明日できること今日はせず
人形作家・写真家 石塚公昭の身辺雑記
 



上半身の、しかも写るところしか作っていない。被写体制作者と撮影者が同一ならではの芸当である。小津安二郎じゃあるまいし、写りもしない抽き出しの中の物にまでこだわっていられない。とりあえず3体を考えている。ポーは黒尽くめを好んだらしい。黒マント姿もカッコ良いだろう。なにしろ頭部だけで何ヶ月も手こずらせてくれた。文豪然としていようったってそうはいかない。江戸川乱歩のように作りながら御遺族の顔が浮かんでしまうこともない。色々過酷な目にもあってもらう。 1カットのために1体作っていたら大変だが、全体を作ってあるものは、以後の撮影で活躍してもらわなければならない。西洋人のポーに合う背景さえあれば、人形を国定忠次のように捧げ持ち、片手にカメラの“名月赤城山撮法”も可能である。街を行きながらシャッターを切り、人間大の人物がその場に居るかのように撮れる。背景と被写体に同じ光線が当たっているのだから、違和感がないのは当然である。欠点は常に人物が手前に配され、足を鷲掴みしているのだからそこから下は入れられない。しかしなんといっても最大の欠点は、撮影中の姿が恥ずかしいことであろう。私一人、ファインダーの中では、いかにも人物がそこに立っているように見えているが、傍からはカメラをおでこに当てて、人形を持ってあっち向いたりこっち向いたりしているのだから耐えられない。よって何か事情があるように見せかけるため、必ずヒマな人物を付き合わせ、私は不本意ながらこんなことをしている、もしくはさせられている。という光線を発しながらの撮影となる。

※世田谷文学館にて展示中

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