明日できること今日はせず
人形作家・写真家 石塚公昭の身辺雑記
 



夕飯を食べごろごろしていたら、最近見ないな、と思っていた鯉に乗る琴高仙人の首が棚の上の雑物の陰にあった。 一休を制作以降、禅も風狂に気分が傾き気味である。三本脚のガマガエルや、仙人でも作らなければ作らなかった表情が作れたものの、一休を先に手がけていたら、古典的モチーフとはいえ道教に属す仙人まで手を伸ばすことはなかったかもしれない。実際、一年も経つのにまだ一カットも撮っていない。スケジュール的に仙人はどうだろう、と思い始めており、残り二人を残し、端から仕上げ、着彩、撮影に向かうべきか、と考えていた。しかし昨日のブログで、昨日、今日浮かんだものをただ作っているだけなので、と書いている。案の定というべきか、鯉こそ後回しになったが、琴高仙人を作っているのであった。



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




64年の東京オリンピック以降、東京に何が出来ようとなくなろうと興味が全くない私だが、引っ越し時に、当時の家族や風景が写っていたアルバムを置いて来てしまったことにより、さらに拍車が掛かった気がする。それは同時に、外側にレンズを向けず、眉間にレンズを当てる念写に対する思いにも拍車が掛かった気がするのである。 私は長らく死の床であれが作りたかった、これも作るべきだった、と苦しむことは決まっていると想像しては嫌な気分になっていたが、よーく考えて見ると、ただ昨日、今日浮かんだ物をただ作っているだけなので、その点は心配することはなさそうである。 子供の頃に頭に浮かんだ物は何処へ消えていってしまうのか、と悩みそれを消える前に確認しようというのが制作の動機にもなっているが、本当に不思議なのは、何で浮かぶのか、なのだが、それは解明されずに終わるだろう。まあ、頭の中にやっぱり在ったな、と確認する手段を持てた分マシだったろう。



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )