阿智胡地亭のShot日乗

日乗は日記。日々の生活と世間の事象記録や写真や書き物などなんでも。
  1942年生まれが東京都江戸川区から。

映画「グラン・トリノ」を見ました。

2022年08月23日 | 音楽・絵画・映画・文芸
2009年06月22日(月)「阿智胡地亭の非日乗」掲載

「グラン・トリノ」は70年代にフォード社が製造したセダンの名車の名前である。

 主人公のウォルト・コワルスキーは50年間フォード社の工場で組立工として働き、リタイヤーしてから連れ合いを亡くし、今はやもめ暮らしをしている。
 
彼の息子はトヨタ車の凄腕のデイ―ラーとして成功しているが、剣呑な父親の元に家族共々寄り付かない。

 ウォルトが住む一戸建ての住宅地はアジア人が住みつきだしてからは、隣近所の元の持ち主は家を売り払って皆よその地に去った。

 今や近所に昔の知り合いは誰もいない。隣に越してきた東南アジアの少数民族、モン族の一家とある事件を経て親しくなったウォルトは、

その家の姉弟を通じてモン族の移民たちと付き合いがはじまる。

 そして朝鮮戦争に従軍して以来のアジア人蔑視の感情と他人に対する態度が変化していく。

年齢も人種も性別も越えてウォルトは隣家の姉、スーと人間としての心を通じ合わせ、お互いを信頼しあうようになる。

これ以上はネタバレになるので書けないが、ウォルトにとって一番大切な人が失った「人間としての尊厳」を取り戻してやるために彼は信じられない行動に出る。

彼女はウォルトが自分と弟のためにした行動を思い起こすたびに、それからの人生を自暴自棄にならずに、自尊の心を持って生きていけると思う。

そしてそれがウォルトの願いだと知ったと思う。

その場に臨むウォルトのゆるぎない覚悟(観客は後でそうと知るが)の姿勢は、あたかも悟りを開いた人のようだった。

 映画が始まってしばらくすると、これは実話が下敷きになった映画だと思った。黒人のチンピラとのからみ、モン族のならずもの集団とのイザコザ。

モン族の一般人たちのパーテイ。それぞれの細部がリアルで迫真的な場面が続く。そして映画のラストを見て確信に変わった

人間の頭の想像だけではこんな結末を考えることは出来ないと思った。プロダクションノートを読んだら、やはり脚本家の1人の実体験がベースになっていた。

この映画で感じたことはいろいろあるが、

☆自分が想像する以上に現代のアメリカには、普通の町にアジア系やアフリカ系の人間が暮らしている。

☆ライフルの乱射事件などで銃社会アメリカを意識はするが、こんなに簡単にチンピラやならずもの連中が誰でも、いろんな銃器を持てるとは!と驚くしかない。

自分の頭にある理想的社会のアメリカと、現実のアメリカ社会との幅が大きすぎて自分の理解を越える。

 どんなに乱射事件で沢山の人が死のうと、アメリカライフル協会という存在が反対して米議会でも銃砲取締を強化する法案はつぶされる。

 自分の命はお上に頼らず自分で守るという建国の理念を崩せないというが、豊臣秀吉がやった刀狩り以来、今も一般家庭に刀やライフルや拳銃を置けない日本とはやはり違う。

 ある意味、日本で権力を持つ階層の自らを守る治安維持のためのエネルギーは、アメリカよりはるかに少なくてすんでいるとも言えなくもない。

☆妻の死と本人の死で2回、カソリック教会の葬式のシーンがある。映画「ミリオンダラーベイビー」でもそうだったが、この映画にもカソリックの神父が登場する。

 アメリカでは日常の個人の生活に、宗教が今でもこんなに関与しているのかと前回も今回も思った。イーストウッドは、

おそらく今のカソリック界のありようを批判的に見ながらも、長年にわたり、もっともっと神父が教会が一般人に働きかけて、彼らの悩みに力を貸してやってくれと願っているように思える。

 それにしても死者がその死を、他の誰でもないその人の個の死として扱われ、自国語で聖書の言葉を話されるアメリカ人は幸せだと思った。

聞いてもわからないいつの時代かの中国語でお経を上げられ、参会者の誰も、おそらくお経を上げる坊さんの大半も、

死者も、お経の言葉がわからないまま灰になるわたしら日本のくにたみ。

 これでは身近にも、坊さんがいないお別れの集まりや、葬式が増えるのは当然のような気がするが、正直、この映画を見ていると、

日常の自国語で神父が死者を送り、宗教が社会生活の中で生きている姿を見るのは羨ましいと思った。

☆姉スーの役をやったアーニー・ハーも弟タオの役をやったビ-・バンもアメリカ生まれのモン族〔中国語ではミャオ〔苗族〕〕の人間である。

彼らの祖父母・両親はベトナム戦争でアメリカに協力したため、ベトナム戦争後亡命せざるを得なかったという。そんなことがあったのは初めて知った。



 モン族のチンピラ連中をやった俳優も全てモン族系のアメリカ人を全米でオーデイションで選んだという。かれらの姿と顔を見れば全くわが知人たちや自分の若いときと変らない。

 アメリカはアジア系の亡命者である彼らをこうして受け入れる一面も持っている。しかもキリスト教の一宗派が中心になって引取りに尽力している。

 それにしても英語が喋れない祖母と母親は、子供を間に通訳に入れない限り、これから生涯暮らすアメリカのアメリカ人とコミュニュケーションが取れない。

自分が生まれ育った土地から途中で引き離されて、異郷で生きるのは大変なストレスだともあらためて思った。

参考:ウイキペデイアから。
(ここでいうミャオ族はモン族に同じ。モン族はミャオ族と呼ばれるのを蔑称とし、自らはモン族と名乗る)。

ベトナム戦争時アメリカ政府はインドシナの共産化を防ぐためCIAがミャオ族の一部氏族を雇い、パテート・ラーオと戦わせた。

ミャオ族の別の氏族はパテート・ラーオと共に戦ったので、同じ民族間でも戦った。ベトナムからアメリカの撤退後ラオスは共産化し、

米側についたミャオ族の数万人がタイ領内に流れた。

ベトナム戦争が終わると、アメリカ軍に協力していたミャオ族が難民としてタイに流入した。アメリカ政府などが難民受け入れ発表し、

アメリカ合衆国、フランス、フランス領ギアナへ移住が行われた。現在まで、難民キャンプ生まれの者を含めると10万近く移住した。主な内訳は以下のようになっている。

アメリカ合衆国:40,000人以上
フランス:6000-8000人
中国:2,500人
オーストラリア:500人
カナダ:200人
アルゼンチン:100人

合衆国内ではカリフォルニア州、ミネソタ州、ウィスコンシン州などにコミュニティが存在する。2006年の調査では二世三世含め21万人がアメリカ合衆国に在住している。


◎ イーストウッドは04年の「ミリオンダラーベイビー」以来の映画出演だそうで、歩く後ろ姿に「ローハイド」のロディ・イェーツの面影は残るが、

79歳という実年齢が役柄のウォルトに重なる。イーストウッドはこの映画で映画俳優としての最後の登場になるらしい。同時代にこのような俳優を持てたのは幸せの一つだと思う。

イーストウッドのインタビューから〔一部省略〕
「このウォルト・コワルスキーというキャラクターは、私と同じぐらいの年齢だし、同じような性格だ。でも私はあそこまで気難しくはないし、

あのキャラクターほど、物事に対して否定的でもないよ(笑)。

でもどこかで、自分にも同じような感情がたくさんあることに気づいてもらえると思う。とにかくウォルトは誰とも何のかかわりも持ちたくないし、

自分と違うタイプの人間を特に嫌がるんだ。そこがこのキャラクターの面白いところで、彼はものすごく偏見に凝り固まった人間なんだが、

さまざまな人との関係を通して、そこから抜けだしていく。

「ウォルトは、自分の街から文化が消えていった様子にとても心をかき乱されている。大事な家族を失い、成長した子供たちとは仲が良くない。

そして、近所の変化も気に入らないんだ。彼はミシガン・デトロイト近郊で育った。おそらく彼と同じように、自動車産業に従事する人がたくさんいたはずだ。

また、彼のようなポーランド系アメリカ人の比率がかなり高い。だから、慣れ親しんだ街が(アジア系移民によって)様変わりしていく様子を見ると、彼は気が滅入っていくわけだ」

そんなウォルトの閉ざされた心を開いていくのが、彼の隣に越してきたアジア系モン族のロー一家。

「ハートブレイク・リッジ/勝利の戦場」で、海兵隊の訓練を通じてアフロアメリカンやヒスパニック系の若者との異人種交流を描いたように、

本作でも再び異人種との諍いと交流を描いている。

「脚本のニック・シェンクが、以前働いていた工場にモン族の人たちが大勢いたんだ。そこで彼はモン族の人たちと知り合いになり、

移民である彼らを映画で採り上げるのはいい方法だと思ったわけだ。だからほかの民族文化を描いても良かったのかもしれない。

だが、私はモン族の人たちがとても好きで、彼らをとても尊敬している。

それに、彼らがこのプロジェクトに見せた熱意に対しても深い敬意を抱いているんだ。だって、『いや、映画なんかにかかわりたくない』と

あっさり断ることもできたんだからね。でも自分たち民族を映画で描きたいと思うほど興味を持たれたことを彼らはうれしく思ったんじゃないかな。

彼らはラオス、タイ、ベトナムの高地に住んでいた農耕民族で、たぶん朝鮮半島や中国にもいると思う。だが、彼らはそういう場所を離れ、

ある意味、独立した“国民”のようになった。皮肉なことでもあるね。というのは、そういう(移民の)若い世代は民族の言語を覚えないことが多い。

だが、この映画では若者全員が英語とモン語の両方が話せる。だから、彼らはアメリカの中でさえ、一族の中で言葉を受け継いでいるんだ」

「映画の中で、ウォルトのセリフに、『俺は、甘やかされた、性根の腐った我が子よりも、この人たちともっと共通点がある』というのがある。結局はそういうことだ。

大きな点をひとつあげると、彼の子供たちは離れたところで好きなことをやっており、孫たちはじいさんが死ねば何を相続できるかということにしか関心がない。そこに尽きるね」

ワーナー・オンデマンド配信中 『グラン・トリノ』(予告編)

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宇治の平等院の所有者は?             15年前の今日 2007年8月23日の本ブログに掲載 

2022年08月23日 | 「過去の非日乗&Shot日乗」リターンズ
平等院の鳳凰堂を拝観したとき、見た目が正直あまりに古寂れているのに驚きました。

木造の建物の維持管理は西洋の石造りの建物とは違い、古びていくのが当然ではありますが、なんかみすぼらしく感じられたのです。

現地に立ったとき、中学の教科書で見たときから何となく国の財産のように思い込んでいたので、

早く手を打たないとぼろぼろになりそう、何をしているんだろうと思いました。

しかし調べると平等院は“宗教法人平等院”であって、国とは何の関係もありませんでした。

ビルゲイツまではいかないにしろ、日本にも六本木ヒルズあたりにはRICHな方々もおられるようなので、篤志家が出てこの世界遺産を救って欲しいと思います。

(画像は'06 6月撮影)

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2014年4月3日本ログ掲載

 平等院鳳凰堂:大修理終え、落慶式 拝観3日再開
毎日新聞 2014年 04月02日 12時42分
大修理を終えた平等院鳳凰堂=京都府宇治市で2014年4月2日午前10時、川平愛撮影↑
 平成大修理をほぼ終えた世界遺産・平等院鳳凰(ほうおう)堂(京都府宇治市)で2日、落慶式が営まれた。
修理を始める際、魂を抜く儀式をした本尊・阿弥陀如来坐像(あみだにょらいざぞう)(国宝)に魂を戻す儀式があった。

3日午前9時半から、1年半ぶりに拝観を再開する。

 修理は2012年9月から始まり、平安時代の修理で使ったとみられる顔料で柱などを赤く塗装。

屋根の上の鳳凰像も金箔(きんぱく)を施し、創建時(1053年)の輝きを取り戻した。

最終的に9月末までかかる見通しで、総事業費は約4億円。

内部の拝観が停止された昨年、宇治市を訪れた観光客は394万8000人と、前年より77万5000人減少した。


 拝観再開を記念して、平等院周辺の商店街や京都府茶業会議所などでつくる実行委員会は5日から5月6日までの土日・祝日、JRと京阪の宇治駅前で、

観光客に宇治茶を無料接待(先着1000人)する。【山田英之】

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亀戸の沖縄料理店「琉花」で 島らっきょう や ゴーヤチャンプルを楽しんだ。

2022年08月22日 | 食べる飲む

沖縄料理の味は変わらずおいしかった。チエーンの店は職人やバイトが変わると当然味が変わる。その点 オーナーシエフの店は安心だ。

「琉花」の旨さは以前と同じだった。お通し↓。     酒は泡盛のロック。

豆腐餻(とうふよう)と島らっきょうは絶対 外せない。

 

島魚の天ぷらとミミガーの酢味噌和え

 

田いもの 天ぷら も本当においしい。これも沖縄料理独特のアイテムの一つだ。

ゴーヤチャンプルーを食べ終わると腹が一杯になり ソーキそばは次回に。

亀戸天神への亀戸駅からの往来には必ず店の前を通るが 時間的に開店が夜なので 入店したのは4年ぶりになった。

4年前に行ったときの「琉花」click。

 今後は月に一回くらいは通いそうだ。

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次郎さんと正子さん。白洲家の子供にとって 家中に偉人・英雄なし。

2022年08月22日 | 「過去の非日乗&Shot日乗」リターンズ
2009年06月10日(水)「阿智胡地亭の非日乗」掲載

昔から、「下男・女中に偉人なし」と言う。邸宅で過ごす英雄や偉人の“素”の姿を彼らは全部見るからだ。

ところが子供から見ると、必ずしもそうではないケースもある。子供にも“素”を見せない親もいるからだ。

ところが、最近ブームになった白洲次郎さんの家には、英雄も偉人もエライ人もいなかったらしい。

「運転中汽車と競争してしまう次郎氏、音程のはずれた関西弁の賛美歌を歌う次郎氏、得意顔で届けに行った自作の三脚イスに腰掛け転倒する次郎氏、

妻や娘に車の運転を教える際ついつい口うるさくなってしまう次郎氏、風呂上がりには家の中をパンツ一丁でうろつきたい次郎氏

妻を起こそうと部屋の前の庭で芝刈り機を動かす次郎氏、それで怒った正子さんにスリッパを投げつけられる次郎氏・・・・。

麻雀をせこい手で上がろうとする正子さん、なにかにつけ「私のほうがうまかったわ」と娘と張り合う正子さん、

骨董品に話しかける正子さん、ファックスで原稿を送ることを断固として拒否する正子さん、任侠映画を見たあと壺振りの練習をする正子さん、

娘の嫁入り支度に出掛けたはずが、自分の買い物しかしない正子さん、自身は太鼓を手にし、次郎氏には笛をもたせ、野球中継を見る正子さん・・・・。」

[次郎と正子―娘が語る素顔の白洲家] 牧山桂子 新潮社から

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月曜会は神戸旧居留地の「Bar&Bistro 64」で         10年前の今日 2012年8月21日の本ブログに掲載

2022年08月21日 | 「過去の非日乗&Shot日乗」リターンズ

陽が落ちてからそれまで飲んでいた場所から移動してHalimaoさんこと安田健二さんが最近行くようになった「Bar&Bistro 64」という店に行きました。
店名は居留地時代の地番だそうです。


オープンデッキの卓で夜風に吹かれながら大ジョッキを飲りました。

酒肴はマルゲリータ、ブイヤベーズにリゾットなど。


仕上げは例のごとく三宮ガード下の沖縄食堂『金魚』へ移動。
島ラッキョウで泡盛を一杯飲んでからソーキそばで〆ました。


d

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生誕140年 岡谷美術考古館「宮坂巴堂展」          長野日報

2022年08月21日 | 諏訪便り

2022年8月20日 6時00分            美人画や仏画などを並べ、宮坂巴堂の画業を紹介している特別企画展

岡谷市の岡谷美術考古館は、特別企画展「宮坂巴堂展」を開いている。諏訪市出身で長く岡谷市に住んだ日本画家、宮坂巴堂(1882~1957年)の生誕140年を記念した展覧会。

得意とした美人画をはじめ仏画、歴史画など、淡い色使いで繊細に描かれた日本画30点を展示している。10月23日まで。

同館によると、宮坂巴堂は諏訪市中洲中金子の矢崎家に生まれ、少年時代から諏訪上社の神長官を務めた守矢篁山に絵を習った。

20歳で岡谷市小井川の宮坂家の養子となりその後、東京美術学校(現東京芸術大学)に入学。円山派の川端玉章に日本画を学んだ。

円山派の影響を感じさせる写実的で自然な画風で、生涯を通じ幅広い題材を描き続けた。

企画展は巴堂の遺族から作品を借りて開いた。▽円山派の影響▽仏画▽美人画▽物語と歴史―の四つに分類して紹介。

このうち美人画は、着物の柄や髪型にさまざまな時代を反映させた 優しく上品な女性像を描いている。

幼なじみの岩波書店創業者・岩波茂雄click(1881~1946年)との交流、画業の背景が分かる資料も展示。

「岡谷の日本画界の草分け」(同館)ともいえる巴堂の生涯と画業を振り返っている。

今回作品を貸し出した一人で巴堂の孫の宮坂春夫さん(71)=岡谷市東銀座=は「歌川派の浮世絵や円山派などいろいろな流派を学んだ作品を見てもらえたら」と話し、

同館は「美しく親しみやすい作品を多くの人に楽しんでほしい」と来館を呼び掛けている。

開館時間は午前10時~午後6時。水曜、祝日の翌日休館。問い合わせは岡谷美術考古館(電話0266・22・5854)へ。

 

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ピアニスト 辻井伸行さん(20)の一言   

2022年08月21日 | 「過去の非日乗&Shot日乗」リターンズ
2009年06月11日(木)「阿智胡地亭の非日乗」掲載

「一度だけ目が開くならお母さんの顔が見たい」

☆辻井さんは米国の高名なピアノコンクールで優勝した盲目のピアニスト。

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辻井伸行 in ウィーン ♪ラ・カンパネラ♪ la Campanella

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月下美人の花芽の生育は順調です。

2022年08月20日 | 花・草・木・生き物

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大阪の富田林の友人Yさんから「国葬」と「旧統一教会」に関するSNSが届きました。

2022年08月20日 | ゲストルーム

報告
(butterfly)効果を狙った訳ではありませんが、一人ても多くの国民が意見を伝える時だと感じましたので、生まれて初めて、

自民党本部、自民党府連、富田林自民会派の人に下記意見電話しました。シェアーさせて下さい🙇‼️

1、国葬

①反対

理由
  今国政も自民党も旧統一教会問題で信頼が揺らいでいる。その元凶とも言える安倍さんを国葬にするのは自民党不信に輪をかけるだけ。

②国際的に約束したから止められないと言うのなら、 せめて、個人は勿論、事業者や弱い立場の学校に弔意を求めないで欲しい。

2、旧統一教会

①党としては調査しないと閣議決定したと聞いていますが、党としてこの問題を徹底解明してこそ、自民党の評価は上がる。

②調査すると結果次第では処分しないといけなくなる と言うのが調査しない原因とすれば、今こそ「泣いて馬謖を斬る」時。
 長期的にはこれが一番選択すべき道。


富田林を地盤とする自民党国会議員にも電話しょうと思いましたが、今回の選挙で維新に負け、誰も居ませんので、

一応維新の本部に、国の問題として、同じ内容の意見で電話をしました🙇‼️

追伸

ガンジーは言いました。

 「社会が変わるとは思えないが、自分が社会に飲み込まれない為に、私は、行動するのだ」

私もこの言葉をモットーにしたいと思っています😁‼️

(原文 あなたがすることのほとんどは無意味であるが、それでもしなくてはならない。

それをするのは、世界を変えるためではなく、世界によって自分が変えられないようにするためである)

もう1つマリリンモンローの言葉

「自分が自分らしくなければ、何をしても意味なし」

(原文 Always be yourself. Retain individuality. Listen to the truest part of yourself.

Marilyn Monroe

いつでも自分らしくありなさい。個性を保ちなさい。自分自身の真実の部分に耳を傾けなさい。

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可愛い自分には旅をさせよ   びっくり映像シリーズから      11年前の今日 2011年8月20日の本ブログに掲載

2022年08月20日 | びっくり画像・映像

青年が1年間の旅でたくましく成長する様子を3分にまとめた「FACE TRIP」

アジア一人旅ドキュメンタリー撮影をしている日本人の大野祐輝さんは2008年7月4日~2009年8月12日までの1年強をかけてアジアを旅しました。

この旅の期間中、大野さんは毎日自分の顔を撮影してたのですが、その写真を重ねるように3分弱にまとめた映像が

この「FACE TRIP」です。旅立つ前はあどけなさが残る顔つきだった大野さんですが、日にちがたつにつれて段々と

ワイルドでたくましい顔つきへと明らかに変化していきます。

引用先はこちら

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1960年6月17日 東京に拠点を置く主要7紙の「七社共同宣言 」が 日本の大新聞を「ジャーナリズム」から「大本営報道部」の方向に変えていった。

2022年08月20日 | SNS・既存メディアからの引用記事

(父親の樺俊雄が)『中央公論』60年8月号には「体験的新聞批判」を寄稿し、娘(樺美智子)の死を伝える6月16日の朝日新聞朝刊を例に検証した。

 11版社会面の見出し「学生デモに放水」が、12版では「デモ隊警察の車に放火」にかわる。11版の「まるで野戦病院」は学生の負傷者の惨状を報じるが、

12版でこの記事が消え、13版では「暴力は断固排す」という政府声明が加わる。

   早版と遅版の違いは、第一線の取材記者のなまなましい現地報道が、上級幹部の意図に反するからだと分析している。

 幹部の意図の浸透を示すように、各新聞の論調が政府の主張と軌を一にして暴力追放を強調するようになり、

6月17日朝刊では東京に拠点を置く主要7紙が「七社共同宣言」を掲載。「理由のいかんを問わず、暴力を排し、議会主義を守れ」と呼びかけた。 引用元

安保報道

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
七社共同宣言(朝日新聞1960年6月17日付)

安保報道(あんぽほうどう)とは、戦後日本の安全保障問題に関するマスコミ報道。特に安保闘争における報道を指す。

概要[編集]

第二次世界大戦後、報道機関は戦時中の反省から権力とは一定の距離を置く方針を取った。

日米安全保障条約の改定を巡る報道においても、岸内閣衆議院に警官隊を導入して強行採決を行ったことを批判、人々の大衆行動を加速させた。

ところが、1960年6月15日全学連をはじめとするデモ隊が国会議事堂に突入して機動隊と衝突し、その混乱の中で樺美智子が死亡するという事件が発生すると、

報道各社は態度を一変させ、6月17日に東京に本拠を持つ朝日新聞毎日新聞読売新聞産経新聞日本経済新聞東京新聞東京タイムズ[1]の主要紙7社が

「暴力を排し議会主義を守れ」と題する共同宣言を発表した。暴力から議会主義を守ることは民主主義を守ることであるとして、一切の暴力を排除すべきと宣言する。

さらに全国の地方紙など48社も同調して宣言を紙面に掲げた。各社は宣言後、国会突入事件を主導した全学連などのデモ隊を批判するようになり、逆に政府への批判を控えるようになった。

その後は、翌年に発生した嶋中事件の影響もあり、日本の報道機関は議院内閣制の擁護を名目に過度な政府・体制(=自民党)批判を控えるようになる。

そのため一部から「マスコミは安保で死んだ」と批判された。

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笠信太郎 Wikipediaから部分引用

笠 信太郎(りゅう しんたろう、1900年明治33年)12月11日 - 1967年昭和42年)12月4日)は、日本のジャーナリスト

社長不在時代の朝日新聞で常務取締役論説主幹を務め、信夫韓一郎永井大三トロイカ体制をしいた。

また、昭和研究会メンバーなども務め、政界のフィクサーや、CIA協力者としても活動した。

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東西冷戦朝鮮戦争となっても全面講和論を主張してGHQの反発を買い、GHQは朝日新聞社に笠の追放を要求したが、長谷部忠社長が激しく拒否した。

1960年の第一次安保闘争においては安保条約の改定反対、岸内閣退陣の論陣を張ったが(1960年5月21日付の朝日新聞社説「岸退陣と総選挙を要求す」は1面トップに置かれた)、

6月15日に安保反対デモ隊と警官隊の衝突で東大女子学生が死亡すると、一転して「暴力を排し 議会主義を守れ」という7社共同宣言(6月17日付)を発する中心的役割を担い、

反対運動に冷水を浴びせた。

 

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8月19日に目に留まったSNS・メディアの記事

2022年08月19日 | SNS・既存メディアからの引用記事

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