(ティマイオスがソクラテスに対して)「宇宙を生み出した父は、それが動き生きていて、永遠なる神々の神殿になっているのを認めた時、喜んだ。そして上機嫌で、もっとよくモデルに似たものに仕上げようと考えた。そこで、モデルそのものは、永遠なる生きものなので、万有をもできるだけそのようなものに仕上げようとした。ところで、永遠であることがその生きものの本性だったが、生み出されたものに永遠と言う性質を完全に付与することはできなかった。それにもかかわらず、神は、永遠を写す何か動く似像を作ろうと考えて、宇宙を秩序づけるのと同時に、一つのうちに静止している永遠を写す、数に即して動く不滅のその似像を作った。
この似像をわれわれは「時間」と名づけたのである。」(p54)
「時間は宇宙と共に生成したのだが、それは両者が共に生み出されたように、いつか宇宙と時間の解体が起こるとすれば、その時、両者が共に解体するためでもある。そして、時間が永遠をモデルとして生じたのは、宇宙ができるだけそのモデルに似るためだったのである。モデルは全永遠にわたってあるものだが、他方、宇宙は全時間にわたって、終始、あったもの、あるもの、あるだろうものだからである。」(p56)
(アテナイからの客人)「人間の種族は、自然の恵みにより、ある意味では不死にあずかっており、ひとはすべて、その不死への欲求を、生まれながら、さまざまのかたちにおいて持っている。たとえば、名の知られた者となり、死後無名のまま横たわるまいとすることも、そうした不死への欲求である。したがって、人間の種族は、時間全体と同年齢のものであり、時間の全体とたえず歩みを共にしているし、将来もそうしつづけるであろう。それというのも、人間の種族は、次のような仕かたによって不死なものとなっているからである。つまり、つぎつぎと子供を残して、〔種族としての〕同一性を永遠に保ちながら、出産によって不死にあずかっているからである。」(p286)
「以上を、結婚についての勧告の言葉としましょう。子孫を残し、つねに自分に代わって神に仕えるものを提供することによって、永遠のいのちに参与すべきだという先の言葉にあわせて。」(p372)
「饗宴」や「パイドン」の時代(中期)からすると、最後期のプラトンは、まるで人が変わったかのようである。
まず、「ティマイオス」では、「宇宙を生み出した父」が突然登場する。
これが、かの有名な「デミウルゴス」である。
「デミウルゴス」は男性であり、「父」である!
また、「時間観」については、「永遠」の似像が「時間」であるという、とても分かりにくく矛盾めいた主張が出て来る(「永遠なる生きもの」という言葉に至っては、完全な矛盾というほかない:道具概念 VS. 道具概念(8))。
これは、岸見先生によれば、
「宇宙は一のうちに静止している永遠の性質を完全に付与されなかったので、それはまた時間がその中において現れる多という性質を併せ持たなければならない」(p55)
ということらしい。
恐ろしいのは最後の言葉で、「宇宙」が解体する時に「時間」も解体する。
そうすると、この「時間観」は、「直線的時間観」ではあるけれども、進歩史観であるとは限らず、「解体史観」にもなりうるということになる。
「法律」に出て来る「アテナイからの客人」が述べる意見は、研究者がほぼ一致して認めるとおり、プラトンの意見と見てよいらしい(p801)。
そして、そこでは、もはや「饗宴」でのディオティマやソクラテス、「パイドン」でのソクラテスが述べた死生観とはおよそ異なる死生観が登場する。
まず、目立つのは、「種族」(要するに集団)という観点が唐突に出てくるところである。
「種族」の概念については、本来は原典を確認すべきところなのだが、残念ながら私はギリシャ語が読めない。
そこで、あくまで推測ではあるが、同じ巻(第四巻)の他の箇所(p251)で「ゴリュテュネ族」(「ゴリュテュス」は地名)が「種族」の一つとして挙げられている点に着目すれば、「種族」とは、おそらく「その社会構造に枝分節の性質を含む社会が単純にテリトリー区分の制度を作った場合のその組織」(部族社会と軍事化と精神分析)、すなわち「部族」の連合体というくらいの意味なのではないだろうか?
しかも、これが、現世において、「同一性を保ちながら、・・・不死にあずか」るというのである(すると、「天界」は一体どこに行ったのだろうか?)。
決定的なのは、最後のくだりで、私は「あっー!」と声をあげそうになった。
「永遠のいのち」というフレーズが、パウロと同じだからではない(<第二の生命>中心主義)。
プラトンがパウロの先駆者である点は、既に言い古されたことであり、今更驚くにあたらない。
そうではなく、ここを読むと、プラトンが最晩年において、クーランジュが描写した古代ギリシャの土着宗教=竈神信仰に回帰してしまったように思えるからである。
ここからプーチン大統領の「集合的霊魂不滅説」(永遠に無垢な・・・)までは、ほんの数歩の距離にありそうだ。
プラトンも、部族社会の原理を超克することは出来なかったのだろうか?
・・・こういう風に見てくると、ヨーロッパの大部分や中国などは、「婚姻」を、
「「直線的時間観」を前提として、「神」を起点とした「父」のシニフィエを承継する、あるいは、「父」のシニフィエを継承しながら「神」に接近・到達しようとするシステム」
と位置づける文化圏と見ることが出来そうである。
ところが、これと正反対の「婚姻システム」も成立しうる。
その代表例が、ケルト文化である。