エリーザベトが自発的な「人命供犠」(自殺)をしなければならなかった理由が、タンホイザーによるレシプロシテ原理違反にあったことはひとまず明らかになった(と思う。)。
(全く話は変わるが、)それでは、安倍元首相は、どうして生命を奪われてしまったのだろうか?
結論を言えば、これもやはりレシプロシテ原理が発動し、(エリーザベトの場合と違って)強制的な「人命供犠」(殺人)が、公衆の面前で行われたのである(但し、後述するように、「儀礼」としての最低限の要件を欠いていた点に注意が必要である。)。
「・・・利益集団多元主義はそれ自身幾つもの問題を抱える。代表的な問題は、不透明と腐敗である。利益調整が政治過程の主要なタスクとなるため、そこでエシャンジュとレシプロシテ(取引と自己への利益誘導)の力学が働く。これは透明性という政治の大原則と衝突する。日本では相対的に市民社会の透明性が低い。すると市民社会内部の不透明な部分が利益団体を通じて直接政治過程に上がってしまう。
多元主義システムを構成する利益団体の一つに宗教団体がある。・・・」
カルト集団の問題を把握するには、まず、日本の政治システムと「国家」の欠陥(不存在・不成立)について押さえておく必要がある。
このブログでしつこいほど論じている「日本」という問題、つまり、「国家」が存在しない状況において、「国庫」をはじめとするリソースを巡って際限なくエシャンジュとレシプロシテの応酬が繰り広げられる現象のことであり、木庭先生は、これを「利益集団多元主義」の抱える問題として指摘している。
もっとも、利益集団多元主義(宗教団体もアクターの一つ)は、アメリカを筆頭として欧米諸国でも広くみられるわけであり、違うのは、政治システムと「国家」が存在するかしないかという点である。
政治システムも「国家」も存在しない日本の利益集団多元主義においては、分配すべきリソースが乏しくなった1970年代半ば以降、「改革」の名の下に、「多元的頂点をコンフォルミスムによって和合させ、皆でつるんでどこかをつるし上げる、そこをむしって得た利益を山分けする」という「略奪メカニズム」が確立し、しかも、「戦前の「満州経由のテロリスト集団」がしたように、この「略奪メカニズム」に外から殴りこむように参入するというパターン」が復活してしまった(「」で括った表現は全て木庭先生によるもの)。
当然のことながら、国庫だけではなく、ほとんどの金融機関の資金もターゲットとなった。
「考査(検査)資料を読むかぎりにおいては、残念ながらほとんどの金融機関で地上げを契機として、フロント企業との接触ないし癒着が報告されていた。真っ白な金融機関はほとんどないというのが正直な印象だった。
・・・「全ての金融機関というわけではないですよ。フロント企業との関係が皆無の金融機関もちゃんとあります」との反論を受けた。」(p72~73)
何と、フロント企業と接触していない「白い」金融機関は、警視庁信用組合と大阪府警察信用組合だけだったのである!