菅の一国のリーダーとしての人となり、自己判断なき無責任な姿が象徴的に現れた東電テレビ会議録画シーン

2012-08-07 09:26:07 | Weblog

昨日8月6日(2012年)、東京電力がテレビ会議映像を公開した。当時の菅首相の人となり、一国のリーダーとしての資質を象徴的に伝えている記事がある。

 その部分のみを参考引用するが、リンクを付けておいたから、閲読したい向きはアクセスを願いたい。

 太字は記事のママで、解説部分である。蛍光ペンは筆者による。菅の資質が象徴的に現れている個所。

 《「(首相は)説明すると、さんざんギャーギャー言う」…東電公開映像 現場の様子克明に》MSN産経/2012.8.6 21:57)  

 東京電力が6日公開した福島第1原発事故直後からの社内テレビ会議の録画映像。一部映像には音声も残されており、大声が飛び交う現場の生々しい様子が克明に記録されていた。公開された映像から判明した主なやりとりは以下の通り。(肩書は当時)
     ◇
 《震災翌日の平成23年3月12日午後11時。音声付きの映像は、官邸中枢からの指示に困惑する東電幹部の様子から始まった。事故直後から官邸に派遣されていた武黒一郎フェローが本店に戻って会議に加わり、こうぼやいた》

 武黒一郎フェロー「大体まあ、首相補佐官とか副長官みたいな人が事前の仕切りをするんですね。ご承知のように、民主党政権は若い人たちがそういう役になってますから。『イラ菅』という言葉があるけれども、あれから比べると吉田さん(吉田昌郎福島第1原発所長)のドツキなんてものは、かわいいものだと思いますけど」

 《官僚らを強圧的に怒鳴り上げる姿から付いた菅直人首相のあだ名「イラ菅」という言葉が飛び出した》

 武黒フェロー「昨日も、退避・避難の区域を決めたときに、最初は菅さん(菅首相)とかに呼ばれて『どうすんだ』『どうすりゃいいんだ』って言うわけですね。私と班目さん(班目春樹原子力安全委員長)が説明すると、『どういう根拠なんだ!』『それで何かあっても大丈夫だといえるのか!』とさんざんギャーギャー言うわけです

 《すでに、過剰な政治介入をうかがわせる》

 記事解説は、《すでに、過剰な政治介入をうかがわせる》で終わっているが、別の読み方もできる。

 「退避・避難区域」決定について、菅仮免は国会事故調参考人招致で次のように証言している。

 桜井委員「次に避難区域の設定、避難指示ということについてお伺いします。3キロという、避難を当初政府は決められておりますが、これはどういう根拠、どういう経緯で決定されたのでしょうか」

 菅仮免「避難につきましては、本来なら、後程議論になるかもしれませんが、オフサイトセンターなどからですね、現地の状況を踏まえて何らかの指針が出されて、それが本部長に対して承認を求めると、そういう形になるのが本来のルールであると思いますが、残念ながら、オフサイトセンターはその時点を含めて機能をいたしておりませんでした。

 そこで原子力・保安院、そして原子力安全委員会委員長、あるいは東電の関係者に集まって貰って、状況把握をしておりました。特にこの避難については必ず原子力安全委員会、当時は班目安全委員会委員長が一緒にしていただいている時間が長かったと思いますが、そのご意見を聞きながら、最終的にその意見に添って決めたところであります

 要するに班目原子力安全委員会委員長の意見を主とした原子力の専門家の「意見を聞きながら、最終的にその意見に添って決めた」としている。

 一見専門家たちの議論・検討を冷静、合理的に指揮・統率して決定したかのように見えるが、決定過程の実際の姿は、「『どうすんだ』『どうすりゃいいんだ』」、あるいは、「『どういう根拠なんだ!』『それで何かあっても大丈夫だといえるのか!』」といった冷静、合理的な指揮・統率とは正反対の冷静さを欠いた、指導者としては理性を失った非論理的な指揮・統率を展開させていたわけである。

 狼狽した姿さえ浮かんでくる。

 このこととは別に国会事故調参考人証言とテレビ会議録画映像発言とは相互対応した一つの姿を炙り出している。

 国会事故調参考人証言では、「そのご意見を聞きながら、最終的にその意見に添って決めたところであります」と言っているが、総理大臣が任命を受けることになっている原子力災害対策本部会議を指揮・統率する原子力災害対策本部長は断るまでもなく最終責任者の立場に位置している。

 最終責任者である以上、最終決定に関してはそこに自身の判断とその判断に対する責任がなければならない。

 だが、「最終的にその意見に添って決めた」という言葉には菅自身の判断を窺うことができない。

 菅自身の判断が不在だから、当然、その判断に対する責任意識など探りようがない。「退避・避難」は首相指示として行なっている。指示する以上、そこには指示者の判断の介在が必要不可欠となる。原子力の専門家の判断に従って、私が指示を出しますでは、自身の判断がないばかりか、責任の所在を原子力の専門家に預けることになって、何のための最終責任者か意味を失う。

 いわば最終責任者の自覚、責任意識の自覚を欠いていることから、自身の判断とその判断に対する責任意識を欠いた言葉となったのだろう。

 もし菅が最終責任者の自覚を持っていたなら、「彼らの意見を参考にして、最終的に私が判断しました」と言ったはずだ。

 そう言ってこそ、首相指示は責任の所在が明らかになる。

 東電テレビ会議録画の武黒フェロー証言菅発言である、「『どうすんだ』『どうすりゃいいんだ』」、あるいは、「『どういう根拠なんだ!』『それで何かあっても大丈夫だといえるのか!』」という言葉にも、原子力の専門家の意見を参考にした自身の判断に賭ける最終責任者としてのリーダーの姿はなく、第三者の判断にのみ依存しようとする、リーダーにあるまじき他力本願の姿しか浮かんでこない。

 特に、「それで何かあっても大丈夫だといえるのか!」という発言は、「何かあっても大丈夫だといえ」る絶対的な確証が証明されない限り自ら判断できないという意味となるばかりか、相手を信用も何もしていないにも関わらず、責任保証を相手に求める矛盾した言葉となる。あるいは責任の所在を自身にではなく、相手に置く矛盾した言葉となる。

 当然、その言葉は最終判断回避と責任回避を対応意識としていることになる。

 東電テレビ会議録画の武黒フェロー証言から浮かんでくる菅の姿というのはリーダーとしての自らの判断もない、責任意識もない姿が象徴的に現れているシーンとなっているということである。

 自らの判断もない、責任意識もないリーダーは他人に判断を任せ、責任まで任せて責任転嫁を専らとする。

 そして国会事故調参考人招致発言がこのことの明確な傍証になっているということである。

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