テレビで発達障害を特集していた。私も自分を疑ったことがあるのだが、どうも違う気がする。特に気になってきたのは、小学校低学年の通知表に”掃除の時間に何をしてよいか判らずフラフラしています。“と書かれたが、これがどうにもならない。三十年住んだマンションから引っ越しする時も、何ヵ月片付けしているのだ、という話しで、「翼よあれが床だ。」などとつぶやく始末である。もう一つは子供の頃から衰えない集中力。等々怪しんでいたのだが、そのたびにいや違う。と思う。小学校で始業のチャイムが聞こえているのに図書室から出て行かないことを繰り返し、図書室出禁になったり、写真の素人が人形も作らず、独学で廃れた古典技法オイルプリントに熱中したり。しかしいずれも、こんなことをしていてはいけない、と内心ハラハラしていたのである。図書室では椅子の上に正座し、本を読むのを止めなければ、とお尻は浮いていた。オイルプリントもただやりたいだけだったので画が出てすぐ止めた。そう思うと、遠藤周作がいうところの”やらなければいけない事があるのに、他の事をせずにはいられない人を怠け者という。“さらに植木等がいうところの”判っちゃいるけど止められない。“単なるこれの複合ではないか。つまり空気は読めてはいる。 私の高校時代の親友に精神科の医師がいるが、今は、患者の自殺率の低さを誇る医師となったが、高校時代、友人の輪に彼が入ってくると空気が読めないので白けてしまうので”白けの⚪⚪“と呼ばれていた。最近は大分治ったが彼の話には多くが主語がなく、しばらくは大人しく聞いていないと「お前今いったい何について話しているのだ?」。その代わり普通の人間が気にもしないところを心配し、気を付かってくれたりする。医師になり立てのころ患者といる方が気が楽だといっていた。優秀な医師であることは間違いないが、今度会ったら自己分析を是非聞いてみたい。 空気が読める人間が寒山拾得などやるか、ということについては、植木等のいうとおりである。いや青島幸夫か。