「裁判当事者を傷つけるネット投稿などをしたとして訴追された仙台高裁の岡口基一裁判官(職務停止中)の弾劾裁判の第15回公判が2月28日、裁判官弾劾裁判所(裁判長:船田元議員=衆・自民=)であった。岡口判事側の最終意見陳述がおこなわれ、岡口判事は「不快な思いをさせた」と当事者への謝罪の言葉を口にした。
裁判は今回で結審し、3月27日に判決が言い渡される予定。」
この件の法的な論点は複数あるが、一番分かりやすいのは「裁判官の市民的自由」の問題だろう。
事案が異なるため同列に論じることは出来ないかのようにも思えてしまうが、参考になるのは、やはり「寺西判事補懲戒処分事件」だろう。
注目すべきは、園部逸夫裁判官の反対意見である。
「・・・裁判官の政治的行為の自由の前提には、自らの政治的行為が許された行為であるか否かを自ら判断する裁判官の自由という観念が存在していることが、見落とされてはならない。園部反対意見の乾いた法実証主義の基底に横たわっているのは、裁判官の政治的行為の自由についての、憲法21条1項とは異る、憲法76条3項を根拠とする、起源の記憶に外ならない。」
「裁判官の良心の問題を論ずるに当って、筆者は、「憲法及び法律」と相剋するものを指すのに用いられてきた良心という言葉を道徳的確信という言葉に置き換えることを提案する。」
「ここに「良心」とは、裁判官の道徳的確信のことではない。法秩序と道徳的確信との抜き差しならない相剋に面して、自己の道徳的確信を如何に処理するのが相当であるかを真摯に判断することが、ここにいう裁判官の「良心」である。」(p163~165)
蟻川先生は、憲法21条1項ではなく、憲法76条3項を根拠として、裁判官における「良心」、すなわち「自己の「道徳的確信」を如何に処理するのが相当であるかを自ら決する判断」の自由を強調する。
そして、性質上、憲法76条3項に基づく裁判官の責任を他者が問うことは許されず、当の裁判官自身の「自己問責」に委ねられているのである(P170)。
裁判官は、何と強力な自由を有していることか!
この点に関し、樋口陽一先生は、(一見すると飛躍が有るようにも思えるが、)次のように述べる。
「「自己の立場にもとづいて法の解釈をしなければなら」ない裁判官は、「まさに(そ)の本来の職権行使の場面において、思想・良心の自由を有しなければならない」と述べるとともに、他方で、「市民としての自由を裁判官であるがゆえの制約によって不当に奪われてはならぬ」という言説との対比において、裁判官は、「裁判官たるゆえにこそ、思想・良心の自由をいっそう保障されなければならない」」(p171~172)
ここに至り、寺西事件と岡口事件がようやくつながる。
裁判官が「職権行使」の場面において思想・良心の自由を有しているためには、(プラーベートな場面における、しかも必ずしも政治的言説に結びつくとは限らない)「市民」としての思想・良心の自由がいっそう保障されなければならない。
後者(「市民」としての思想・良心の自由)こそが、前者(「職権行使」の場面における思想・良心の自由)の基盤を成していると考えられるからである。
・・・岡口判事の弾劾裁判では、どういう判決が下されるのだろうか?