明日できること今日はせず
人形作家・写真家 石塚公昭の身辺雑記
 



定年以後、連日ハシゴ酒のKさんは、ころんで顔面に怪我しても懲りずに相変わらずである。そこに元の職場の後輩Sさんが先日定年を迎えた。40日は有給があるそうだが、すでに3日で退屈してしまって連日パチンコに行こうと電話が来るそうである。3日ですでにパチンコで18万、日曜は競馬で5万すったらしい。「Sにはついていけないよ」。あんたがいうか、といいたい私である。 Kさんは定年直後、旅にでるとかなんとかいっていたが、故郷の鹿児島に帰ったかと思ったら、たった2泊で帰ってきてしまった。明日からはSさんと2人で石垣島や竹富島に行くのだが、一ヶ月以上前から騒いでいたわりにたった4泊5日だという。Kさんはいずれ兄弟が住む岐阜に、Sさんは故郷の青森に帰るといっているが、今の調子では無理であろう。2人の先輩に良い例があり、定年後故郷に帰ったはいいが、退屈して毎週新幹線に乗って東京に遊びに来てしまう人がいて、お金をほとんど使い果たしてしまったらしい。 退屈してすることがない、というのは私には全く理解できない状態である。作りたいものが尽きることはないし、パッタリ死ねれば良いが、死の床で、あれが作りたかったこれも作りたかった、とやるかと思うとゾッとしてしまって退屈などしている余裕がない。それにしたって60年も生きてきたのだから、野に放たれた自分がどうなるかぐらい判りそうなものだが、この人たちを見ていると、会社に管理されていたからいいようなものの、フリーの生活などとても無理である。そう思うとこの世に生まれ出たときから、自己管理能力のなさを各方面から指摘され続けている私も、案外満更ではないのではないか、という気がしてくる。そこへKさんからのメール。「手がすいたらでいいから石垣島にパチンコ屋あるか調べといて」。

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一日  


本日は何人か連絡をもらった方がいるのでプランタンへ。会場に行って初めて気付いたが、コクトーの価格が間違って倍近い値段が付いていた。初日に気付かなかった私も悪いのだが困ったことである。訂正。 知人が来たのですぐ近くのスパンアートギャラリー『空山基 原画展 -NEODISCIPLINE 』を観に行く。細密な描写を堪能していると空山さんから声をかけられる。十数年前に、ちょっとお話ししたが、まさか覚えていただいているとは思わず、黙って帰ろうとしていたので非常に恐縮してしまった。プランタンもすでに観ていただいており、三島で個展を考えているが、場所が決まっていない話しをすると、ギャラリーの方に今すぐプランタンを見に行って来るように薦めていただいた。有り難いことである。外では原発反対のデモ。
『潮騒』の初江候補のAちゃんは背が高い。167、8あると聞いていたが、父親にいわすと女がそういう場合は170を越えているだろう、という。男が167、8だったら70と見得をはるのとは逆である。Aちゃんに直接聞いたら70は越えているし、今時低くいう人なんかいるのかな。という。なるほど。問題は手元にある海女の磯着が、お婆さんが着ていた物なのでサイズが合わず、ツンツルテンの可能性がある。Aちゃんが来ると聞いていたので海女の磯着、磯メガネなど一式を持って行き試着してもらった。ところがどういうわけか服の上から着られたし、袖丈などピッタリ。どんな婆さんだったのか。それにしても白い磯着は日本女性はみんな似合う気がする。 たとえばまずこんなシーンを考えている。海にもぐった直後、濡れたままの初江が海女小屋で新治を想い、ボンヤリと窓の外を眺めている。空にはのどかにトンビがくるりと輪をかいて。等々。なにしろ私の今考えている三島の連作では、唯一爽やかな一編なのが『潮騒』である。Aちゃんにかかっているといってよい。

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演芸好きTさんと東銀座で待ち合わせ、歌舞伎座近くの『鳴神』にて煎茶。震災の影響で6時までの営業だそうだが、四番茶まで毎回味と香りのちがう味を楽しみ丁度三十分。
『シネマ落語』は前回に続き2回目。古今亭志ん朝『船徳』(昭和57年)絶好調。なんだかまだ生々しく。亡くなってもう焼かれちゃったんだなぁ、と妙な感慨がわく。金原亭馬生『臆病源兵衛』昭和54年)私は誰か一人といえば馬生師である。相変わらず楽しませてもらったが、残念ながら絶好調とはいいがたい。だいたいこれで私より年下というのが全く納得できない。三遊亭圓生『引越しの夢』(昭和45年)収録が古い分若くて色気もあり、さすがこの人でないと味わえない味がある。そして林家正蔵『中村仲蔵』(昭和47年)である。私の世代だと映画『妖怪百物語』(68)だが、彦六時代と違い、頬はピンクで目を剥くと照明が瞳に当たってギラリと光ってなんとも迫力がある。 歌舞伎役者の初代中村仲蔵が『忠臣蔵』五段目の定九郎をそれまでの山賊じみた姿から白塗りの浪人に、たまたま出合った着流しの侍をみて工夫して大当たりをするという話である。史実では四代目團十郎が発案したのを、五代目に「團十郎はそういうことはしないものだ」と却下され、それを聞いていた仲蔵が「やってみていいですか?」「いいよ」。みたいな話である。そしてこの定九郎は実際大当たりし、いまだにその型が残っている、というわけである。噺では、やってはみたけれど、客は唸ってばかりで、仲蔵てっきりしくじったと勘違いし、修行しなおす、と上方に行く道中、自分の定九郎を絶賛する声を聞き、師匠にも褒められ感謝までされる大団円。自分は大丈夫だから、と平然と送り出す妻も良い。 日ごろ常にアイディアを考え、何かと工夫しているつもりの表現者の端くれとしては、グッときて泣けてきた。幸いなことに今日は飲まないで帰るとTさん。銀座通りの駅までの道も、まったく回復しきれなかった私であった。

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一日  


先日ツイッターで横尾忠則さんが、今年に入って制作風景や日常を追ったドキュメント映画がクランクインし、今日も撮影があったとつぶやいていた。この映画のプロデューサーは昨年まで同じマンションの一階下に住んでいたYさんである。 以前Yさんに、明日、元薔薇十字社の社主で、三島由紀夫が被写体の幻の写真集『男の死』の企画者内藤三津子さんにお会いすると話すと、Yさんは若い頃あるドキュメンタリーの仕事で横尾さんの助手をしたことがあり、『男の死』の中の1カット『聖セバスチャンの殉教』を参考に、三島のオマージュ作品を描いているのを側で見ていたという。しかも今日、何十年ぶりかで連絡をしたところだというのでさらに驚いた。その撮影が始まったわけである。 Yさんにはいろいろ手伝ってもらった。『中央公論Adagio』でいえば、植村直己のときは犬が横におり、その対比で植村の粘土で作った頭髪に違和感があるので、屋上に呼び出し髪をくしゃくしゃにした私の頭を撮ってもらって合成した。古今亭志ん生では、照明を担当してもらったし、円谷英二ではスタッフ役で登場してもらった。Yさんは十代の頃から映画の現場にいたし、小学生の時に円谷にファンレターを出したというからまさに適役であった。 しかし実際Yさんがいて本当に助かったことといえば、玄関の外で自転車の掃除をしていて電話が鳴り、部屋に入ったとたん自転車が倒れ、ドアを押さえて閉じ込められた時だったろう。YさんはYさんで酷い便秘になり、苦しんだあげく私を呼ぼうとしたらしい。それを聞いて私が“かき出し”ているところを想像してしまったが、薬を買ってきてもらおうとしただけであった。こんな話も映画の完成は先のことなのでかまわないであろう。スタッフロールでYさんの名前を見るのが今から楽しみである。

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昨日搬入した時に、同じフロアに『生活の木』のショップがあり、作品を抱えて、横目で見ながら懐かしかった。私が陶芸の専門学校から、最初に就職したのが『生活の木』である。検索してみるとにハーブとアロマテラピーの会社に様変わりしていたが、当時は『陶光』という洋食器販売業で、新たに製造部門をつくるということで、学校のM先生がデザインからすべて協力することになり、生徒の中から選ばれたのが私とN君であった。N君は後に伝統工芸展で最高賞の朝日新聞社賞を受賞したくらいで、先生の目も確かだったが、私は酒ばかり飲んで、神経質で口うるさいM先生の授業がある日はほとんどサボっていたので、何故選ばれたのか判らなかった。そして結局N君は辞退したから、N君の目こそ確かであった。私はというと同級生に齢が5、6歳上のトラックの運転でお金を貯めて来た苦労人がいて、私のような好きなことにしか関心がなく、寝たい時に寝て起きたい時に起きるようなグウタラでは、今後生きていけないだろう、と陶芸作家に弟子入りする前に我慢を覚えるため、岐阜県瑞浪市の山奥にある工場に就職を決めた。当時原宿だか青山だかに本店があり、社長と工場長から今後の説明を受けた。私が履いていたのは唯一の革靴の安全靴であった。工場長の家で、しばらく食事もお世話になることになり、「ウチは赤味噌だけど大丈夫か?」と聞かれたのを覚えている。 工場長は海外にも指導にいく技術者で、いずれ中国製品にやられると予言していた。仕事中に教わったことを帰宅後書き残したノートはまだ持っているはずである。結局一日熱を出して欠勤しただけで無遅刻で通し、生涯で唯一となるボーナスをもらい、慣れればなんてことはなかった。拙著『ObjectGlass12』にも書いたが、休みに遊びに来た年上の女の子が私に読めといってくれたのが、万引きした澁澤龍彦集成の一巻『エロティシズム』(桃源社)であり、どこをどう読んだか、おかげで未だに寝たいときに寝て起きたい時に起きているという始末である。

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結局一日徹夜。プランタンの搬入は、S運輸を定年のKさんに手伝ってもらうことになった。なにしろヒマである。朝8時、T屋より電話。Kさん、ちゃんと早起きしてくれたのは良かったが、背後でタクシーの運転手の酔って楽しそうな声が聞こえる。準備が遅れ、約一時間待ってもらうことになった。S運輸時代、酒臭いのが配達に来たと客に報告され、クビを宣告されたのもT屋で飲んだ揚句であった。幸い上司のとりなしで無事定年を迎えたのだが。飲んじゃったろうな、と思ったら、T屋のかみさんが、気を使って極薄いお茶割りを出してくれたらしく無事であった。タクシーでプランタンに向かう。 展示は人形3体に写真が5枚。私は飾り付けがまったくの苦手なのだが、丸善の展示の時、初めて搬入を手伝ってくれたKさんが、みんな綺麗に飾っているのに、私だけ布も敷かずただテーブルに置いただけだった、とやたら言触らすので、今回は布を用意した。 開店早々、度々私の作品を購入いただいているSさんがみえ、今回はマルコムXを。Sさんとは私が20代の頃お会いしている。当時は私にとって名刺交換自体が珍しかったので勤め先も覚えていた。私がにわかに思い出せない作品も所有されており、随分ながいこと作ってきたとつくづく思ってしまった。 立ち話していると、人形などまったく興味がなく、早くビールを飲みに行こうと背中がいってるKさんがウロチョロ。私のブログをご覧になっているというSさんに、「あの人がKさんです」。その後『ライオン』へ。寝不足で飲みながら舟を漕いでしまった。

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7日からの展示は初めて参加するグループ展だが、少女の人形が大半で、どうも私だけ浮いているようである。プランタンでは85年に『第1回人形達展』という創作人形の公募展があり、その頃私は架空の黒人のミュージシャンを作っていたが、招待作家として出品した。先年亡くなった俳優の河原崎長一郎氏も出品していたが、私にはTVのお父さん役よりも『神々の深き欲望』などの映画のイメージが強かった。今思うと父親の四代目河原崎長十郎は前進座の創立メンバーで、三代目長十郎は“劇聖”九代目市川團十郎ということになる。四代目長十郎の祖父、座元であった六代目河原崎権之助に、生まれてすぐ七代目團十郎に養子に出されたのが九代目である。 養父権之助が九代目に与えた試練は実に過酷で、たまりかねた七代目が取り返しに来たくらいで、その稽古のスケジュールは、現在だったら幼児虐待レベルである。しかし結局はこの時代が九代目の土台を作ったということになるのであろう。権之助は強盗に殺されるが、幼い九代目は息を潜めて隠れていて助かり、養父の刺殺された時のうめき声を後々まで覚えていて、芝居に取り入れたというから、さすが劇聖である。 そして今回私が出品するのが、九代目團十郎の写真作品である。だからどうだというと、特にどうということもないのであった。

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潮騒  


このベストセラーは三島らしくない作品といわれる。三島本人も、本音かどうかは判らないが、こういう作品がベストセラーになり、ウンザリしている、というようなことをいっている。 数十年ぶりに制作の合間に半分ほど読んだ。映画で山口百恵が包丁でノコギリのようにギコギコ切っていたのは原作ではナマコであった。 爽やかな青春物語である。18歳の新治の父親は、歌島から三哩位のところで、B24の艦載機に出会い、停滞したエンジンから上がっていた黒煙が敵機の目標にされ、爆弾投下と機銃掃射により死んだ。『新治の父の頭の耳から上はめちゃめちゃに裂けた。もう一人は目をやられて即死した。一人は背から肺に盲管銃創を負い、一人は足をやられた。尻の肉を殺がれた一人は、出血多量で間もなく死んだ。甲板も船底も血の海になった。石油タンクが射たれ、石油が血潮の上に溢れた。そのために伏せの姿勢をとれなかった者は腰をやられた。』盲管銃創とは弾が貫かずに体内に残ることをいうが、こんなシーンは三島由紀夫、ついリアルである。

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三島由紀夫自決、日本が受けた衝撃 (中川右介著)を読む。120人に及ぶ人たちの昭和45年の11月25日、いわゆる三島事件当日の体験が時系列順に並べられている。初めて読んだ話として、後にNHK会長になる島桂次の死の前年に出版された回想録には、当日サンデー毎日の徳岡孝夫とともに、市ヶ谷会館で三島からの封筒を受け取ったNHK記者の伊達宗克が、前日の24日に『NHKの責任者の方に』と書いた手紙を持ってきて、それには“私の行動がまげられて伝えられると困るので肉声を正確に伝えてほしい”と書かれており、そのため翌日NHKは三島の演説を撮影することができたという。伊達は「お疑いなら、ここから電話をいれましょう」と言った、とまで書かれている。リアルに語られているが、準備の時間がそれだけあったとしたら撮影はともかく、演説をすべて録音したのが文化放送だけだった、ということはないはずで、眉唾物の話しであろう。 驚いたのが、三島と二度しか面識のない村田英雄とのエピソード。三島はあの日、11時15分前後にトヨペットに乗って市ヶ谷に向かうが、その直前、村田英雄の留守宅に電話をかけ、公演のため岐阜にでかけていることを家人に聞くと、岐阜にまでわざわざ電話をかけ、十年連続紅白歌合戦の出場決定のお祝いを伝えようとしたらしい。まだ村田は到着していなかったが。それが出発の凡そ15分前というから、呆れるばかりの律儀さというか、もうヘンである。 本書には各界の人々の当日の衝撃が語られているわけだが、割腹による自決だけだったら、これほどではなかったろう。やはりあの介錯方である。

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19:49 from web
『潮騒』の初江役が、ようやく決まった。
by k_ishizuka on Twitter



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