「穏やかな語り口の,深い愛情に満ちた,鮮やかな抒情の音をひびかせる,吉野弘のエッセンス.」
私見では、このキャッチ・コピーを鵜呑みにするのは危険である。
むしろ、編者(小池昌代氏)による解説:
「言葉がからっぽになる瞬間に、こうしてわたしたちは詩のなかで立ち会うことになる。・・・しかし選んだ言葉が、はからずも日常の真皮をむきだしにした。吉野弘は、そのような力を持つ言葉に、即座に感応する受信機だ。」(p326)
の方が的確である。
3つだけ例を挙げてみる。
① 「実業」(p96)
② 「奈々子に」(p29)
詩人は、我が子に対し、「ひとが ひとでなくなるのは、自分を愛することをやめるときだ。 」などと、「かちとるにむづかしく はぐくむにむづかしい 自分を愛する心」を失わないよう語りかける(就活うつを吹き飛ばす(3))。
裏返すと、詩人は、この世界では、「自分を愛する心」を失わせるような出来事が次々と起こり、中には「自分を愛する心」を破壊しようとする人々すら存在すること、そして、このために「ひとでなくなる」=「生けるしかばね」のようになってしまう人が余りにも多いことを、我が子に教えているのである。
③ 人間の言葉を借りて(p258)
実は、詩人自身も、「生けるしかばね」のような人生を送って来たことが、この詩によって明かされる。
「或る日
三歳になる兄が
眠っているわたしの顔に
小さな透明なビニールの袋をかぶせた
袋は頭をピッタリ包み
わたしは息が出来なくなった
チャンス到来
忽ち気が遠くなり
わたしは人間でなくなった
(中略)
わたしの望みが叶えられ、人間でなくなった日
わたしは思い出していた
以前、人間だったことを
再度の人間稼業はごめんだと心底思っていたことを
わたしの望みが何処かの神のお耳に入ればいいと
思っていたことを」
こうした言葉に出くわすたびに、私は「日常の真皮」を垣間見たように感じ、多大なショックを受ける。
私に限らず、こういう経験をする人は多いだろう。
どなたか、こうした類の詩を除外し、安全な・心の休まるような詩だけをピックアップして、「吉野弘・安全詩集」のようなアンソロジーをつくってくれないものだろうか?