福島原発事故対応に於ける菅の大罪は3月15日政府・東電統合本部設置情報一元化が象徴している

2012-08-04 13:18:07 | Weblog

 ―2010年9月民主党代表選挙での間違えた選択が菅政権の東日本大震災に於ける地震・津波対応、福島原発事故対応の混乱を招いた―

 少し前の7月24日(2012年)の記事になるが、菅政権下で首相補佐官を務めていた細野豪志環境相が福島原発事故独立検証委員会(民間事故調)のヒアリングで、菅が日本を救ったと発言していたという。

 《「菅元首相は日本を救った」と細野環境相》MSN産経/2012.7.24 23:45)

 民間事故調がホームページで公開した発言だそうだが、インターネット上を探したが、見つからなかった。

 細野環境相「菅直人元首相は何の躊躇(ちゅうちょ)もなく『撤退はありえない』と言った。日本を救ったと今でも思っている」

 素晴らしい判断力だと思う。

 細野は7月15日(2012年)日曜日のフジテレビ「新報道2001」に福島の川内村遠藤村長と共にテレビ中継出演していた。国会事故調のメンバーを務めていた野村修也中央大法科大学院教授がスタジオ出演していて、政府の現場に対する過剰介入等の不適切な対応が原発事故の混乱を招いた一面があるといった趣旨の指摘に対して、次のように功罪相半ばを謀っている。

 細野環境相「当時の専門家としてのですね、関わり方に不明確な点があった部分はあったと思います。つまり現場の作業をやっていいる所長を始めとした皆さん課せるべき部分(皆さん課せるべき部分=任せるべき部分)と東電の本店が介入すべき部分、そして政府の班目委員長を始めとした技術者がアドバイスすべき部分、そこが半ば渾然一体となっていて、役割分担が不明確であったことは問題であったと思います。

 ただ、その一方で、政府の介入が問題だったとのみの指摘があるのですが、トータルで見ると、私はそうではないと思う部分があると思っています。残念ながら役に立他なかったものはありましたけども、例えば、電源車ですとか、水源車を大量に現地に送ることができたのは政府のバックアップがあったからです。

 コンクリートポンプ車というものを現地に送りましてプールへの放水を本格的に行うことができるようになりました。これは非常に大きかったんですね。

 で、そこについては政府がバックアップしたことが非常に私はプラスの効果をもたらしたと思います。

 そん中で最大の反省点は何かということを申し上げたいと思います。それは当時の原発の状況に目を奪われる余りですね、福島の皆さんが当時どういう状況だったのかということに対する想像力なりですね、そこに対する、本当の意味でのしっかりとした情報提供というのは私は疎かだったと思います。

 改めて今川内村に来ていてですね、この福島に来るたびに、そのことをですね、思い出します。

 ですから、それが一番大事で(手を上下に振って強調する)、そういう皆さんにどういう情報を出し、何ができたのかということを政府として相当深刻な検討が必要だと思います」

 情報提供に疎漏があった、的確・適切な疎漏のない情報提供が一番大事な肝心要なことだと言いながら、電源車や水源車、コンクリートポンプ車を手配し、現地に送ったといった、政府の役割としては二次的な補助行為に過ぎないことを論(あげつら)って、過剰介入を免罪しようとしする矛盾を平気で演じている。

 菅が補佐官等に指示して手配させれば片付く問題であり、各関係自治体や住民に対する肝心の情報提供という政府自身が専念しなければならない役割を疎かにしたのでは政府としての意味を失う。

 だが、細野にはこのことは気づいていない。

 コンクリートポンプ車について言うと、「スポニチ」(2011年3月17日 23:21)記事によると、三重県四日市市の建設会社が3月17日、所有する、旧ソ連チェルノブイリ原発事故封鎖に活躍した重機と同型のドイツ・プツマイスター社製コンクリートポンプ車を原発への放水に利用してほしいと国に申し出たのが発端となっている。

 細野と共に中継出演した遠藤川内村村長が原発事故を知った経緯について発言している。

 遠藤村長「富岡町の町長が避難指示が出た、その避難先として川内村に避難させてくれと依頼を受けたとき、原発事故を知った。3月12日の朝の6時半頃だった」

 富岡町の避難先だった川内村も全域が警戒区域と緊急時避難準備区域に指定されて全村が避難することになった。情報非共有、情報停滞がどれ程に自治体や住民を混乱に陥れたことだろうか。

 福島原発事故対応の菅の功績を多くが東電全面撤退阻止と3月15日政府・東電統合対策本部設置による情報一元化を挙げる。 

 福島原発事故対応検証チームの「福島原発事故独立検証委員会」(民間事故調)は菅の東電撤退阻止を「東電を現場に残留させたことが菅氏の最大の功績」とし、政府・東電統合対策本部設置を「危機対応のターニングポイントになった」と大評価している。

 同じ検証チームの「政府の事故調査・検証委員会」は、一部必要人員を残した部分撤退を計画していたとし、東電の全面撤退そのものは否定したものの、統合対策本部設置を、「結果的には情報共有が図られるようになり状況は改善されたが、事故対策本部の在り方には問題を残した」と、統合対策本部設置そのものは評価している。

 「国会 東京電力福島原子力発電所事故調査委員会」(国会事故調)は東電の全面撤退に関しては、「東電が全員撤退を決定した形跡は見受けられない」と否定、統合対策本部設置に関しては一切評価せず、「政府の本来の役割は住民避難などオフサイト(原発外)対応にあり、事故対応の責任は第一義的に事業者にある」と結論づけている。

 私自身は何度もブログに書いてきたが、東電の全面撤退に関しては、菅のマスコミとのインタビュー時の発言と国会事故調参考人証言時の発言が異なっていること、清水社長と官邸で会う前に現場の吉田所長と電話で会話していて、吉田所長の「まだやれます」という言葉を聞いていながら、清水社長の全面撤退との食い違いを指摘して、その意志の確認を怠ったまま、菅が「撤退はあり得ませんよ」と言ったのに対して、清水社長が「ハイ、分かりました」と簡単に応じたと国会事故調で証言していることから、清水社長には実際には全面撤退の意志はなかったと見ている。

 3月15日政府・東電統合対策本部設置の適切性を見てみる。

 3月11日(2011年)14時46分に東日本大震災発生。
 3月11日15時42分に東電、政府に対して原子力緊急事態発生の原災法第10条通報。
       16時45分に東電、政府に対して一段上の原子力緊急事態発生の原災法第15条通報。
 3月15日5時35分に東電本店に政府・東電統合対策本部を設置。

 原災法第15条通報の3月11日16時45分から3日半後の政府・東電統合対策本部設置である。

 いずれの検証チームも設置の早い・遅いを見ずに、情報の一元化に役立ったとか、役立たなかったとか評価している。

 東日本大震災発生の約5カ月近く前の2010年(平成22年)10月21・22日に当時の菅首相を原子力災害対策本部本部長とする中部電力浜岡原子力発電所第3号機、原子炉給水系故障による原子炉冷却機能喪失、放射性物質外部放出事態想定の、政府、地方自治体、その他関係事業者等による「平成22年度原子力総合防災訓練」を行なっている。

 この訓練は「原子力災害対策特別措置法」第13条に基づいて国に義務付けている。

 訓練とは万が一の本番に備えた危機管理を頭に記憶させ、身体に覚えさせる学習機会である。当然訓練とは言え、第13条は本番となった場合と同様に原子力緊急事態宣言の発出及び原子力災害対策本部の内閣府設置、原子力災害現地対策本部(本部長:副大臣)のオフサイトセンター(緊急事態応急対策拠点施設や原子力防災センターと呼ばれている)内設置を規定している。
 
 だから、原子力災害対策特別措置法に基づく「原子力緊急事態宣言」の発出が東電の原災法第15条通報の16時45分から午後19時3分と約2時間20分も遅れたこと自体が奇異なことである。

 遅れた理由を当時の海江田経産相が証言している。

 海江田元経産相「私は、あのー、事務方から、あー、報告受けましたから、えー、すぐに、うー…、まあ、そのー、すぐに(原子力緊急)事態宣言を、オー、発して、貰えるものだと思っておりました。

 法律の、おー、“たてつけ”と申しますか、ま、そういうことについて、えー、質問がありました。ま、うまく答えられなかったと、言うこともあって、ま、時間がかかったと思います」(TBSテレビ「官邸初動5日間 原発事故緊迫の舞台裏 初動を検証」

 2010年(平成22年)10月21・22日の「平成22年度原子力総合防災訓練」に関係大臣として参加していたのは大畠経産相である。自身が知らなかったとしても、事務方に問い合わせれば、如何なる法律に基づいた原子力緊急事態宣言の発出か直ちに理解できたはずだが、総理執務室の隣の首相秘書官室で秘書官たちが六法全書を開いて探し、探し当てた条文のコピーに時間を取られたという。

 インターネット上から捜し出して、ペーストアンドコピーで直ちにパソコンに取り入れて印刷すれば短時間で済むというのにである。

 あるいは直接印刷に回すこともできるが、パソコンに保存しておけば、必要箇所を即座に検索可能となる。

 何れにしても、菅の頭から平成22年度原子力総合防災訓練で行った原子力緊急事態宣言発出が抜け落ちていた。

 そもそもの出発点から、判断能力を欠いていたのである。

 原子力安全・保安院のHP記事――《News Release 平成22年度原子力総合防災訓練の実施について》(2010年〈平成22年〉9月29日)には次のような記述がある。

 〈原子力施設において、放射性物質が環境に大量に放出されるおそれが生じるなどの緊急事態の発生に備え、原子力災害対策特別措置法に基づいて、国、地方公共団体、事業者等が一体となって、周辺住民の安全確保等のための応急対策を講じることとされています。

 本訓練は、同法第13条等に基づき、こうした緊急事態対応の訓練を行うものであり、今年度は静岡県の中部電力株式会社浜岡原子力発電所における緊急事態を想定した訓練を10月20日(水)及び21日(木)の2日間実施します。〉・・・・・

 〈訓練実施項目

 内閣総理大臣による緊急事態宣言発出、政府原子力災害対策本部及び現地対策本部の設置などに係る訓練〉・・・・・

 文部科学省のHPには、当たり前のことだが、「緊急時迅速放射能影響予測システム(SPEEDI)」のモニタリングシミュレーション実施の記述がある。

 問題は原子力安全・保安院のHPに記述がある、訓練で行ったはずの原災法第17条に基づいた現地対策本部の設置である。

 原災法第17条は次のように規定している。〈原子力災害現地対策本部の設置の場所は、当該原子力緊急事態に係る原子力事業所について第12条第1項の規定により指定された緊急事態応急対策拠点施設(オフサイトセンターのこと)(事業所外運搬に係る原子力緊急事態が発生した場合その他特別の事情がある場合にあっては、当該原子力緊急事態が発生した場所を勘案して原子力災害対策本部長が定める施設とする。 〉・・・・

 〈事業所外運搬に係る原子力緊急事態〉とは、核燃料等を外部運搬中に事故等を原因として放射能が漏出・拡散する事故を指すのだろう。

 いずれにして、〈特別の事情がある場合にあっては、当該原子力緊急事態が発生した場所を勘案して原子力災害対策本部長が定める施設〉に「原子力災害現地対策本部」を設置しなければならないと規定している。

 福島原発に関わるオフサイトセンターは福島第1原子力発電所から約5km、福島第二原子力発電所から約12kmの大熊町内の地点にあるという。

 この大熊町の「原子力災害現地対策本部」を中継地点として、官邸内「政府原子力災害対策本部本部」、経済産業省、関係市町村、福島第1、第2原子力発電所、及び東電本店等がテレビ会議システムによって情報共有を図る構造となっていた。

 菅が原子力災害対策本部本部長として陣頭指揮に当たった平成22年度原子力総合防災訓練でもテレビ会議システムを活用、情報共有や情報交換を行なっている。

 HP、《平成22年度原子力総合防災訓練実施要領》(平成22年10月)には次のような記述がある。
 
 〈テレビ会議システムの活用

トラブル通報後、原災法第10条に基づく通報事象に至る可能性があると判断された後の初動態勢の確立及び原子力緊急事態の発生後の緊急事態応急対策の実施等に際して、テレビ会議システム等を活用して現地と中央の意見交換を行う。〉・・・・・

 〈放射性物質放出のおそれがなくなった後の緊急事態解除に関して、政府対策本部、静岡県浜岡原子力防災センター及び関係地方公共団体の間でテレビ会議システムによる情報共有及び意見交換を行う。このうち、住民防護対策に関する政府現地対策本部長からの指示に係るテレビ会議と放射性物質放出のおそれがなくなった後の緊急事態解除に係るテレビ会議には、原子力安全委員会も参加する。〉・・・・・

 〈現地対策本部長から関係地方公共団体の長に対する避難等の指示は、静岡県浜岡原子力防災センター(オフサイトセンターのこと)と静岡県庁をテレビ会議で結んで実施する。〉・・・・・

 以上のことから、県庁もテレビ会議システムの連絡網に組み込まれていることが分かる。

 この広範囲な即時性を持たせた連絡網は放出放射線量によっては拡散範囲が即座に拡大していく放射能の特性に対応した措置であろう。

 オフサイトセンターの活動状況について、東電のHP――《福島第一原子力発電所事故の初動対応について》東京電力株式会社/2011年〈平成23年〉12月22日)が次のように記述している。
 
 〈(5)オフサイトセンターでの活動状況

 当社から行われた3月11日16時45分の原災法第15条報告により、約2時間後の同日19時03分に、内閣総理大臣から原子力緊急事態宣言が発令されるとともに、官邸に原子力災害対策本部が、現地の緊急対策拠点であるオフサイトセンターに原子力災害現地対策本部(原子力災害合同対策協議会)が設置された。

 オフサイトセンターは、原子力災害発生時には情報を一元的に集め、緊急時の対応対策を決定する重要な機関となっている。このため、その開設時には、福島第一、第二原子力発電所からの要員派遣の他、本店からは原子力・立地本部長等が派遣され、即座に判断できる体制としていた。〉・・・・・

 要するに浜岡原発事故想定の平成22年度原子力総合防災訓練でも、オフサイトセンターが原子力災害発生時の情報一元的収集と緊急時対応対策決定の重要な機関となっていたはずであり、原子力災害対策本部本部長として訓練に参加した菅はこのシステムを学習していなければならなかった。

 例え失念していたとしても福島原発事故発生と同時に記憶に呼び覚まさなければならなかった。

 (上記東電HP)〈内閣総理大臣から原子力緊急事態宣言が出された19時03分にはオフサイトセンターへの要員派遣の準備は整っていた。しかしながら、オフサイトセンターの原子力災害現地対策本部は、地震による外部電源の停電や非常用ディーゼル発電設備の故障の影響もあって当初活動ができない状態となっており、一部要員を除き、オフサイトセンターが開設された翌12日まで待機した。(武藤原子力・立地本部長は待機の間に大熊町、双葉町を訪問し、状況説明等を行っていた。)〉・・・・・

 オフサイトセンターは官邸や福島原子力発電所、東電本店、福島県庁その他をテレビ会議システムで結んで情報一元的収集と緊急時対応対策決定の重要な機関と位置づけている以上、何事も緊急を要する事態にあった、あるいは緊急事態の拡大・悪化を想定しなければならない状況にあった以上、活動できない状態に陥ったなら、原子力災害現地対策本部本部長の菅は、原災法第17条が例外として規定しているようにオフサイトセンターを別の場所に移動し、そこを情報一元的収集と緊急時対応対策決定の重要な機関に替えるべきだった。

 だが、そうしないで、翌日の3月12日まで待機した。菅の頭は福島現場視察で一杯だったのかもしれない。

 (上記東電HP)〈(3月)12日3時20分に活動が開始されたとの情報を受け、当日中には合計28名(14日は最大で38名)が同所での活動を実施した。本店緊急時対策本部から発電所支援のために来ていた原子力・立地本部長以下5名の本店の要員についても、活動開始以降12日中にオフサイトセンターへ入っており、上記人数に含まれている。

 オフサイトセンターの当社派遣要員は、当社の使用ブースに設置され、地震等による被害を受けず機能が維持されていた当社所有の保安回線を介するTV会議システムや保安電話等を活用して、発電所及び本店の対策本部との間でリアルタイムの情報共有を図ることが出来た。

 その後、原子力災害の進展に伴い、オフサイトセンター周辺の放射線量の上昇や食料不足などに伴い、継続的な活動が困難との判断がなされ、15日に現地対策本部は福島県庁に移動した。〉・・・・・

 なぜここに首相官邸が加わって、〈リアルタイムの情報共有〉を図っていなかったのだろう。加わっていたなら、少なくとも3月15日に福島県庁に現地対策本部を移動するまでの間、〈リアルタイムの情報共有〉を図ることができていたはずである。

 だが、菅は官邸に座っていて、情報が上がってこないと騒いでいた。

 また、例え福島県庁に現地対策本部を福島県庁に移動したあとも、県庁とオフサイトセンターはテレビ会議システムデ繋がっていたはずだから、官邸と福島県庁をテレビ会議システムで直ちにつなげれば、大熊町オフサイトセンターの代用となり得たはずだ。

 政府事故調の報告書にはテレビ会議システムに関する官邸の認識を次のように記述している。

 〈官邸5階のメンバーの中で、東京電力本店が福島第一原発とテレビ会議システムでつながっていることを知っていた者はおらず、統合本部は同システムを活用するとの意図で提案されたものではなかった。これらのメンバーは、3月15日早朝、東京電力本店に出向いて初めてテレビ会議システムの存在を知ったのであり、統合本部の設置は、結果的に予想以上の情報格差の改善効果をもたらしたと認められる。〉・・・・・

 要するに偶然が幸いした政府事故調の「結果的には情報共有が図られるようになり状況は改善されたが、事故対策本部の在り方には問題を残した」統合対策本部設置評価であり、民間事故調の「危機対応のターニングポイントになった」統合対策本部設置評価ということになる。

 首相官邸は平成22年度原子力総合防災訓練で行った、オフサイトセンターを中継地点とした官邸、原子力発電所と中電本店、静岡県庁との間のテレビ会議システム活用の情報一元的収集と緊急時対応対策決定を福島原発事故という本番で何ら活用しなかった。

 平成22年度原子力総合防災訓練で行った原子力緊急事態宣言の発出を始め、SPEEDIモニタリングシミュレーション、テレビ会議システム活用の情報の一元化管理、オフサイトセンター設置の原子力災害現地対策本機能活用等々が菅の頭から全てすっぽりと抜け落ちていたことが、原子力災害対策本部本部長として自らが担わなければならなかった情報共有や情報発信等の情報管理システムの的確・迅速な構築以前に3月12日早々に現場を視察するといった過剰介入を招いた。

 あるいは放射能避難住民に対する的確な情報提供を怠ることになった。

 SPEEDIに至っては福島原発事故発生直後から文科省が放射性物質拡散予測を行なっていながら直ちに公表せず、菅はその存在すら知らなかったと言っている。

 政府は3月23日にSPEEDIの予測結果を一部のみ公開、5月2日になって公式に公開を開始しているが、一事が万事と言っていい程のあまりにも遅過ぎる情報公開であった。

 全ては菅自身が合理的な判断能力を欠いた指導者であったことが原因の危機管理無能力に発している。

 既に触れたように政府事故調のテレビ会議システムの活用に関する報告は、官邸5階のメンバーは〈3月15日早朝、東京電力本店に出向いて初めてテレビ会議システムの存在を知った〉と記述しているが、この「官邸5階のメンバー」は菅も入っているはずだ。菅が知っていたなら、他のメンバーも知ることになる。

 だが、菅は政府事故調の証言よりも後の国会事故調の参考人証言で、3月15日に東電本店に乗り込んだ時の様子を次のように発言している。

 「入ってみると、大きなテレビ会議のスクリーンが各サイトとつながっていて、24時間、例えば第2サイトとの状況もが分かるようになっていました。

 ですから、あとになって、私があそこで話したことはそこにおられた200名余りの皆さんだけではなくて、各サイトで聞かれた方もあったんだろうと。私はそれを公開するとかしないとかの話がありましたけどけれども、私自身は公開して頂いても全く構わないというか、私は決して止めるわけではありません」

 前段のところでは、さもテレビ会議システムの存在を知っていたかのように話している。

 だが、後段のところで、「あとになって、私があそこで話したことはそこにおられた200名余りの皆さんだけではなくて、各サイトで聞かれた方もあったんだろうと」と言っているように、「あとになって気づいたのだが」と言いそうになって、前段と矛盾することに気づいたのだろう、「気づいたのだが」という言葉を咄嗟のところで飲み込んだ。

 「気づいたのだが」という言葉を付け加えなければ、後段の意味は全体として通らないことになる。

 政府事故調の報告にあるように東電本店に乗り込んでから一定の時間が経過後、テレビ会議システムの存在を知ったのである。

 その部屋にいた東電幹部を怒鳴り散らすことができたのも、第1現場にも繋がっていることを知らぬが仏でできたことと疑うこともできる。

 飛んでもないウソつきであるということばかりか、こういった程度の低いウソつきを国家の指導者に奉ったことは国の悲劇である。2010年9月民主党代表選挙で小沢一郎元代表を選択すべきだったが、民主党は満足な判断能力を有しないウソつきを代表に選択した。

 代表選択の間違った判断能力が未だ罷り通っているからだろう、菅が国を救ったという言辞を許すこととなっている。

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