ワーグナーは、この失われてしまった「愛」を、一体どんなものであると考えていたのだろうか?
これを、歌詞に基づいて私流に解釈すると、以下のようになる。
(1)シニフィアンの消失
まず、namenlos(名もなく)、Ohne Nennen(名づけることもなく)というフレーズが目立つ。
これは、私見では、主体/主観から「名」(音韻)=シニフィアンを消失させる作用を表現したものと思われる(やや脱線すると、面白いことに、プッチーニの「トゥーランドット」では、主体/主観=anima を識別するために「名」(nome)が用いられており(君のシニフィアンは?(2))、ワーグナーとは真逆の方向性を示している。)。
そうすると、そこには「間主観」状況が生じることになる。
つまり、小倉紀蔵先生のいわゆる<第三の生命>に近づくことになる(<第一の生命>とアイーダの末路)。
また、見方を変えると、「感覚所与」の代表格である「音(韻)」が消えるということは、「死」に近づくことを意味しているだろう。
だが、「トリスタンとイゾルデ」の「愛」は、これだけにはとどまらない。
(2)自我(主体/主観)の境界の消失
さらに、自我(主体/主観)の境界も消失する(これが有名な「トリスタン和音」によって表現される。)。
シニフィアンの消失は、「混沌としたカオスのような連続体」(丸山圭三郎先生の表現)への回帰を意味するからである。
ただ、その態様は3通り(3段階?)あるようだ。
① 自我の一方的拡張
第1幕第3場のイゾルデの回想シーン:有名な「眼差しのライト・モチーフ」の箇所で、イゾルデは「男の不幸は、私を哀れな気持ちにさせました・・・! 」と語る。
この、「(通常は自分より小さくて弱い)相手を哀れみ、いつくしむ感情」は、われわれ日本人にとっても古代からなじみのあるもので、万葉集でも「愛(うつく)し」とか、「愛(うるわ)し」という風に、「愛」という漢字を用いて表現されている。
これは、最もシンプルな自我の一方的拡張であるが、トリスタンとイゾルデの「愛」にはまだ遠い。
② 自我の相互放棄
「愛の二重唱」が余りに長いので引用しきれなかったが、少し前に以下の歌詞がある。
BEIDE
namenlos
in Lieb' umfangen,
ganz uns selbst gegeben,
der Liebe nur zu leben!
namenlos
in Lieb' umfangen,
ganz uns selbst gegeben,
der Liebe nur zu leben!
(【二人】名も無く愛にかき抱かれ、自らを捧げ尽くして、この愛のためにのみ生きたほうが!)
「自らを捧げ尽く」すというくだりは、例えば、谷崎潤一郎の「春琴抄」にみられるような、やや特殊ではあるが、日本人にとってなじみがないわけでもない「自我の相互放棄」を表現したもののようだ。
だが、「トリスタとイゾルデ」にとっては、これでもまだ不十分である。
③ 自我の相互拡張
「トリスタンは君、ぼくはイゾルデ、もうトリスタンではない!」、「あなたはイゾルデ、トリスタンはあたし、もうイゾルデじゃない!」というセリフの応酬こそは、「自我の相互拡張」を示すもので、私見では、これが西欧における正統な「愛」のイメージである。
この「自我の拡張」は、前述した①、あるいは、<第三の生命>や”マハト”におけるそれのように一方向的なものではなく、あくまで双方向的なものである点が重要である。
この結果、二人は「一つの意識」(ein-bewusst )になる。
もっとも、他の歌詞と平仄を揃えるのであれば、ここは「意識もなくなる」(bewusstlos)とした方が良かったかもしれない。