「このプロダクションの何が素晴らしいかというと、英国の才能ある演出家であるデイヴィッド・マクヴィカーさんが、変わったこと(極端な読み替え)を何ひとつしていない、ということなのです。」
「例えば、(第2幕で)月の明かりが昇って、それがだんだん(地平線に向かって)降りてくる。つまり朝が迫ってくるわけです。トリスタンとイゾルデたちにとって、朝が迫ってくるということは、死を意味するのです。2人が時間を共有できるのは夜が唯一の機会だからです。2人が共にいられる夜の賛歌、それが愛の賛歌でもあり、「愛の死」へと結び付いていくのです。」
「東京・春・音楽祭」のワーグナー・シリーズの今年の演目は、「トリスタンとイゾルデ」である。
ワーグナー・シリーズで上演されていなかった唯一の演目、つまりラスト・ピースということで(二周目)、私などは大変期待している。
ところが、このタイミングで、新国立劇場は、2010/2011年以来約13年ぶりに「トリスタンとイゾルデ」を上演している。
というわけで、今月は「トリスタンとイゾルデ」を2回鑑賞するのだが、1回目は新国立劇場である。
上で引用したように、原典に忠実な演出で、ワーグナーの意図が分かりやすくなっている。
「生」と「死」、「夜」と「昼」という対立だけでなく、「母権制」 VS. 「父権制」という大きなテーマも明瞭に読み取ることが出来る。
「ケルト人の文化とはどのようなものであったのか。彼らの時間概念は自然の営みに即して、円環的で、 成長-死-再生が循環し、またケルトの社会構造は女神崇拝を元とした「母権制社会」が基底にあり、母の居住地が大きな意味を持った。そして名前付けも名前の相続も母系がなしていた。イゾルデの母の 名もイゾルデであったと、中世詩にあるのが興味深い。
この世界では大地の女神(太母神)が支配している。アイルランドでは王はその土地の女神と結婚した人間とされ、彼を夫とした女神は彼に酒杯を手渡す(結婚の象徴的儀式)。 そこで基礎をなすものは、女神とそのパートナー=ヘロスであり、この両者は女祭司とその王の形を取るが、この結婚は民衆に新たな生命をもたらす。これは春と夏に地と海を豊饒にするが、女神は冬に老女神としてヘロスを犠牲に供し、冥府へといざなう。そして彼は次の年の初めに再生する。つまり春におけるイニシエーション、夏の神聖な結婚、秋から冬にヘロスの死と再生という循環である。これはワーグナーの《トリスタン》にも見られ、二人の愛の場であるⅡ幕冒頭のト書きに「明るく心地よい夏の夜」と書かれており、Ⅲ幕はト書きに荒れ果てたイメージが書かれてあるように秋から冬、つまり死(と再生)という予感がなされる。冬のへロスへの死は捧げものとしての犠牲であり、その血によって次の年を豊饒にする。つまり 「死」というものはこの世界観では決定的破滅的なものではなく、宇宙の秩序に基づく新たな状況で、土地と民のための自発的な自己犠牲であり、それは女神によって授けられ、死と再生をもたらす媚薬(愛の林檎)によってヘロスは死と再生を迎え、永遠の若さを保つのである。」
「東京・春・音楽祭」の公式プログラムの解説は、専門家が書くのだから当然とはいえ、よくリサーチがなされていて毎年感心する。
昨年の「マイスタージンガー」のハンス・ザックスに関する解説も、「目からウロコ」で素晴らしかった(設定変更(2))。
今回(というか、コロナで中止になった2020年)の「トリスタンとイゾルデ」の解説(伊東史明先生)も、やはり素晴らしい(出典が書かれていれば言うことなし。)。
「女神」(太母神)は最初から永生が保障されており、他方、「へロス」は「愛」の作用によって「死」と「(再)生」を繰り返すというこのモデルは、明らかに「円環的時間観」(循環史観)を前提としている。
つまり、前回まで見てきたモデルとは真逆の構造を成している。
両者の違いは、① 起点に「神」(例えば、部族形成神話の「英雄」(ヘルト))又は終点に「神」(例えば、「永遠のいのち」)を据えるのか、そうではなく、現世に永遠の「女神」を据えておいて「英雄」(ヘロス)は現れたり消えたりするゲスト扱いとするのか、② 「神」又は「女神」は現世にいるのか、はたまた「天界」にいるのか、という2点にあるように思える。