田んぼに入った足の感覚がまだ残っている。
田んぼについてさっくりじっくり考えてみました。
電車から風景を観て、田んぼが広がっていたら
「美しい大自然!」なーんて思う。ていうか思っていました。
でも実際に入ってみるとそれは自然ではなかった。
それは羊の手仕事で言うと、羊から刈り取られた原毛フリースと編みあがったセーターくらい違う。(もっとかも。)
元は自然から頂いているというか預かっているものだけれど
どことして自然のままに任せている、放置されている所というものがない。
田んぼに水を入れるときには田んぼのへりに粘土の泥を塗り上げて行くのだそう。
それも田んぼの全部の周囲をするのではなくて決まった場所だけ。
ながーく続くその面をきれいに塗り上げてある。その高さや厚みもきっと配慮されている物。
中の水も水路を整備して水の管理をして調節して満たしてある。
土は言うまでもない。あれは自然なんかじゃない。
手触り、色、温度、どれも特別に用意された特別なものだった。
お米のために。
田んぼに入った感触がなんとも懐かしく気持ちの良い物でなんと表現したらいいのか、この感覚はどこで味わった物かと考えてみたけどなかなか思いつかない。
なんとか考え付いたのが、たぶんだけど「子宮の内壁」だ。
フカフカで暖かい柔らかいところに苗は着床する。そして守られてすくすくと大きくなるのだ。
これが人の手によって創られている。
田んぼとは自然なんかじゃない、職人の磨かれた技によって作られた生きる作品なのだ。
そしてそれはとてつもなく大きい。
あの鏡のように広がる大きな田んぼ。
日本中に広がる田んぼを全部こんな風に手入れしようと思ったらそれは大変な仕事だ。大空の下で様々な天候の元で、いろんな要素を考慮しながら繊細に地道に創り上げていく作品。
この稲作を確立してきた日本人の几帳面さと辛抱強さはたいした物だ。
まだ苗を植える前の稲作のほんの片隅に触れただけでも圧倒されると言うのに
私達が毎日食べているあの白い粒々にはどれだけのエネルギーが含まれているのだろう。
一粒のお米には7人の神様が宿ると言うけれど。
人間って、日本人ってすごいと思う。
田んぼについてさっくりじっくり考えてみました。
電車から風景を観て、田んぼが広がっていたら
「美しい大自然!」なーんて思う。ていうか思っていました。
でも実際に入ってみるとそれは自然ではなかった。
それは羊の手仕事で言うと、羊から刈り取られた原毛フリースと編みあがったセーターくらい違う。(もっとかも。)
元は自然から頂いているというか預かっているものだけれど
どことして自然のままに任せている、放置されている所というものがない。
田んぼに水を入れるときには田んぼのへりに粘土の泥を塗り上げて行くのだそう。
それも田んぼの全部の周囲をするのではなくて決まった場所だけ。
ながーく続くその面をきれいに塗り上げてある。その高さや厚みもきっと配慮されている物。
中の水も水路を整備して水の管理をして調節して満たしてある。
土は言うまでもない。あれは自然なんかじゃない。
手触り、色、温度、どれも特別に用意された特別なものだった。
お米のために。
田んぼに入った感触がなんとも懐かしく気持ちの良い物でなんと表現したらいいのか、この感覚はどこで味わった物かと考えてみたけどなかなか思いつかない。
なんとか考え付いたのが、たぶんだけど「子宮の内壁」だ。
フカフカで暖かい柔らかいところに苗は着床する。そして守られてすくすくと大きくなるのだ。
これが人の手によって創られている。
田んぼとは自然なんかじゃない、職人の磨かれた技によって作られた生きる作品なのだ。
そしてそれはとてつもなく大きい。
あの鏡のように広がる大きな田んぼ。
日本中に広がる田んぼを全部こんな風に手入れしようと思ったらそれは大変な仕事だ。大空の下で様々な天候の元で、いろんな要素を考慮しながら繊細に地道に創り上げていく作品。
この稲作を確立してきた日本人の几帳面さと辛抱強さはたいした物だ。
まだ苗を植える前の稲作のほんの片隅に触れただけでも圧倒されると言うのに
私達が毎日食べているあの白い粒々にはどれだけのエネルギーが含まれているのだろう。
一粒のお米には7人の神様が宿ると言うけれど。
人間って、日本人ってすごいと思う。