南房総で滝を撮影したが、行く前にからこうなるんじゃないかと思っていたが、不動明王の火焔は筆描きするし、陰影がないのに水の輝きがあるというのは矛盾となる。外側にレンズを向けず、眉間に当てる念写が理想と言って来たのだから、ここに至れば背景も全て作ることになりそうである。また不動明王より、そもそものきっかけである寒山拾得を増やしたい。全て無背景であったが、寒山の住う岩窟などあとは背景有きの予定。 一方実在した蘭渓道隆は、建長寺のお手植えのビャクシンの木を背景に、七百六十年ぶりに、巨樹となったビャクシンの前で撮るつもりだが、今の時代にやるからこそ、本人の植えた木だというところに意味がある。前に立たせるのが、写真機があれば撮影可能な、建長寺収蔵の蘭渓道隆像ではなく、国宝の肖像画を立体化した像という〝及ばざるくらいなら過ぎたる方がマシ”がモットーな私ならではの蘭渓道隆になるだろう。これにより得られる快感は、房総の地酒、地魚を持ってしても及ばないだろう。