Don't Kill the Earth

地球環境を愛する平凡な一市民が、つれづれなるままに環境問題や日常生活のあれやこれやを綴ったブログです

カイシャ人類学(6)

2022年05月05日 06時30分45秒 | Weblog
 このように、戦後の日本は、国を挙げて世襲化とコニャティークなネットワークの拡大に邁進してきたわけである。
 これは、「カイシャ人類学」の観点からは、さしあたり「「血」の原理による集団の形成・維持・拡大現象」と説明することが出来るだろう。
(政界ではこれに加えて「土」の原理が援用されており、また、財界では一部の大企業における「世襲制復活」のように、「血」の原理が集団の「維持」(つまり存続)に特化して利用(借用?)されているケースもある。)
 但し、ここで、「血」という言葉には十分注意する必要がある。
 まず、当たり前のことだが、「血」は比喩に過ぎず、ここで言う「血」は「ゲノム」を意味するということである。
 親と子を繋いでいるのは遺伝子情報であり、母と胎児が血管でつながっているわけではないし、父母と子の血液型が異なることも普通にある。
 次に、非常に重要なことだが、日本においては、この「ゲノム」は、父のものであっても母のものであってもよいと考えられていることである(それゆえ、コニャティークなネットワーク形成が意味を持つことになる。)。
 「相続のために養子を迎える」という手法は、日本では古くからみられるものだが、ヨーロッパでは完全に排除されている(「家族システムの起源 1 ユーラシア 上(全2分冊)」p228)
 なぜなら、ヨーロッパにおいて、婚姻は、「父と似た子を得る」ための制度であり、相続は、「父」たるに必要な財産、地位等を承継さする制度だからである。
 つまり、婚姻も相続も、父の「形」(敢えて言えばエイドス)を再生・反復させるための制度なのである。
 これは、古代ギリシャにおいて既にそうであったらしい(もちろんプラトンよりずっと古い。)。
 なので、岩波文庫版「ヘーシオドス 仕事と日」の以下のくだりは、おそらく誤訳であろう。

 「しかしゼウスはこの人間の種族をも、子が生まれながらにして、こめかみに白髪を生ずるに至れば直ちに滅ぼされるであろう。父は子と、子は父と心が通わず、・・・」(p32~33)

 ここは「父は子と、子は父と姿が似ず、・・・」とでも訳すべきところで、フランス語訳でも ressemblera となっている(但し、専門家ではないので断言出来ない。どなたかご教示下さい。)。
 この思考は中国でも同様で、中国で「家」と言えば、「男性の系統をたどって同一の先祖を有すると観念された人々全体」を指す(これと区別するため、制度としての日本の”家”を「イエ」と表記するわけである。ちなみに、私は、「カイシャ」という表記を、「イエ」の要素をいくらかでも含む会社について使っている。)。
 つまり、大まかに言うと、ヨーロッパでも中国でも、父は「種」、母は「畑」であり、ゲノムの核心は「種」なのである。
(なので、ヨーロッパ語で「祖国」は全て「父の国」と表現されるし、おそらく中国でも(北朝鮮でも?)そうであろう。ちなみに、プーチン大統領は「国父」と言われているようだ:ウクライナ侵攻で噴出したプーチンへの怒り 停戦に向かうか)。
 こうした発想は、私見では、競馬をやる人ならすんなり理解出来ると思う。
 というのも、競馬の世界においては、競争能力の決定要因は、第一に父であり、第二に母の父と考えられているからである(競馬 血統の見方。初心者でもわかる血統馬券。血統で予想する方法。儲かる種牡馬)。
 これに対し、母は「肌馬」と呼ばれており、その競争能力は一般に重視されない。
 父のゲノムを忠実に発現させることが出来れば、肌馬の役目としては十分なのである。


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