明日できること今日はせず
人形作家・写真家 石塚公昭の身辺雑記
 



間が空いてしまった時に、しばらく留守になっていた物をやってみる。目が慣れてしまって方向を見失っても、久しぶりに見ると、問題点が目に入ってくる。複数の物を並行して作るメリットである。 一休宗純は難航している部分があり、それを一休像をおそらく本人の目の前で描いた曽我蛇足のせいにしていた。絵描きというものは、クラナッハのヌード像を見るまでもなく自由である。蛇足の一休像にもそんなことが起こっている、と思い込んでしまっていた。禅宗の肖像画の鼻毛まで描く迫真性は判っていたつもりであったが。 時間を置いて頭は冷やすものである。私の邪推だったことに急に気付いた。そうと判れば、見え方も違ってくる。陰影のない画像はこの場合やっかいである、というお粗末。一挙に進んだ。 そうとなれば一休が酔い潰れている『一休酔臥図』制作を邪魔する物は何もない。英一蝶は、庵の軒下で倒れており、庵の主人らしき人物が心配そうにしているが、私の場合は行きがかり上、竹竿としゃれこうべを放り出し、門松の傍らで眠り込んでいる。“門松は冥土の旅の一里塚 目出度くもあり目出度くもなし”其の二ともいうべき物になるだろう。



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