明日できること今日はせず
人形作家・写真家 石塚公昭の身辺雑記
 



何かを取り戻すかのように、前半生で嫌いだった物ばかり食べている私だが、昨晩の鍋には、おでんで唯一嫌いだったちくわぶを入れている有様である。理由は全く判らない。 すでに頭部が制作済みの作家以外には、新たに作家を作ることはおそらくないだろう。その作家シリーズも、大半は高校までに読んだ作品のイメージが元になっており、後は二十歳過ぎに知った作家だが、その多くが明治生まれの作家であった。今は制作のため以外で小説を読むことはない。始業のチャイムが鳴っているのに図書室がら出てこないせいで図書室出禁になったりしていた小学生の頃から高校までは授業中でも読んでいたが、読書から入れ代わるように何かを作ることになっていった。他人の頭に浮かんだイメージより私のイメージへ、ということだろう 作家シリーズが面白かったのは、その作品を読まなければ、頭に浮かぶことがなかったであろうイメージを、それにかこつけ制作出来る面白さであった。“だってそう書いてある” 『寒山拾得』は鷗外を制作した時に読んだのだろう。それが作ってみたいという気が起こった時のことが、未だに思い出せないでいる。なので、いつの間にかチップを埋め込まれ、知らないうちにその気になっているようなところが拭えないでいる。つまり、何だか良く判らないうちに、何かをしたくなり、頭で考えるより、必ずそっちの方が結果が良いので、行き当たりばったりで来たが、その一方で、“何だか判らないけどやらずにおれなかったので、そうしてきました”では馬鹿みたいであり、あくまで考えてこうして来たのだ、という見栄を張りたい部分が消しがたく、来し方について考えてみたが、結局良く判らず。



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