昨8月5日の参議院予算委員会の質疑応答で福島社民党党首が普天間基地移設問題を取り上げていた。例の如く「参議院インターネット審議中継」の動画から文字化した。
「国外。最低でも県外」は鳩山前首相の専売特許かと思っていたら、菅首相も共同特許の発言だったようだ。
福島瑞穂「2005年、沖縄の基地問題に関する超党派の勉強会の会長就任の際、普天間移設に関して、『不可能だ、県外、国外に移設すべきだ』と発言をしています。政治家は言葉に責任を持つべきです。このことに向かって実現すべきではないですか」
菅首相「えー、多くの方から、あー、この普天間に関して、まあ、私の、おー過去の発言を含めて、えー、ご指摘いただいております。えー、私は、あー、ま、総理に就任する時点、あるいはその少し前に5月28日のオー、日米合意に、いー、基づく、閣議、いー、決定がありまして、ま、そのときに、福島党首は、あー、それは反対するという形で、えー、政権から、ア、離脱をされたわけでありますが、私は、ア、その日米合意を踏まえた、閣議決定に、署名をし、また、総理大臣に就任してから、えー、この日米合意を、おー、全力を、おー、上げて、図っていくと、そういう姿勢を明確にしました。
ま、過去の発言について、色々言うことは控えたいと思いますが、えー、私なりの、今現在の、おー、日本の要請、あるいは、あー、アジアを巡る情勢、えー、そういったことを含めての、オ、判断であります」
「過去の発言について、色々言うことは控えたいと思います」――
過去に何を発言しても構わないということになる。何を発言しても構わなければ、過去の発言に責任を取らなくてもいいということにもなる。
好きだ、好きだと言って、好きな女にやっとのこと思いを遂げる。ところが他の女が好きになって、あれ程好きだ、好きだと言った女に別れたいと言い出す。女は「今までの好きだ、好きだは何だったのよ」と男の不実を詰る。
男「過去の発言について、色々言うことは控えたいと思います」
本人にとって、「控えた」方が無難だからだろう。菅首相にしても無難を願った自己都合の手控えに過ぎない。
「不可能だ、県外、国外に移設すべきだ」の発言は確固たる信念、最低でも確固たる考えに基づいた自身の主義・主張を形作る内容を備えていたはずだ。そういった内容を備えてもいないにも関わらず、「不可能だ、県外、国外に移設すべきだ」と言ったとしたら、根拠のない軽薄な発言と化すばかりではなく、そういった軽薄な発言をする軽薄な人間と言うことになる。
自身の主義・主張を裏打ちした発言でありながら、それを貫かず、簡単に捨てて、現在の情勢、状況を取った。現在の情勢、状況を実現不可能の障害と看做したこと以外に現在の情勢、状況に身を寄せた理由を見つけることはできない。
自身の主義・主張を貫こうとする場合、困難な戦いが必要となるが、現在の情勢、状況次第の姿勢を取る場合、戦う必要はなく、より楽な調整のみで済ますことができる。
福島「菅さんは市民派って言っています。私も市民運動の出身だと思っています。建設を強行するのではなく、民主的なプロセスを尊重することが必要じゃないんですか。反対、はっきり全会一致で出ているんですよ。その沖縄をどうして踏みにじるんですか。どうして切り捨てるんですか。自民党の手法と変わらないですよ」
沖縄県議会が7月9日、日米両政府に日米合意の共同声明を見直すよう求める意見書と決議を全会一致で可決している。
岡田外相「ま、ですから、沖縄のみなさんの理解が必要であると、いうふうに申し上げているわけでございます。勿論、それを踏みにじることは、ま、そういったことを考えているわけではありません。しかし、それでは全体の、全体としての安全保障の問題、どうなるんでしょうか。一体どうやってこの国を守っていくんでしょうか。国民の生命と財産、どう守るんでしょうか。そのことに対する答がやはりなければ、私はあまりに一方的な話ではないかと、そういうふうに思っております。
まあ、福島委員とはですね、一時期政権を共にしましたが、政権を担っていくということは、やはり重荷を背負っていくことでもあります。私はこの重荷を共に背負えなかったことは非常に残念に思っております」
福島党首は岡田外相の、「一体どうやってこの国を守っていくんでしょうか。国民の生命と財産、どう守るんでしょうか」に答えなければ、県外、もしくは国外への移設の主張は効果を失う。だが、安全保障をどうするかは大事だけどと言ったのみで、沖縄県民の反対意思を訴える従来の主張を繰返し、直接的には岡田外相の問いかけに答えなかった。
福島「安全保障をどうするかっていうのは大事なんです。でも、沖縄の人たちが、あるいはこれにどうして納得しないかと言えば、安全保障の名の元に新たな負担を、新たな基地を造ることは納得できないって言ってるんです。そこを安全保障という名の下に、やっぱり言うことを聞け、っていう形になっているじゃないですか。現に抗議するというのが出ているんですよ。・・・・・」
福島党首よりも前に「どっこいしょ 立ち上がれ日本」の片山虎之助(追及になかなか迫力があった。)を挟んで井上哲士(さとし)共産党参議院議員が質問に立っている。
井上「総理、沖縄の基地の成り立ちというものがあります。これについては、総理、どういう、この歴史について、認識をお持ちでしょうか」
菅首相「ま、沖縄は、ま、戦後長く、うー、米軍の、施政権の元に、あって、えー、そういった中で、えー、戦後を、おー、の、ま、期にまさに地上戦が戦われ、その中で、えー、米軍によって、えー、新たな基地が、ア、沖縄の中に建設をされたと、えー、そして日本に、復帰を――、したのちに、於いて、え――・・・、ま、沖縄以外の地域の、米軍基地、の、エー、返還に比べて、えー、ある意味、え――・・・・、あまり、いー、進むことができない中で、多くの基地が、今日も、沖縄に、えー、あり、それが、ある意味での過大な、沖縄のみなさんへの、オー、負担となっていると。そのように認識をいたしております」
これだけのことを言うのに、次の言葉をスムーズに出すことができず、「えー」、「おー」、「あー」等々、呻かなければならない。この発言を聞いて、沖縄の、本人が言っている「過大な負担」を言葉通りに感じ取ることができた者はどれくらいいただろうか。
「えー」、「おー」、「あー」と呻きながら、記憶にある歴史をなぞりつつやっと思い出したといったところで、自身の心底からの認識となっていないことの証明以外の何ものでもない言葉の一連となっている。
自身の出自を「普通のサラリーマンの息子」だと語るときには言葉は滔々と流れ出す。血肉と化した自身の認識となっているからだ。自慢話は言葉に困ることはない。
心にある認識ではないにも関わらず、「沖縄の過大な負担」を言う。
心にある認識ではないことは一旦は自らの主義・主張とした、「県外、国外に移設すべきだ」を現在の情勢、状況に身を任せて撤回したことからも証明できる。
撤回しないことよって、沖縄への認識は血肉化していく。
1945年(昭和20)4月1日から6月23日までの沖縄戦のたった約3カ月の間に島民約50万人の内10万人以上が犠牲になった。日本軍が住民を守らなかったことが非戦闘員である住民の犠牲をこれ程にまで強いたと言われている。そして戦後は1972年(昭和47)5月15日に日本に施政権が返還されるまでアメリカの占領、及び施政権下に置かれ、現在も全国土の0.6%しかない土地に在日米軍基地の75%が集中。
沖縄戦開始から現在までの、さらにこれからも続く沖縄及び沖縄県民の負担の総量は、気の遠くなるような、不公平なまでの膨大な量になっていると言えないだろうか。
にも関わらず、沖縄の膨大な負担の総量を横に置いたまま、安全保障の観点からも抑止力の観点からも沖縄に基地を置くことは必要だとの前提で、菅首相は口先だけで、「それがある意味での過大な沖縄のみなさんへの負担となっていると。そのように認識をいたしております」と、「過去の発言について、色々言うことは控え」て言い、岡田外相は「一体どうやってこの国を守っていくんでしょうか。国民の生命と財産、どう守るんでしょうか」と、沖縄により多くの負担を負わせようとする。
軍事的な安全保障の観点からの「国民の生命と財産を守る」は、当然のことながら、「生命と財産を守」られる受益者は「国民」自身である。
国民自身が軍事的安全保障の面で「生命と財産を守」られる受益者の立場にあるなら、当然、受益に応じた軍事的安全保障の負担を負う義務を有するはずである。
だが、この点に於いて、二つの種類の国民が存在する。
一つは沖縄県民。全国土の僅か0.6%の沖縄の土地に在日米軍基地の75%が集中しているという軍事的安全保障上の偏った過大な負担のみならず、それと併せた戦前から現在にかけての、そして将来に亘る時間系列の気の遠くなるような膨大な負担を負い、これからも負わされようとしている。
もう一つの国民とは今更言うまでもなく本土の国民である。
果して本土は自分たちの「生命と財産を守る」にふさわしい負担を担ってきただろうか。偏った過大な負担を沖縄及び沖縄県民が背負うに任せて、あるいはそのことに慣れてしまって、無頓着ではなかったろうか。
「国民の生命と財産を守る」軍事的安全保障に関して、守られる対象の受益者として国民一人ひとりが軍事的安全保障体制を可能な限りより公平に負担を負うべく義務意識を持つよう、民主的手段を以って働きかけ、その方向に持っていく責任は政府にある。
「国民の生命と財産を守る」軍事的安全保障に関して、守られる対象の受益者として国民一人ひとりが可能な限りより公平に負担を負うことができる軍事的安全保障体制を構築する責任にしても政府に帰す。
国民自らの生命と財産が守られると言うのに、守るための負担を国民の誰かに過大に押し付けるのは間違っていると言うことである。と同時に、守るための負担を国民の誰かに過大に押し付けたままの体制を放置しておく軍事的安全保障政策は政府の不作為、無責任に当たると言うことである。