(1)2012年日本敗戦日放送NHKSP「終戦 なぜもっと早く決められなかったのか」文字化(前編)

2012-08-17 12:41:08 | Weblog

 ここでは一切たいしたことはない論評を加えずに、文章化したままを掲載することにした。日を改めて、大したことのない論評を加えたいと思う。

 皆さんは皆さんなりに解釈して欲しい。

 文字化と清書に年寄りにはきつい程大変時間がかかるために、(1)と(2)に分けることにした。(2)は明日。

 NHKSP「終戦 なぜもっと早く決められなかったの」(2012年8月15日放送)

 若手俳優の竹野内豊が進行役の一人を務めている。

 放送局側の進行役の、「~しました」といった丁寧語は省略して、「~した」というふうに表現することにする。

 望む人の記憶に供するために可能な限り忠実に際限したいと思う。

 竹野内豊「今日は8月15日。多くの犠牲を生んだ太平洋戦争が日本の敗北で終わった日である。なぜあのとき、日本はアメリカと戦い続けたのか。なぜもっと早く戦争をやめることができなかったのか。

 NHKではこれまで未公開だった資料や膨大な関係者の証言を検証してきた。その結果、新たに多くのことが分かってきた。敗戦間際まで本土決戦を叫んでいた、日本の指導者たちは実は早い時期から敗北を覚悟し、戦争終結の形を模索していた。

 ならばなぜ、戦争終結の決断はできなかったのか。

 67年前の歴史の闇に迫りたいと思う」

 ここで画面に、『終戦 なぜ早く決められなかったのか』(The end of the war)の文字。

 オリンピック開催中のロンドンが映し出される。

 ナレーション(女性)「イギリス、夏のオリンピックが開催されたイギリス・ロンドンから、戦争末期の日本の歴史観を塗り替える大きな発見があった」

 イギリス国立公文書館建物。その内部。

 ナレーション(女性)「第2次対戦当時の膨大な機密書類が保管されている」

 イギリス人女性館員「これは当時の日本の外交官や武官が本国と遣り取りしていた極秘電報です。それをイギリス側が解読していたのです

 ナレーション(女性)「(『ULTR』)ウルトラと呼ばれる最高機密情報。この中に日本のヨーロッパ駐在武官が東京に送った暗号が残されている。数千ページもの極秘電報の中から今回見つかったのは戦争末期の日本の命運を左右する、ある重大な情報である」

 昭和20年5月(24日)、スイス・ベルンの海軍武官電報。

 『ヤルタ会談でソ連は対日参戦を約束した』

 ナレーション(女性)「当時の日本が知らなかったとされるソビエトの対日参戦情報である。

 昭和20年8月9日、ソビエトは中立条約を破棄して侵攻した。敗戦の決定打ともなった対日参戦が日本では不意打ちだったとされてきた。

 この半年前(昭和20年2月)、ヤルタ会談でアメリカ、イギリス、ソビエトの間で密約の形で取り決められたソビエトの対日参戦。もし日本がこの情報を事前に掴んでいたなら、終戦はもっと早かったとも言われてきた。

 しかし情報が届いていたことが確認されている」

 ヤルタ会談でのチャーチル、ルーズベルト、スターリンの写真が映し出される。

 ナレーション(女性)「情報が届いていたにも関わらず、なぜ早期終戦に結びつかなかったのか」

 防衛省防衛研究所の建物。

 小谷防衛研究所調査官「これは結構新発見じゃないですか」

 ナレーション(女性)「情報機関の研究が專門の防衛研究所、小谷賢調査官。NHKと共に共同で極秘電報の分析に当たってきた。

 参戦情報の報告は一通だけではなかった。6月(昭和20年6月8日)、リスボンの陸軍武官電」

 男性ナレーション「7月以降、ソ連が侵攻する可能性は極めて高い」

 ナレーション(女性)「同じ6月(昭和20年6月11日)、ベルンの海軍武官から」

 男性ナレーション「7月末までに日本の降伏がなければ、密約通りソ連は参戦する」

 ナレーション(女性)「驚くことにヨーロッパの複数の陸海武官が迫り来るソ連参戦の危機を刻々と警告していた」

 小谷防衛研究所調査官「今までは日本政府は陸海軍共、ヤルタの密約については何も分かっていなかったと。で、8月9日のソ連参戦で初めて、皆がびっくりしたというのが定説だったと思いますけれども、やはり情報はちゃんと取れていたことがですね、この資料から明らかになっていると思います。再考証が必要になってくる事態ではないかと思います」

 ナレーション(女性)「早くから把握されていたソビエトの参戦情報。その一方で研究者や公的機関に残されていた軍や政府関係者の專門の証言テープからも、新たな事実が浮かび上がってきた。

 国のリーダーたちは内心では終戦の意志を固めながら、決断の先送りをしてきたことが明らかになってきた」

 陸軍省軍務課長(録音音声)「阿南(陸軍大臣)さんの腹ん中は講和だったんですよねえ。初めっから講和なんですよねえ。

 ところが(徹底抗戦を)主張せざるを得なかったわけですよね」

 終戦工作担当海軍少将(録音音声)「3人以上だとね、あの人(鈴木貫太郎首相)何も喋らない。だけど、差しだと本当のこと言うんです。腹とね、その公式の会議に於ける発言とね、表裏がね、違って、一体いいものかと――」

 後に出てくる高木惣吉海軍少将のことらしい。

 ナレーション(女性)「大戦に於ける日本人の死者310万人。犠牲者は最後の数カ月に急増していた。

 そしてシベリア抑留者、中国残留孤児、北方四島問題など、後世に積み残される様々な課題が戦争最後の時期に発生した。

 もっと早く戦いをやめ、悲劇の拡大を防げなかったのだろうか」

 『熊本県人吉町』のキャプションとその街のシーン。

 ナレーション(女性)「終戦の歴史を紐解く上で重要な一人の軍人の故郷(ふるさと)が熊本県にある。川越郁子さん。親族として個人が残した膨大な資料を大切に保管してきた。

 海軍少将高木惣吉。戦争末期、海軍トップの密命を受け、戦争終結の糸口を探る秘密工作に当たっていた人物である。終戦工作の過程を克明に記録したメモ等が近年になって次々と発見され、殆ど記録に残っていない戦争末期の国家の舞台裏が生々しく蘇ってきた」

 録音機と数多いテープの映像。

 ナレーション(女性)「未公開の内容を多数含む複数の肉声の存在も明らかになった」

 海軍少将高木惣吉(録音音声)「目ぼしい連中をね、当たって、『どうだろう、終戦をやろうじゃないか』、陰謀をやってたわけなんです。松本くん(陸軍大佐松谷誠)とはしょっちゅう会ったし、個人的にも会ってね、段々こうして話しているとね、こんなにね、(戦争終結の)見通しっていうのは違っていないんですよ。やっぱりね。

 終戦という言葉は使いませんよ。だけど、戦局はもう、ものすごくクリティカル(重大)な点にきているというようなね、そういう表現で、殆どの意見はそんなに変わらない」

 主たる登場人物の肩書きと写真。

 海軍大臣 米内光政(よない みつまさ)
 陸軍大臣 阿南惟幾(あなみ これちか)
 外務大臣 東郷茂徳
 宮中(内大臣) 木戸幸一
 
 海軍少将 高木惣吉
 陸軍大佐 松谷誠
 外務大臣秘書官 加瀬俊一
 内大臣秘書官長 松平康昌
 
 ナレーション(女性)「陸海軍、外務省、宮中、高木は主要な組織の中に連携する人物を見つけ意見を交換しながら、終戦の実現を目指そうとしていた。

 事態が大きく動き出したのは昭和20年春からである。4月、米軍はついに沖縄に上陸を開始し、戦場は本格的に日本国内へと移った」

 B29が爆弾を次々に投下していく空襲シーン。

 ナレーション(女性)「日本本土は連日の空襲に曝され、3月と4月だけで20万人の犠牲者を生んでいた。5月には同盟国ドイツが降伏。その翌日、アメリカのトルーマン大統領は日本の軍部に無条件降伏を要求した。

 竹野内豊「このとき国家のリーダーたちはどう考えていたのだろうか。その主役は6人の人物だった。内閣総理大臣の鈴木貫太郎、外務大臣の東郷茂徳、陸軍大臣阿南惟幾、海軍大臣米内光政、陸軍参謀総長梅津美治郎、海軍軍令部総長及川古志郎。

 当時の国家組織は軍と政府が別々の情報系統を持ち、事態が悪化する中に於いて情報を共有しないなど、タテ割りの弊害が露わになっていた」

 外務大臣――外務省情報部
 
 ――(情報非共有)――

 陸軍大臣――参謀総長――参謀本部情報部
 海軍大臣――司令部総長――軍令部情報部

 竹野内豊「この際、6人のリーダーはタテ割りを排し、腹を割って本音で話そうと側近を排除した秘密のトップ会議を始めることにした」

 ナレーション(女性)「昭和20年5月11日、6人のリーダーが極秘に宮中に集まった」

 〈高木惣吉の記録等をもとに再構成〉のキャプション

 会議室。列席している6人の首脳。

 外務大臣東郷茂徳「我々6人のみで戦争終結への道筋をつけたいと思った次第である。まだ国力があるうちに着手すべきである」

 ナレーション(女性)「軍のトップも戦争終結が最大の課題だと認識していた。講和を結ぶのは米軍に対して一撃を加えたあと、というのが条件としていた。

 一撃でアメリカが動揺を来たしたところで交渉を持ちかけ、少しでも有利な条件で講話しようという考えである。

 その際の日本のベストシナリオとして浮かび上がったのが中立を守る大国ソビエトを交渉の仲介役に利用しようというものだった」

 日本のこれまでの主たる戦績がキャプションで示される。

 サイパン島陥落 昭和19年7月
 硫黄島陥落 昭和20年3月
 
 陸軍大臣阿南惟幾「まだ日本は領土をたくさん占領している。負けていないということを基礎にしてソ連との話を進めるべきだ」

 海軍大臣米内光政「我が国にもっと有利になるような友好的な関係をソ連と築くチエはないのか」

 ナレーション(女性)「東郷外務大臣はソビエトへの大幅な譲歩を提案した」

 外務大臣東郷茂徳「対ソ交渉を進めるには相当の代償を考えておく必要がある。ソ連の要求をある程度呑むという決意が必要である」

 ナレーション(女性)「長年、日本の仮想敵国であったソビエト。しかし、アメリカ、イギリスと同じ連合国側とは言え、必ずしも一枚岩ではないとの見方があった。

 実際にソビエトへの譲歩が真剣に議論されていた様子を当時の外務省の幹部が戦後に証言している」

 外務省政務局長安東義良(録音音声)「終戦する以上は満州からね、日本の兵隊を引き揚げちゃおうと。中立化しちゃおうと言うんだ、東郷さんが、『梅津参謀総長と僕と米内さんと』と言っておられた。

 3人でいよいよ終戦する以上は、日清戦争前までの状態に返らなきゃならんかもしれんと。

 いやいや、日露戦争前までぐらいではいかんだろうかって言うようなことをお互いに話をしたっていうことを僕に言われたんですよ。与えるべきものはこっちも与えると。向こうに対して譲るべきものは譲ると」

 ナレーション(女性)「ソビエトを和平交渉の仲介役などに利用しようかという議論を終戦間際までトップ6人の間で続くことになる」

 竹野内豊「ここで重大な疑問が浮かぶ。間もなくソビエトが攻めてくることを指導者たちは知っていたはずだ。ロンドンで所在が確認された日本の武官情報。その情報は5月以降、時期や規模などが急速に具体性や精度を上げてきており、陸海軍トップはこれを真剣に受け止めていたはずだ」

 前出の武官電がキャプションで再度掲載。 

 スイス ベルン海軍武官電 昭和20年5月24日 「ヤルタ会談でソ連は対日参戦を約束した」
     ベルン海軍武官電 昭和20年6月11日 「7月末までに日本の降伏がなければ、密約通りソ連は参戦する」
     
 竹野内豊「しかし、このソビエトの参戦情報については、なぜかトップ6人が話し合った形跡はない。

 ソビエトの出方を話し合う6人の秘密会議は6月以降も続いていた。果たして情報はきちんと伝わっていたのだろうか」

 ナレーション(女性)「トップ6人の1人だった東郷外務大臣はソビエトの参戦情報を知っていたのだろうか。参戦情報が早い時期から伝えられていたことは外交官として活躍してきた孫の東郷和彦さんにとっても大きな驚きでした」

 東郷和彦「これは初めて聞きますよね。当然大本営には入っていましたよね。だから、外務大臣に入ってなかったどうか、分からないっていうことですよね。

 ええ、それは東郷茂徳が書き残したすべての中でヤルタで7月に(ソ連が)参戦するという話が決まっていたという話はなかったと思いますからね、東郷茂徳の頭にはね」

 ナレーション(女性)「陸海軍側はソビエト参戦の密約を知りながら、それを外務省に伝えず、ソビエトとの交渉に臨ませようとしていた可能性がある」

 東郷和彦「ソ連の参戦防止、それからソ連をできるだけ友好的に日本に近づける(友好構築)。最後にソ連を通じて仲介をやってみる(和平仲介)。

 と言うのは、4月から6者の共通の意志になっていたわけですから。ですから、その可能性がないんだということを、もし軍が掴んでいたとすれば、大本営がそれを外務省か内閣に出していないんだとすれば、それは何と言うか、信じ難い話ですよねえ」

 ナレーション(女性)「東郷外務大臣のもとでのちに対ソ交渉に当たる安東政務局長は参戦情報は知らなかったと証言している。

 外務省政務局長安東義良(録音音声)「スターリンがルーズベルトと話し合って、あんな日本処理案をお互いに協定しとるね。そんなもんは知らんもんね。こっちは」

 ナレーション(女性)「組織のタテ割りを克服しようと設けたはずのトップ6人の秘密会議。しかしリーダーたちはその最初から国家の最重要情報の共有に失敗していた。

 なぜ共有しなかったのか。当時の軍で支配的だったのは、あくまでも米軍に本土決戦を挑むという考えだった。

 決戦の全体構想を描いた参謀本部作戦部長宮崎周一が当時の思惑を戦後語っている」

 参謀本部作戦部長宮崎周一(録音音声)「ここ(本土)へ上がってきたときにここで一叩き叩けばね、えー、終戦というものを、ものに持っていく、その、動機が掴める。

 それがあのー、私が、その、本土決戦というものを、あれ(計画)を一つの、動機になるんだが」

 ナレーション(女性)「侵攻する米軍を中国大陸に配置した部隊とも連携して迎え撃つ。一撃の時期は夏から秋と想定していた」

 第2総軍参謀橋下正勝(録音音声)「もう国力も底をついておるし、これが最後の戦いになると。

 それで一撃さえ加えれば、政治的に話し合いの場ができるかも分からん。できなければ、我々は、もう、ここで、えー、討ち死にするなり。

 南方の島と違う点は、島はそこで玉砕すれば終わりですがね、これはまだ本土続きですから、いくらでも援兵を送れると」 

 小谷防衛研究所調査官「軍のトップがソビエトの参戦情報を伏せたのは対米一撃のシナリオを維持し続けたかったからではないかと考えています。

 一撃よりも前にソビエト参戦の可能性があるとなれば、一撃後のソビエト仲介による講和というシナリオは崩壊します。一気に無条件降伏に向かう恐れがありました。

 ソ連参戦の情報があって、ソ連が敵に回るということが分かっていればですね、その情報を陸軍として出したくないと。

 当然、最初に作られた作戦ですとか、目的に合わない情報というのはですね、基本的にはそれは無視されるという運命にあるわけです」

 ナレーション(女性)「一方の外務省も軍の情報収集能力を過小評価し、積極的な協力体制を築こうとしなかった。

 東郷外務大臣の側近として終戦工作に関わっていた松本俊一次官の証言」 

 松本俊一外務次官(録音音声)「この人(軍人)たちが世界の大勢、分かりますか。当時の外務省以上に分かるわけないですよ。それは外務省は敵方の情報も全部知ってるわけですからねえ、裏も表も。

 それは知らないのは陸海軍ですよ。陸海軍でいくら明達の人だってね、外務省だけの情報、持っていません。外務省がなぜかならですね、そのー、敵方の放送も聞いてるんです。分析しているでしょう。

 日本の今の戦争の何がどうなっているか、みんな知ってますよね、外務省は」

 竹野内豊「なぜ重要な情報が共有されなかったのか。今もなお多くの謎が残されている。新たに分かった事実をどう把え直すか。専門家の間でも真剣な議論が始まった。

 昭和史の研究をリードする歴史学者の加藤陽子さん。元外交官で国際政治の現実に通じてきた岡本行夫さん(外交評論家)。アジアという視点から日本の政治思想を分析してきた姜尚中(カン・サンジュ)さんの3人です」

 加藤陽子「日本が本当にこの情報を知っていたとすれば、なかなかこれは新しいことで、勿論、知っていたことについては、えーと、当事者の回想という形で残っていました。

 しかし、イギリス側のその電報で証拠が残っていたというのは大きいと思いますけれども」

 岡本行夫「イギリスで見つかった電報って、本当に衝撃的ですね。あそこまでね、外にいた武官たちが掴んでいたということは、私も初めて知りました」

 加藤陽子「それでは、陸海軍はそれを知っていたとして、外務省や鈴木首相、どうでしょうか」

 岡本行夫「外務省は知らされていなかったと思いますねえ。あのー、主に公開情報の分析をやっていたじゃないですかねえ。外交官たちはどうも色んなものを見つけても、中立国で中にずうっと分け入って入っていったっていう、あんまりそういう報告はないですね」

 加藤陽子「じゃあ、なぜこのような重大な時期に有利な情報を比較的日本も手に入れたにも関わらず、重要な情報が共有されないのか」

 岡本行夫「まあ、情報の共有の問題以前にね、情報を軽視するところがあるんですね。兎に角ね。この、タテ割りの組織ですから、もう、軍も、それから日本政府全体もね。

 外から来る話っていうのは基本的には雑音なんですよ。自分たちが取ったもの以外はね。で、自分たちが取ったものを自分たちに都合いいものだけを、これを出していく。

 今から見るとね、様々ないい情報が来ていたんですね。でも、そういうものを総合的にその情報としてひとつの戦略に組み替えていくっていう、こういうことは殆どなされないんですねえ」

 加藤陽子「例えば、日本の歴史っていうのも、いいときも悪いときもありましたよね。例えば明治期日清・日露やったときにご存知のように明治天皇のもとでの元老というものが軍人でありながら文官でもあり、最高位を極めるという人は横の情報をお互いに知らせ合うわけですね。

 で、伊藤博文に教えておけ。伊藤博文に教えておけというようなことを山形(有朋)が言う。

 ま、そういうことがあったり、あと大正期には、これもあの比較的に知られていないかもしれないんですけども、中国に対する情報っていうのは日本は比較的に真面目に外務省も陸軍省も海軍省も摺り合わせる度量がありまして、『あら会』なんて言って、あぐらをかいて牛鍋を食べてっていうような情報の会同「=会合)ですね、それをやった実績は大正期にはあるんですね。

 しかしこの頃になりますと、この6人のメンバーで司会はいないんですよね。で、こういう情報が上がっていますが、どうでしょうっていうような話を向けて、全体としての協調を叩き出すような人がいない」

 姜尚中「だから、陸軍、海軍、まあ、あるいは首相とか、色々な国務大臣、それがセクショナリズム、縄張り意識がありながら、また、内部の中に現場を踏んでいる側と、それからまあ、中枢で色々なプロジェクトを練っている側との会議がある。

 そういうヨコとタテとの、それぞれのある種のタコツボがですね、こういうものが進んでいて、今までのものがもううまくいかないかもしれないという、そういう想定をしたくない。

 したくないから、そういうものはあり得ないと言うように、自分にも言い聞かせてるし、それで新しい事態に対応できなくなると――」

 ナレーション(女性)「昭和20年)6月初旬、沖縄の戦況は悪化の一途を辿り、守備隊の全滅が時間の問題となっていた。全国民に対して本土決戦の準備を加速するよう、指令が出された。

 国民の犠牲を省みずに捨て鉢の本土決戦に突き進んだように言われる当時の陸軍。しかし参謀本部作戦部長の宮崎周一の証言が本土決戦を前にした陸軍の全く違う側面を浮き彫りにしていた」

 参謀本部作戦部長宮崎周一(録音音声)「物的、客観的情勢に於いて、大体に於いてできると。あるいは相当な困難、あるいは極めて困難。

 まあ、この三つくらいに分けて、これは俺も考えた。(本土決戦は)極めて困難。はっきり言う。聞けば聞く程困難。極めて。

 それじゃあ断念するかというと、それは断念できない、俺には。作戦部長の立場に於いて、そんな事言うなんてことは、とても言えない。(一段と声を大きくして)思っても言えない」

 ナレーション(女性)「果たして陸軍トップはどのように戦争の幕引きを考えていたのか。意外にも当時の陸軍中央では戦争終結に向けた重大な転換が始まっていたと考えるのが気鋭の若手研究者、(明治大文学部講師)山本智之(ともゆき)さん。

 山本さんが注目したのは陸軍中央の人事です。戦争終盤の陸軍中央では徹底抗戦を主張する強硬な主戦派が主要なポストの大半を占め、僅かな数の早期講和派が存在していた。

 主戦派の東條大将が人事権を握ると、中央から早期講和派が一掃され、一段と主戦派の発言権が強まった。

 しかし昭和19年7月、東條に代わって梅津美治郎が参謀総長に就任すると、状況に変化が生じたという」

 組織の人事系統図を基に主戦派と早期講和派が色分けされた図が出る。

 明治大学講師山本智之「まあ、(主戦派の)服部卓四郎(参謀本部作戦課長)さんなんかはね、ずっと作戦課長をやっていたんですけども、(19)45年2月には支那派遣軍に転軍になりますよね。(主戦派の)真田穣一朗(参謀本部作戦部長)なんて言うのも、3月に中央の外に出されるんですよねえ。

 強硬な主戦派が徐々に排除され、逆に左遷されていた早期講和派の将校が呼び戻された。

 主戦派が陸軍中央からいなくなると、まあ、戦争終結に持っていきやすいっていう、そういった人事の可能性高いですよねえ。戦争継続路線から戦争終結路線へと方針転換するのって、急にはできないんですよね。

 少しずつ下準備をしていって、その上で方針転換をしていくっていう、まあ、梅津とか阿南という人物が慎重に戦争終結に導こうとしていたところが窺えますよねえ」

 ナレーション(女性)「徹底抗戦から戦争終結へという重大な転換が陸軍大臣の阿南の言動にも読み取ることができる。

 阿南は陸軍大臣に就任して以来、一貫して対米決戦を主張していた。しかし、この表向きの強硬姿勢の裏にある複雑な思いに触れたのは阿南の秘書官を務めた松谷誠(陸軍)大佐でした。

 自分が目の辺りにした陸軍トップの意外な一面を高木(惣吉海軍少将)にそっと明かしていた。それは5月末のある日、松谷が終戦に向けた独自の交渉プランを持って阿南を訪ねた時のことだった」

 〈高木惣吉の記録等をもとに再構成〉のキャプション

 陸軍大佐松谷誠「国体護持のほかは無条件と腹を決めるべきです。早ければ早い方が有利です。国内的にも軍がいくらやっても、もうだめだと分からせる時期です」 

 ナレーション(女性)「松谷の案は事実上の降伏受け入れであった。大臣の激怒を覚悟していた松谷。阿南の反応は予想外のものだった」

 陸軍大臣阿南惟幾「私も大体君の意見のとおりだ。君等、上の者の見通しは甘いと言う。だが、我らが心に思ったことを口に表せば、影響は大きい。

 私はペリーのときの下田の役人のように無様に慌てたくないのだ。準備は周到に堂々と進めねばならんのだ」

 ナレーション(女性)「厳しい結末を覚悟し、それを受け入れるための時間と準備が必要だと明かした阿南。問題はそのような時間が日本に残されているかである。

 こうした中、6月6日、新たな国家方針を話し合う最高戦争指導会議が開かれた。

 トップ6人だけですら、タテ割りの壁を崩せない中で局長や課長まで参加するこの会議では腹を割って話すことは一層困難となる」

 〈高木惣吉の記録等をもとに再構成〉のキャプション

 陸軍参謀次長河辺虎之助「講和条件の検討など、相手に足元を見られるだけです。あくまでも徹底抗戦を貫くべきです」

 ナレーション(女性)「河辺虎之助がこれまでの原則どおりに徹底抗戦を改めて主張した。阿南大臣もその強硬論に反論しなかったため、決定された方針は和平交渉から大幅に後退した内容となった」

 明治大学講師山本智之「それはやっぱり会議の席で、そういった弱音を吐くとね、やっぱり主戦派の方に伝わっちゃうんですよね。戦争推進派、主戦派への配慮ですよね。

 主戦派が暴走するのではないかと、いう、そういう懸念があるから、慎重な発言にならざるを得ないところがあるお思います」

 ナレーション(女性)「日本には敗戦も降伏もないと叫んできた軍にとって、徹底抗戦の方針は曲げるに曲げられないものとなっていた。

 しかし陸軍トップの苦しい胸の内は多くの側近が感じ取っていた」

 陸軍省軍務課長永井八津次(録音音声)「阿南さんの中は講和だったんですよねえ。初めっから講和なんです。阿南さんはね、ところが部下の者が非常に強く言うし、無条件降伏したときに天皇さんがどうなるのかっちゅう、ことがその当時から非常に大きな問題。

 天皇様、縛り首になるぞと。こういうわけだ。

 それでも尚且つ、お前らは無条件降伏を言うのかと。

 誰もそれに対しては、『いや、それでもやるんだ』っちゅう奴は誰もおりませんよ」

 (以上ここまで。疲れます。)

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