明日できること今日はせず
人形作家・写真家 石塚公昭の身辺雑記
 



昨日搬入した時に、同じフロアに『生活の木』のショップがあり、作品を抱えて、横目で見ながら懐かしかった。私が陶芸の専門学校から、最初に就職したのが『生活の木』である。検索してみるとにハーブとアロマテラピーの会社に様変わりしていたが、当時は『陶光』という洋食器販売業で、新たに製造部門をつくるということで、学校のM先生がデザインからすべて協力することになり、生徒の中から選ばれたのが私とN君であった。N君は後に伝統工芸展で最高賞の朝日新聞社賞を受賞したくらいで、先生の目も確かだったが、私は酒ばかり飲んで、神経質で口うるさいM先生の授業がある日はほとんどサボっていたので、何故選ばれたのか判らなかった。そして結局N君は辞退したから、N君の目こそ確かであった。私はというと同級生に齢が5、6歳上のトラックの運転でお金を貯めて来た苦労人がいて、私のような好きなことにしか関心がなく、寝たい時に寝て起きたい時に起きるようなグウタラでは、今後生きていけないだろう、と陶芸作家に弟子入りする前に我慢を覚えるため、岐阜県瑞浪市の山奥にある工場に就職を決めた。当時原宿だか青山だかに本店があり、社長と工場長から今後の説明を受けた。私が履いていたのは唯一の革靴の安全靴であった。工場長の家で、しばらく食事もお世話になることになり、「ウチは赤味噌だけど大丈夫か?」と聞かれたのを覚えている。 工場長は海外にも指導にいく技術者で、いずれ中国製品にやられると予言していた。仕事中に教わったことを帰宅後書き残したノートはまだ持っているはずである。結局一日熱を出して欠勤しただけで無遅刻で通し、生涯で唯一となるボーナスをもらい、慣れればなんてことはなかった。拙著『ObjectGlass12』にも書いたが、休みに遊びに来た年上の女の子が私に読めといってくれたのが、万引きした澁澤龍彦集成の一巻『エロティシズム』(桃源社)であり、どこをどう読んだか、おかげで未だに寝たいときに寝て起きたい時に起きているという始末である。

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