妹が産褥期なので実家にいる。
今日は母が用事で出かけるので、私がお世話の当番だ。
お世話と言っても主に上の子と遊ぶ。
じっと一緒にいても仕方がないので、よさそうな手仕事を見繕って持っていく。
やまんばさんに頂いた(そう、これも。いろいろ頂いています。ありがとうごさいます!)篭に和紙を貼ったものがある。
やまんばさんのお母様が書かれた手習い帳を貼ってあるらしい。
これに柿渋を塗ろう。
朝の天気予報では晴れマークが一日だったから丁度いい。
何回でもどんな風にでも塗っていいし、ちょっとやそっとで破けないので小さな子でも一緒に楽しめる。
彼はとりあえず今いたずらっ子盛り。英語では「テリブル・ツー(めちゃくちゃ2歳)」って言われるほどのお年頃。
私がベランダで塗っていたら、思ったとおり近くに来てじっと観ている。
筆を渡したらめちゃ塗り始めた。楽しそう。
一回塗ったところはこんな感じ。

塗ったら部屋に入ってしばらく過ごして、また乾いた頃に塗る、と言うのを何回も繰り返す。
そのうちに照りが出てきていい感じになってきた。
妹が言う「おせんべいみたい!」
素敵に出来た。大事に使おう。

その合間に前に途中まで作ってあったルームシューズを最後まで縮絨させる。
それも近づいてきて一緒に踏んだり蹴ったり、広げてどんな風になっているのか確かめたり。
飽きたら自分で遊んでいる。

それを見て思い出したけど、私がこんなに手仕事をしているのは子どもたちのせい、もといお蔭だ。
子どもが生まれるまでは私はずいぶんと知的要素の高い日常生活を送っていた。
それが子どもが生まれたら思うように行かない。
新聞を広げたら必ず近寄ってきて新聞の上に乗る。本を開いたら取り上げて噛みまくる。
書く事もままならぬ。
体はじっとしていて頭の中で遊ぶと言うのが子どもには不愉快らしかった。
それが昔のお母さん達が家でやっていたような「見てわかる生産的な仕事=手仕事」をしていたら子どもたちは穏やかだった。一緒に触ってみたりやってみたり、飽きたら自分で静かに遊んでいた。(自分で静かに深く遊ばすための秘策も実は別にある。)
頭と体がつながっていて体がまめまめしく動いている、と言うのが子どもたちのお気に入りだ。
そして身の回りにそういう仕草があることで、子どもたちは人の生活のいろんなことを吸収するのではないかと思い、いっそう手仕事をする機会が増えた。
それが高じて今の生活だ。
そのお蔭で今や難しい漢字が出てくる本を敬遠してしまうほど、私の脳みそはフワッフワのツルッツルである。
子どもは大きくなって今や彼らが知の海におぼれそうになってもがいているような毎日。
私はそのまま手仕事づくし。
不思議なもの。
「お母さんの作ったものは着ない。手作りしない。 雑誌に載っている買った物が大好き」な娘が今日の柿渋の篭を見て「においがしそう!」と言った。
残念!今回は無臭柿渋でした!
彼女は「柿渋のにおいを知っている女子高生」だった。
そのギャップが笑えた。
今日は母が用事で出かけるので、私がお世話の当番だ。
お世話と言っても主に上の子と遊ぶ。
じっと一緒にいても仕方がないので、よさそうな手仕事を見繕って持っていく。
やまんばさんに頂いた(そう、これも。いろいろ頂いています。ありがとうごさいます!)篭に和紙を貼ったものがある。
やまんばさんのお母様が書かれた手習い帳を貼ってあるらしい。
これに柿渋を塗ろう。
朝の天気予報では晴れマークが一日だったから丁度いい。
何回でもどんな風にでも塗っていいし、ちょっとやそっとで破けないので小さな子でも一緒に楽しめる。
彼はとりあえず今いたずらっ子盛り。英語では「テリブル・ツー(めちゃくちゃ2歳)」って言われるほどのお年頃。
私がベランダで塗っていたら、思ったとおり近くに来てじっと観ている。
筆を渡したらめちゃ塗り始めた。楽しそう。
一回塗ったところはこんな感じ。

塗ったら部屋に入ってしばらく過ごして、また乾いた頃に塗る、と言うのを何回も繰り返す。
そのうちに照りが出てきていい感じになってきた。
妹が言う「おせんべいみたい!」
素敵に出来た。大事に使おう。

その合間に前に途中まで作ってあったルームシューズを最後まで縮絨させる。
それも近づいてきて一緒に踏んだり蹴ったり、広げてどんな風になっているのか確かめたり。
飽きたら自分で遊んでいる。

それを見て思い出したけど、私がこんなに手仕事をしているのは子どもたちのせい、もといお蔭だ。
子どもが生まれるまでは私はずいぶんと知的要素の高い日常生活を送っていた。
それが子どもが生まれたら思うように行かない。
新聞を広げたら必ず近寄ってきて新聞の上に乗る。本を開いたら取り上げて噛みまくる。
書く事もままならぬ。
体はじっとしていて頭の中で遊ぶと言うのが子どもには不愉快らしかった。
それが昔のお母さん達が家でやっていたような「見てわかる生産的な仕事=手仕事」をしていたら子どもたちは穏やかだった。一緒に触ってみたりやってみたり、飽きたら自分で静かに遊んでいた。(自分で静かに深く遊ばすための秘策も実は別にある。)
頭と体がつながっていて体がまめまめしく動いている、と言うのが子どもたちのお気に入りだ。
そして身の回りにそういう仕草があることで、子どもたちは人の生活のいろんなことを吸収するのではないかと思い、いっそう手仕事をする機会が増えた。
それが高じて今の生活だ。
そのお蔭で今や難しい漢字が出てくる本を敬遠してしまうほど、私の脳みそはフワッフワのツルッツルである。
子どもは大きくなって今や彼らが知の海におぼれそうになってもがいているような毎日。
私はそのまま手仕事づくし。
不思議なもの。
「お母さんの作ったものは着ない。手作りしない。 雑誌に載っている買った物が大好き」な娘が今日の柿渋の篭を見て「においがしそう!」と言った。
残念!今回は無臭柿渋でした!
彼女は「柿渋のにおいを知っている女子高生」だった。
そのギャップが笑えた。