが「ファーレル会見」について書いた原稿には編集側の手が加えられていた。
「現地ではクレーターや建物の燃焼以外の理由による土壌の過熱は起きていない。
低空爆破だったニューメキシコの実験で起こったような土壌や器材の溶解もない」という AP 通信の配信からの一段落が挿入されたのである(72)。関連記事1 関係記事2