明日できること今日はせず
人形作家・写真家 石塚公昭の身辺雑記
 



大谷翔平、手術後の経過も良く、新天地での活躍が楽しみである。私は普通の人と視点がちょっと違っていて、野球をすることによって湧き出る快感物質に取り憑かれた男の躍動する姿、笑顔を見たいのである。こんなあからさまな人間を始めて見た。 かつて、一時の性欲や手料理如きに胃袋捕まれ、結婚していく友人らに、友情を持って止めることを常としていた。それというのも、全ての人が、あの快感物質が湧き出ていると思い込んでいたからである。私にとって家庭生活=快感物質の湧き出るのを阻害するものでしかない。 学生時代の昼休み、小説を読んでいる間中、映像が浮かび続ける私は、他の連中がそうではない、と知って、びっくりしたのを覚えているが、そんな訳で〝お前ら頭おかしいんじゃないか?“と言わんばかりに説得していたことを、今では反省している。アレが湧き出ないなら、火中に身を投じる虫の如き行動も判らないではない。もっとも、全員アレに取り憑かれたら、人類の滅亡は間違いない。酒場でぐずぐず、なかなか家に帰ろうとしない男達は自業自得と思っていたが、滅亡を防いでいるのはああいった男達であろう。

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一日  


一休の竹竿にシャレコウベは、やはり正装より雲水姿の方が似合うだろう。網代笠に酒器の瓢箪を肩に。本当は、野良犬を足元に、と思うのだが、室町時代の野良犬がどうだったか判らない。当時描かれた犬はいるが、描くとなると、どうしても毛並みが良い犬で、乱世の時代に喰われもせず、うろちょろしているような、洋犬の血があまり混ざっていないような犬はさっぱり判らず。もっとも陰影を排除すること手法は、他のオブジェには影響を与えないので、後で付け加えることは可能である。また展示場所によるが、当初イメージしていた、胸をはだけムシロを手にした夜鷹や乞食を付け加えても良い。乞食、夜鷹、犬、洟垂れ小僧など並べてみるのも良いだろう。来週には、着彩に取り掛かれるだろう。 陰影を排除する手法は、光やレンズの味に頼ることは出来ず、被写体の出来が成否を決める。写真を始めていなかった頃の、原点である人形制作を思い出させてくれる。

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小学4年で母にねだって買ってもらった「一休禅師」で見た横目でこちらを見る一休像は、門松は目出度くもあり目出たくもなし、の言葉と共に記憶に残った。後小松天皇の落胤として生まれ、二年後に南北朝が合一。様々な事情から寺に預けられる。一歩間違えば殺されていてもおかしくない。あの表情は、そんな出自により作られたものだろう。 小学一年で図書室と出会い、伝記の類いを読みまくった私だが、掲載される肖像が現代のイラストレーターが描いたものでなく、当時描かれた物であると説得力が増した。人間模様への興味から犯罪ドキュメント関連の本もずいぶん読んで来たが、最近めっきり興味が湧かない。その原因は、ニュースにおける犯人が皆マスクをして印象に残らないせいもあるだろう。 建長寺開山、大覚禅師こと蘭渓道隆も、その個性的な国宝の肖像画にまず興味を持った。この顔を正面から見てみたい。仕上げをしているとブラタモリで建長寺が映り、元SMAPのナレーションでランケイドウリュウと発音されるのを聴き妙な感じする。

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坐禅での手の置き方にも左右決まりがあることさえ知らず、作り直したような人間には、知るべきことが多い。初個展で私の作ったピアノの鍵盤の数を数える女の子がいた。鍵盤の数などどうでも良かった私だが、後に実在の人物を作るようになり、やれることはやっておかないと、鍵盤の数を知っている人には台無しだろう。 頂相彫刻は大抵椅子に座って描かれている。中国由来の形式だろう。なので蘭渓道隆と無学祖元は坐禅姿にしたのだが、そこまで作っておいて、壁を背にし、袈裟を着けない臨済宗の座禅も、七百年前はどうだったのか?しばらく制作が止まった。近所の臨済宗の寺で聞いてみるのも。町工場の社長が本社の創業時のことまで知っているとは限らない。人づてに建長寺の関係者に聞いていただいた。残された物をただ写すならともかく、違うものを作るのであれば、せめて鍵盤の数は正確にしないと坐禅姿が台無しである。 本日は久しぶりに臨済義玄の気になる部分を修正した。この時点で人物像は、達磨大師、臨済義玄、蘭渓道隆、無学祖元、蒙古兵、一休宗純。このラインナップがどっち方向に伸びて行くかは全く不明である。 午後一遍上人の資料届く。パラパラと速読調にて眺める。



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昨日、死の床で一遍上人を作れば良かったと後悔するのはまっぴら、と書いたのは、だから作るのは止めた、という意味ではなく、むしろ逆である。早速一遍上人の資料を注文した。ただし今は熟読は止めろと、肝に銘じつつ。そう簡単に収まるのであれば、妙な施設で検査させたり母は苦労しなかったろう。中川家の漫才で、弟の礼二が小学2年の時「日曜になったら、朝から晩まで裏のドア開けて出発進行出発進行」頭がおかしいと大学病院に連れて行かれた。「全部ホンマの話やないか!」に笑った。私が連れて行かれたのは病院ではなかったと思うけれど。 40有余年、中年〜老人の男専門に作って来た私とすれば、異様な表情、ギクシャクしたポーズの老人に、これは私の出番だ、と思うのは当然であり、作る言い訳が見つからなかった、という、単に渡世上の事情にすぎない。私を支配しているのはへそ下三寸、丹田辺りのもう一人の私である。こいつが出発進行出発進行とやかましい。ただ、渡世上の事情や空気が読めることについては、せめてもの、母の教育的成果であろう。

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昨日、死の床で一遍上人を作れば良かったと後悔するのはまっぴら、と書いたのは、だから作るのは止めた、という意味ではなく、むしろ逆である。早速一遍上人の資料を注文した。ただし今は熟読は止めろと、肝に銘じつつ。そう簡単に収まるのであれば、妙な施設で検査させたり母は苦労しなかったろう。中川家の漫才で、弟の礼二が小学2年の時「日曜になったら、朝から晩まで裏のドア開けて出発進行出発進行」頭がおかしいと大学病院に連れて行かれた。「全部ホンマの話やないか!」に笑った。私が連れて行かれたのは病院ではなかったと思うけれど。 40有余年、中年〜老人の男専門に作って来た私とすれば、異様な表情、ギクシャクしたポーズの老人に、これは私の出番だ、と思うのは当然であり、作る言い訳が見つからなかった、という、単に渡世上の事情にすぎない。私を支配しているのはへそ下三寸、丹田辺りのもう一人の私である。こいつが出発進行出発進行とやかましい。ただ、渡世上の事情や空気が読めることについては、せめてもの、母の教育的成果であろう。

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先月末、40年来の知人宅で、初個展前後の、架空のブルースマンの作品をアルバムにした物を見せられた。そこにはそれ以外の作品も写っていた。1つ140円で、団地のベランダにぶら下がっている物干しを溶接しながら作っていた。いずれ160円になる、と聞いていたが、刑務所でも同じ物を作っていたからかなわず。そうこうして、溜まって来たので初個展となった。当時、朝ドラで『おしん』をやっていて、その直前のニュースで個展情報が流れたものだから、初個展の割に人が来て、翌年の2回目も決まった。ところがプレッシャーになり、一度はキャンセルを申し出にギャラリーに向かったほどで、これは酒など飲んでいられない、と約一年禁酒をした。この頃一番好きだった噺家が志ん生の息子、志ん朝の兄、金原亭馬生で、どんな俳優がドラマの中で飲酒をしようと平気なのに、馬生がだんだん酔っていく様は耐え難く、顔を見るとチャンネル変えていた。遊びに来た友人だけに「どう?いいだろ?」なんて生きて行けたらどれだけ良いか、と思ったものである。 今は実在した人物を作っている。やりたいようにやるなら架空の人物を作れば良い。一遍上人は鎌倉に入ることはなかったようだが、蘭渓道隆が鎌倉から出て、一遍上人に会いに行った説を家が時宗だという方から聞いたが、確証のある話ではないようである。実在した人物を作る場合、七百年前の人物だからといっても、このハードルを意識してこそ、実在した人物である。ラインナップの中には、よほど縁がなければ南無阿弥陀を唱え踊る老人は並べられない、と断念。かといって、死の床で一遍上人を作るんだった、と後悔に苦しむなど真平である。

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仕上げも進み、一休宗純以外は後は完全に乾燥させ、着彩を済ませれば。と完成が見えて来た。錚々たる高僧を並べて眺めてみると、私のような、とびきりの不信心者が、と数年前の私が見たら、事情がまったく飲み込めないだろう。何しろ何年も父の墓参りもしていない。いくら出不精とはいえ、墓はたかだか新宿区である。いい訳するとすれば、私の場合、父の姿などは、3D映像のようにイメージの中でリアルに動きまわる。なのでいつかヒットした歌ではないが、ここに父は居るのに、石の下にある骨片に手を合わせに出かけなくても、というのが正直なところである。それは渡世上の主要な私の武器でもあるのだが、それがアダとなることもある。 本日は朝から頭の中で、一遍上人が南無阿弥陀佛、と踊り続け、何か作る理由がないか調べるのだが、どうしても鎌倉入り直前に、武士に阻止され叶わず、というのが真相らしい。こうなると子供の頃から抑えが効かない。母がもっとも危険視したのが、私のこういうところだが、さすがにハナを垂らした小学生ではないのだから、作りたいから作っちゃいました、という訳にはいかない。と一日苦しんだ本日の誕生日であった。

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それにしても、今時一遍上人を作る私を想像すると、あまりに私らし過ぎる。蘭渓道隆と一遍上人の出会いは実はなかったと、検証されているなら、嘘になってしまうので作る訳にはいかない、と私は案外律儀である。余計なことを調べてくれたな、野暮なことを、と。 円覚寺にある開山、無学祖元の像は椅子の背もたれに龍と2匹の鳩が刻まれている。それは来日前に、我が国に教えを伝えよ、と金龍と蒼鳩を伴った神が繰り返し現れた。来日して鶴岡八幡の鳩を見て、あれは八幡の神だったのだ、と悟った。そのことを後世に伝えていくため、我が姿を刻むことあれば、袖から龍、膝上に鳩を、といい残したが、なぜ背もたれにしたのかは不明である。だったら私が、と作った。しかし考えてみると、袖から龍が顔を出す人物を作っておいて、嘘になる、案外律儀だと、何を今さらという話である。

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1月31日のブログで〝被写体は全て揃うことになる。しばらくは余計なことを思い付かないでくれよ“と書いた。キナ臭い予感の正体は前日のブログに書いてあった。建長寺の開山、蘭渓道隆のもとを、一遍上人が訪れた逸話は互いに詠みあった詩まで残っているが事実ではないようだ。当時禅宗が盛んな鎌倉を各宗派の僧が布教を目的に集まって来たようで、一遍上人も、建長寺の目と鼻の先まで来たのは事実のようだが、おそらく弟子を引き連れた小汚い一団だったろうが、北条時宗と会った説もあるが、出入りを禁じられ、進路を変えざるを得ず。というのが真相らしい。事実がどうか定かではない、というなら作れるが、余計な解明を、と律儀なところも持ち合わせる私は残念がった。 一遍上人は、おそらく小学〜中学の頃、読みまくった、中井英夫編纂の百科事典で目にしていたであろう、腰を曲げ、異様な表情の人物が浮かぶ。いかにも私がムラッと来そうな人物である。しかし流れ上〝南無阿弥陀仏“と書かれた札を配る人物は作る訳にはいかない。某脳科学者がいう〝人間は頭に浮かんだ物を作るように出来ている“という仕組みに苦しめられている。人形の最終仕上げをしながら、どこかに作る理由がないものか?と横目で資料を漁る私であった。

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葛飾北斎の晩年の肉筆画がどうも苦手である。テレビドラマのセリフではあるが、西洋画を見た北斎は「見たまんま描いていやがる。」そういっていながら、次第に西洋の陰影法を取り入れていく。北斎が何かと取り上げられていた頃だったが、私が写真から陰影を排除し始めた頃だったので、まるで北斎とすれ違うように、反対方向に分かれた気がしていたが、私には北斎が余計なことを始めて、結局中途半端に終わったように思え、陰影に関しては、娘のお栄の方が、よほど消化しているように見える。 私がかつて一目惚れし、人形制作を放って習得に夢中になった野島康三の、顔料を使用するピグメント写真法は、時代とともに、絵画を模倣する古臭い表現扱いされていき、野島も銀塩写真に転向するが、私にはまったく面白く感じられず、和装を洋装に、ダンスまで始め、新たな時代について行こうとする姿が残念であった。 両者ともに、芸術家の上昇志向というものが、そうさせたのかもしれないが、私はそんな物は持ち合わせておらず、あまり大きな声でいうべきではないが、あくまで、より私に快楽をもたらす物だけを追求して行く所存である。

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自分がどういう物を作れば、より多くの快感物質が脳内から湧き出るかを熟知している。仮に良い作品が出来たとしても、肝心のそれが湧き出さなければ、私にはまったく意味がない。また、私の作品を見て呆れている人達の顔を見るのも好きである。子供の頃からその物質に取り憑かれ続けた私が、現状で、もっとも湧き出るであろうと手掛けた新作のラインナップである。
『人形』1 達磨大師座像。2 臨済義玄座像。3 蘭渓道隆坐禅像。4 無学祖元坐禅像。坐禅像に袖口から龍、膝上に2匹の鳩、(未定)両脇に白鹿。4 無学祖元に刀を向ける蒙古兵。5 雲水姿の一休禅師。片手に酒器である瓢箪。片手に竹竿にシャレコウベ。
『写真作品』1 達磨大師。A 崖上の達磨大師。背景に満月。B 円窓に上半身の真正面か真横。2 蘭渓道隆 A 建長寺お手植えのビャクシンの巨樹を背景に七百数十年前に植えた本人を立たせる。B 坐禅姿の真正面図。 3 無学祖元 A 坐禅姿に喉元に剣を向ける蒙古兵。B 袖口から龍、膝上に蒼い鳩、真正面像。4 一休禅師 A 雲水姿に酒器である瓢箪、朱鞘の大太刀。大覚禅師こと蘭渓道隆と、仏光禅師こと無学祖元は、人間大にプリントする予定。

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写真を始めたのは遅かった。まずは月刊の写真雑誌を一年読んでみたが、私には1カットでは誰の作品か判らずじまいに終わった。結局、野島康三のピクトリアリズム作品を別にすれば、フィット感みたいなものがなく。そもそも暗室作業が向いていなかった。 十数年前、サンディエゴ写真美術館の館長に作品を観てもらう機会があったが、アメリカ人の口から〝ユニーク“が連発されるのが嬉しかった。日本人は見たことがない物を目にすると、ユニークとはいわずに、目に明りを灯らせない、ことによって表現するのを身に沁みて知っていたからである。その館長が、私の作品は拡大した方が良いといってくれたが、その時は、ただアラが出るだけではないか?と思った。何か質問は?に聞きたかったことはただ一つ、私のようなアプローチをしている人はいますか?だったが、しばらく考え、紙に書いてくれたのがシンディ・シャーマンで、どこが?と思ったが、外側にレンズを向けず自分に向けている、という意味だったのかもしれない。その後、まさかの、光と陰の芸術から陰影を排除することになり、モチーフ、手法どこを取っても誰かの作品に間違われることはないだろう。達磨大師の耳輪を付け替え、月下のインド人をイメージする。


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