木庭顕『ローマ法案内──現代の法律家のために』
「人文主義を可能とする基礎、端的に言えば古典語の能力、が完全に失われた以上、法律家に多くを望みえない状況であり、この状況は数百年は続くと見られる。これは初めてのことではなく、ローマ帝国末期以降や人文主義後を彷彿とさせる。」
「ギリシャ・ローマの遺産も人文主義も共に、現実を鋭く見つめることと問題への根底的な接近、道具概念の根本的な革新、を指示する。伝統芸能を守るが如きは基本に反する。現に、時代錯誤は軽侮の念をひたすら増長させるばかりである。」(p229)
政治や法が成立しない、あるいは成立しても崩壊してしまうという現状にどう対処すべきかということは、少なくとも法律家にとっては必ず考えるべき問題だろう。
そこで、政治と法の発生の条件を追求しようとするのであれば、古代ギリシャとローマの文献に当たるしかないというのが、おそらく常識的な考え方だろう。
だが、「現実を鋭く見つめる」実務家が、「古典語の能力」を有しているというのは、極めて稀だろう。
実際、私はそのような人を見たことがない。
「数百年の闇」というのは、悲しいながら現実のものになりそうである。
「人文主義を可能とする基礎、端的に言えば古典語の能力、が完全に失われた以上、法律家に多くを望みえない状況であり、この状況は数百年は続くと見られる。これは初めてのことではなく、ローマ帝国末期以降や人文主義後を彷彿とさせる。」
「ギリシャ・ローマの遺産も人文主義も共に、現実を鋭く見つめることと問題への根底的な接近、道具概念の根本的な革新、を指示する。伝統芸能を守るが如きは基本に反する。現に、時代錯誤は軽侮の念をひたすら増長させるばかりである。」(p229)
政治や法が成立しない、あるいは成立しても崩壊してしまうという現状にどう対処すべきかということは、少なくとも法律家にとっては必ず考えるべき問題だろう。
そこで、政治と法の発生の条件を追求しようとするのであれば、古代ギリシャとローマの文献に当たるしかないというのが、おそらく常識的な考え方だろう。
だが、「現実を鋭く見つめる」実務家が、「古典語の能力」を有しているというのは、極めて稀だろう。
実際、私はそのような人を見たことがない。
「数百年の闇」というのは、悲しいながら現実のものになりそうである。