「【第2幕】
ヴァルトブルク城、歌の殿堂の大広間でタンホイザーはエリーザベトとの再会を喜び、歌合戦に参加することとなる。領主ヘルマンからの歌合戦の課題は「愛の本質」を明らかにすること。かつての同僚ヴォルフラムは愛を清らかな"奇跡の泉"にたとえ、他の騎士たちも精神的な愛を讃える歌を歌う。タンホイザーはこれに反論し、愛の本質は官能の愛であると〈ヴェーヌス賛歌〉を歌い上げたため、ヴェーヌスベルクにいたことが人々に露見してしまう。騎士たちはタンホイザーを殺そうとするが、エリーザベトは「信仰の勇気が、この人にも与えられますように」と願う。このとりなしによって領主ヘルマンは、タンホイザーにローマ法王のもとへ贖罪の巡礼に出るよう命じるのだった。 」
ヴァルトブルク城、歌の殿堂の大広間でタンホイザーはエリーザベトとの再会を喜び、歌合戦に参加することとなる。領主ヘルマンからの歌合戦の課題は「愛の本質」を明らかにすること。かつての同僚ヴォルフラムは愛を清らかな"奇跡の泉"にたとえ、他の騎士たちも精神的な愛を讃える歌を歌う。タンホイザーはこれに反論し、愛の本質は官能の愛であると〈ヴェーヌス賛歌〉を歌い上げたため、ヴェーヌスベルクにいたことが人々に露見してしまう。騎士たちはタンホイザーを殺そうとするが、エリーザベトは「信仰の勇気が、この人にも与えられますように」と願う。このとりなしによって領主ヘルマンは、タンホイザーにローマ法王のもとへ贖罪の巡礼に出るよう命じるのだった。 」
「僕は大胆に,それに,歓喜の源に近づく,何のためらいもそこには混じらない。この泉は涸れることがないのだ,我が欲望に燃え尽きるおそれがないのと等しく。」(p75)
「タンホイザー」は、「パルジファル」と同じく、「人身供犠」がテーマのオペラであることを押さえれば、ストーリーが理解しやすいと思う。
設定について言うと、「ヴェーヌスベルク」=「聖界(生前・死後の世界)」、「ヴァルトブルク」=「俗界(現世)」という風にみる。
そうすると、芸術家であるタンホイザー(=ワーグナーの分身)の”罪”の原因が分かる。
それは、聖界に”無媒介に”アクセスし、しかもその成果物(=歌)を”対価なしに”俗界に持ち込んだことである。
裏を返すと、聖界にアクセスする際には何らかの”媒介物”が必要であり、聖界から成果物を受け取るためには何らかの”対価”が必要ということになる。
要するに、タンホイザーは、réciprocité(レシプロシテ:相互依存、互酬性)の原理 に完全に違反しているのである。
この辺のところは、「供犠」(モース、ユベール)の一節が要約してくれている。
"La victime se moule sur la formule votive, s'incorpore a elle, la remplit, l'anime, la porte aux dieux, en devient l'esprit, « le véhicule » "(p57)
「犠牲獣は誓願の方式にかたどられ、この方式に組み込まれていき、方式の要求を達成し、それに生気を与え、それを神にまで高めていき、その霊、「媒介物」となるのである。」(訳:小関藤一郎)
タンホイザーの”罪”を贖うべく、エリーザベトは”犠牲”(sacrifice)(兼”媒介物”)となり、その命を”対価”として捧げる。
ここでは、彼女の身体が”媒介物”であり、”対価”の実質は彼女の生命である。
なので、「人身供御」というよりも、「人命供犠」という方が適切だろう。