明日できること今日はせず
人形作家・写真家 石塚公昭の身辺雑記
 



午前中、パリのシャトレ座をネットで検索していた。ロシアからディアギレフ率いるバレエ・リュスが、ここで第一回公演をしたのが、丁度百年前の1909年である。大変な騒ぎになり、以後音楽、絵画、ファッションと、世界に多大な影響を与えることになる。何回か改築工事がされたようだが、どの程度の改築であろうか。そのあたりも調べないとならないが、様子がそれほど変っていないのなら、ここを撮影し、1909年の『薔薇の精』1912年の『牧神の午後』などの舞台装置を再現して合成し、客をすべて当時の服装に変え、客席のジャン・コクトーの目線から、ニジンスキーの大ジャンプを描いてみることも可能である。 永井荷風が帰国したのが1908年。滞在中なら観に行ったのは間違いなく、ニジンスキーの飛翔について名文を残していたに違いない。私なら、荷風を客席に坐らせ、荷風の眼鏡のレンズに、ニジンスキーを映り込ませることも可能である。1910年ダンヌッツィオが書いた『聖セバスティアンの殉教』で踊ったのはイダ・ルビンシュタインだが、私なら三島由紀夫を客席で、感動で打ち振るわせることも可能であろう。などと妄想していると玄関のチャイムが鳴る。  誰だか判らない場合は居留守を使うが、鍵はかけておらず、風の通りがよいので薄く開いているときがある。ドアを開けて呼ぶのは、近所の工務店のSさんであった。何度目かの入院をし、杖をついて歩き、話す声も元気がなく、心臓が悪いと聞いていた。ところが今日の話では違っていて、正月江戸川の寿司屋で飲みすぎ、腰のあたりを骨折したらしい。階段に腰掛けるつもりが階段がなかったといっていた。声も出てる。「じゃあこっち、駄目になったわけじゃないんだ?」と呑むカッコの私「あたりまえじゃん、コルセット取れたら呑むよ」いやよかった々。と、ここまでは良かったが、この70半ば過ぎの老人、行きつけのK越屋にもいけず溜まっているのだろう、話が長い。そこから保険屋とのいさかいの話が始まる。私は何故こうも相槌を打つのが上手いのであろうか。話が終りそうになると「そういえば」を3回はくりかえしたろう。今年はハゼ釣りして、K越屋で飲みましょうということで、ようやくお開き。 『判りました。シャトレ座もルビンシュタインも今日は止めとくよ』。粘土を取り出し制作を再開した私であった。

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