Don't Kill the Earth

地球環境を愛する平凡な一市民が、つれづれなるままに環境問題や日常生活のあれやこれやを綴ったブログです

命と壺(1)

2023年02月06日 06時30分00秒 | Weblog
【第2幕】
ヴァルトブルク城、歌の殿堂の大広間でタンホイザーはエリーザベトとの再会を喜び、歌合戦に参加することとなる。領主ヘルマンからの歌合戦の課題は「愛の本質」を明らかにすること。かつての同僚ヴォルフラムは愛を清らかな"奇跡の泉"にたとえ、他の騎士たちも精神的な愛を讃える歌を歌う。タンホイザーはこれに反論し、愛の本質は官能の愛であると〈ヴェーヌス賛歌〉を歌い上げたため、ヴェーヌスベルクにいたことが人々に露見してしまう。騎士たちはタンホイザーを殺そうとするが、エリーザベトは「信仰の勇気が、この人にも与えられますように」と願う。このとりなしによって領主ヘルマンは、タンホイザーにローマ法王のもとへ贖罪の巡礼に出るよう命じるのだった。

僕は大胆に,それに,歓喜の源に近づく,何のためらいもそこには混じらない。この泉は涸れることがないのだ,我が欲望に燃え尽きるおそれがないのと等しく。」(p75)

 「タンホイザー」は、「パルジファル」と同じく、「人身供犠」がテーマのオペラであることを押さえれば、ストーリーが理解しやすいと思う。
 設定について言うと、「ヴェーヌスベルク」=「聖界(生前・死後の世界)」、「ヴァルトブルク」=「俗界(現世)」という風にみる。
 そうすると、芸術家であるタンホイザー(=ワーグナーの分身)の”罪”の原因が分かる。
 それは、聖界に”無媒介に”アクセスし、しかもその成果物(=歌)を”対価なしに”俗界に持ち込んだことである。
 裏を返すと、聖界にアクセスする際には何らかの”媒介物”が必要であり、聖界から成果物を受け取るためには何らかの”対価”が必要ということになる。
 要するに、タンホイザーは、réciprocité(レシプロシテ:相互依存、互酬性)の原理 に完全に違反しているのである。
 この辺のところは、「供犠」(モース、ユベール)の一節が要約してくれている。

"La victime se moule sur la formule votive, s'incorpore a elle, la remplit, l'anime, la porte aux dieux, en devient l'esprit, « le véhicule » "(p57)
犠牲獣は誓願の方式にかたどられ、この方式に組み込まれていき、方式の要求を達成し、それに生気を与え、それを神にまで高めていき、その霊、「媒介物」となるのである。」(訳:小関藤一郎)

 タンホイザーの”罪”を贖うべく、エリーザベトは”犠牲”(sacrifice)(兼”媒介物”)となり、その命を”対価”として捧げる。
 ここでは、彼女の身体が”媒介物”であり、”対価”の実質は彼女の生命である。
 なので、「人身供御」というよりも、「人命供犠」という方が適切だろう。
 

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